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摂津・毫摂寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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(日本歴史地名大系)
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===近世近代===
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*1819年3月23日:焼失[https://dl.ndl.go.jp/pid/3030444/1/374][https://dl.ndl.go.jp/pid/3030444/1/369]
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*1908年(明治41年)1月:別格寺。[https://dl.ndl.go.jp/pid/822565/1/33]
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file:摂津毫摂寺-01.jpeg|小浜宿南門
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file:摂津毫摂寺・小浜宿資料館模型-02.jpeg|小浜宿資料館展示模型
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==資料==
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*私心記[https://dl.ndl.go.jp/pid/9574026/1/266]
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*宝塚市史 第7巻 (別編 1 文化遺産編)「毫摂寺本堂」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9574622/1/43]
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*宝塚市史 第2巻「小浜毫摂寺の建立」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9573342/1/124]
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[[category:兵庫県]]
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2023年1月29日 (日) 時点における版

摂津毫摂寺-03.jpeg

毫摂寺(ごうしょうじ)は、兵庫県宝塚市にある浄土真宗寺院。浄土真宗本願寺派真宗出雲路派本山越前毫摂寺と由来を同じくし、京都・毫摂寺の後継寺院の一つ。小浜御坊。寺内町小浜(こはま)を形成。山号は出雲路山。(参考:同名寺院毫摂寺


目次

歴史

起源

京都毫摂寺は丹波の乗専が創建。4世の善幸(越前毫摂寺の伝では5世)は伽藍が戦乱で焼失したため、次男の善鎮と共に越前に移ったが、長男の善秀は京都に残った。 まもなく善秀は摂津小浜(こはま)に移った。 文明6年(1474)6世の善鎮は蓮如に帰依し、8世善秀は天文5年(1536)に本堂を造営したと伝える。 ただ史料では文明15年(1483)に蓮如が有馬温泉に湯治に行った時、小浜や毫摂寺ではなく、すぐ近くの舞谷(米谷)に滞在しており、まだ寺院はなかったと考えられている。善秀、善鎮の名も重複しており、別人物なのか同一人物なのかよく分からない。善幸も善智と混同されて記録されることがあると言われ、伝承が錯綜している。

成立

『摂陽群談』によると明応年間(1492-1501)に小浜荘が開かれた時に毫摂寺善秀が関与しており、この時までには小浜に成立していたのだろう。順興寺実従が永禄3年(1560)に有馬温泉に行った時は毫摂寺で駕籠を用意しており、拠点になっていたことが分かる。 豊臣秀吉も有馬温泉に向かう途中で毫摂寺に滞在したという。 乗専筆の書を所蔵する。

(日本歴史地名大系)

近世近代

  • 1819年3月23日:焼失[1][2]
  • 1908年(明治41年)1月:別格寺。[3]

資料

  • 私心記[4]
  • 宝塚市史 第7巻 (別編 1 文化遺産編)「毫摂寺本堂」[5]
  • 宝塚市史 第2巻「小浜毫摂寺の建立」[6]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E3%83%BB%E6%AF%AB%E6%91%82%E5%AF%BA」より作成

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