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恭明宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年4月4日 (火)

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'''恭明宮'''(きょうめいぐう)とは、明治初期に創建された、皇室歴代の念持仏を奉安する仏堂である。のち泉涌寺に遷座合祀された。
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[[ファイル:京都方広寺-15.jpeg|恭明宮跡にある京都国立博物館|thumb|500px]]
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'''恭明宮'''(きょうめいぐう)は、京都府京都市東山区茶屋町にあった[[光格天皇]]系の皇室歴代の位牌や念持仏などを奉安する[[宮内省]]管轄の霊廟・仏堂。のち[[泉涌寺]]に遷座合祀された。
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==奉斎==
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*神殿:[[孝明天皇]]
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*御霊殿:以下の4種の位牌仏像などが祀られていたという。
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**京都御所御黒戸から奉遷した位牌仏像など
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**水薬師寺から奉遷した夭折皇子女の位牌
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**薙髪女官が個人的に祀っていた位牌や念持仏
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**[[宝鏡寺]]・[[照臨院]]から奉遷した[[光格天皇]]作の[[阿弥陀如来]]像2体。
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==歴史==
皇室では平安時代中期より、[[御黒戸]]と呼ばれる間に、天皇皇族の位牌や念持仏を祀ってきた。しかし、明治維新に伴う皇室祭祀の神式化によって、お黒戸は廃止されることになった。皇室の祖先祭祀は、新たに創建された[[皇霊殿]]で行うこととなり、従来の天皇皇族の位牌と念持仏を宮中の外に遷す必要が生じた。そこで、新たに堂宇を建てて遷座奉安することになった。
皇室では平安時代中期より、[[御黒戸]]と呼ばれる間に、天皇皇族の位牌や念持仏を祀ってきた。しかし、明治維新に伴う皇室祭祀の神式化によって、お黒戸は廃止されることになった。皇室の祖先祭祀は、新たに創建された[[皇霊殿]]で行うこととなり、従来の天皇皇族の位牌と念持仏を宮中の外に遷す必要が生じた。そこで、新たに堂宇を建てて遷座奉安することになった。
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また明治天皇の東京行幸に伴わなかった女官たちの住居も設置された。
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1870年(明治3年)7月ごろには計画されていた。
1871年(明治4年)5月30日、[[水薬師寺]]の一室を恭明宮仮殿として遷座した。中御門経之が恭明宮御用掛に任じられた。
1871年(明治4年)5月30日、[[水薬師寺]]の一室を恭明宮仮殿として遷座した。中御門経之が恭明宮御用掛に任じられた。
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ついで、同年11月、[[方広寺]]境内(現在の京都国立博物館の地)に恭明宮を造営し、位牌・念持仏を遷座した。11月10日には宮内省の管轄となっている。
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ついで、同年11月、[[京都・方広寺|方広寺]]境内(現在の京都国立博物館の地)に恭明宮を造営し、位牌・念持仏を遷座した。11月10日には宮内省の管轄となっている。
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建設の際には、方広寺鐘楼(大坂の陣の理由にされた鐘が掛かる)が撤去された。
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しかし、恭明宮は廃止の方針となり、1873年(明治6年)3月14日(あるいは17日)、位牌・念持仏は[[泉涌寺]]に遷座した。3月3日付の岩倉具視による廃止の上申書が残されている。
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当初は舎利殿に奉安されたが、のち位牌などは霊明殿へ、念持仏などは海会堂に奉安された。
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水薬師寺に返還されたものもある。
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==社殿==
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東西の二区画に分かれており、東区画は孝明天皇に仕えた隠居女官の住居、西区画は薙髪した先代天皇女官の住居となっていた。
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東区画の最奥には孝明天皇を祀る「神殿」(御社壇)、西区画の最奥には歴代天皇の「御霊殿」(霊牌殿)があった。
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しかし、恭明宮は廃止の方針となり、1873年(明治6年)3月14日(あるいは17日)、位牌・念持仏は[[泉涌寺]]に遷座した。
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泉涌寺海会堂は「御霊殿」を移築したものの可能性があるという。
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当初は舎利殿に奉安されたが、のち海会堂(あるいは霊明殿?)に奉安された。
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水薬師寺尼詰所は[[豊国神社]]仮社務所となり、現在も社務所書院として当時の位置のまま現存している。
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他に付属建物の一部が京都盲唖院に移築された。現在も京都府立盲学校に恭明宮の瓦が残されているという。
==参考文献==
==参考文献==
*阪本健一1968年(昭和43年)「皇室に於ける神仏分離」『明治維新神道百年史』第4巻
*阪本健一1968年(昭和43年)「皇室に於ける神仏分離」『明治維新神道百年史』第4巻
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*1883年(明治16年)5月2日『開花新聞』44
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*「恭明宮関係史料」『岩倉具視関係文書』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920467/149]
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*「恭明宮関係書類 中御門家文書」『古典籍総合データベース』[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%e6%81%ad%e6%98%8e%e5%ae%ae%e9%96%a2%e4%bf%82%e6%9b%b8%e9%a1%9e]
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*「京都盲唖院における空間構成と教育プログラムに関する研究」[https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/75/647/75_647_25/_pdf]
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*京都府立盲学校ウェブサイト[http://www.kyoto-be.ne.jp/mou-s/]
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*京都市埋蔵文化財研究所「明治時代の恭明宮」[https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/349.pdf]
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*京都市埋蔵文化財研究所「発掘調査で見つかった恭明宮」[https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza277.pdf]
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*石野浩司2020「泉涌寺における明治期霊明殿の成立について再考」『明治聖徳記念学会紀要』57
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[[category:京都府]]

2023年4月4日 (火) 時点における最新版

恭明宮跡にある京都国立博物館

恭明宮(きょうめいぐう)は、京都府京都市東山区茶屋町にあった光格天皇系の皇室歴代の位牌や念持仏などを奉安する宮内省管轄の霊廟・仏堂。のち泉涌寺に遷座合祀された。

目次

奉斎

  • 神殿:孝明天皇
  • 御霊殿:以下の4種の位牌仏像などが祀られていたという。
    • 京都御所御黒戸から奉遷した位牌仏像など
    • 水薬師寺から奉遷した夭折皇子女の位牌
    • 薙髪女官が個人的に祀っていた位牌や念持仏
    • 宝鏡寺照臨院から奉遷した光格天皇作の阿弥陀如来像2体。

歴史

皇室では平安時代中期より、御黒戸と呼ばれる間に、天皇皇族の位牌や念持仏を祀ってきた。しかし、明治維新に伴う皇室祭祀の神式化によって、お黒戸は廃止されることになった。皇室の祖先祭祀は、新たに創建された皇霊殿で行うこととなり、従来の天皇皇族の位牌と念持仏を宮中の外に遷す必要が生じた。そこで、新たに堂宇を建てて遷座奉安することになった。

また明治天皇の東京行幸に伴わなかった女官たちの住居も設置された。

1870年(明治3年)7月ごろには計画されていた。 1871年(明治4年)5月30日、水薬師寺の一室を恭明宮仮殿として遷座した。中御門経之が恭明宮御用掛に任じられた。 ついで、同年11月、方広寺境内(現在の京都国立博物館の地)に恭明宮を造営し、位牌・念持仏を遷座した。11月10日には宮内省の管轄となっている。 建設の際には、方広寺鐘楼(大坂の陣の理由にされた鐘が掛かる)が撤去された。

しかし、恭明宮は廃止の方針となり、1873年(明治6年)3月14日(あるいは17日)、位牌・念持仏は泉涌寺に遷座した。3月3日付の岩倉具視による廃止の上申書が残されている。 当初は舎利殿に奉安されたが、のち位牌などは霊明殿へ、念持仏などは海会堂に奉安された。 水薬師寺に返還されたものもある。


社殿

東西の二区画に分かれており、東区画は孝明天皇に仕えた隠居女官の住居、西区画は薙髪した先代天皇女官の住居となっていた。 東区画の最奥には孝明天皇を祀る「神殿」(御社壇)、西区画の最奥には歴代天皇の「御霊殿」(霊牌殿)があった。

泉涌寺海会堂は「御霊殿」を移築したものの可能性があるという。 水薬師寺尼詰所は豊国神社仮社務所となり、現在も社務所書院として当時の位置のまま現存している。 他に付属建物の一部が京都盲唖院に移築された。現在も京都府立盲学校に恭明宮の瓦が残されているという。

参考文献

  • 阪本健一1968年(昭和43年)「皇室に於ける神仏分離」『明治維新神道百年史』第4巻
  • 1883年(明治16年)5月2日『開花新聞』44
  • 「恭明宮関係史料」『岩倉具視関係文書』[1]
  • 「恭明宮関係書類 中御門家文書」『古典籍総合データベース』[2]
  • 「京都盲唖院における空間構成と教育プログラムに関する研究」[3]
  • 京都府立盲学校ウェブサイト[4]
  • 京都市埋蔵文化財研究所「明治時代の恭明宮」[5]
  • 京都市埋蔵文化財研究所「発掘調査で見つかった恭明宮」[6]
  • 石野浩司2020「泉涌寺における明治期霊明殿の成立について再考」『明治聖徳記念学会紀要』57
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%81%AD%E6%98%8E%E5%AE%AE」より作成

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