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敢国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''敢国神社'''(あえくに・じんじゃ)は三重県伊賀市一之宮(伊賀国阿拝郡)にある神社。祭神は大彦命。少彦名命と金山比咩命を配祀する。
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この地を開拓した古代の[[阿閇氏]]の祖神とするのが定説だが、中世には[[諏訪信仰]][[南宮信仰]]の神社でもあった。[[官社]][[名神大社]][[諸国一宮|伊賀国一宮]][[国幣中社]][[別表神社]]。伊賀国[[総社]]という説もある。別当は神光院だった。
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'''南宮社'''、'''敢国津大社'''、'''敢国角大明神'''とも呼ばれた。
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|四道将軍を奉斎する神社。伊賀の開拓神を奉斎する神社。
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|style="background-color:#ededed"|奉斎
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|敢国津神<br>(土岐昌訓論文)
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|三重県伊賀市一之宮877
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|伊賀国阿拝郡
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|[[皇族奉斎神社]]
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*少彦名命
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近代には総称して「敢国津神」とされている。これは『文徳実録』850年(嘉祥3年)6月4日に登場する神名(神社名)。
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1687年(貞享4年)の『伊水温故』は祭神3座とする。「少彦名命」と「南宮金山日売」を主祭神とし、少彦名命の御神体は「仙人ノ影像」、南宮金山日売はとぐろを巻いた「蛇形」というまた相殿として「甲賀三郎」を祀り、十一面観音の坐像を祀っていたという。1763年(宝暦13年)『三国地志』では「少彦名命」「金山比咩命」を祭神とし、甲賀三郎を摂社祭神とする。
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大彦命説の初見は1713年(正徳3年)の度会延経『神名帳考証』で、伊賀国の阿拝郡を根拠とした阿閇氏の祖神とされる。ただ中世には諏訪信仰の影響下にあり、諏訪神(諏訪南宮法性上下大明神)であったり、諏訪神と関係の深い南宮菩薩(南宮大社祭神)や甲賀三郎であったりされた。1568年(永禄11年)吉田兼右は中世に諏訪神が祀られるまでは大岩明神が「根本」だったと記す(兼右卿記)。大岩明神は近くの磐座に祀られていた神で、現在は境内の大石社として残る。
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==歴史==
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現在の神社由緒では658年(斉明4年)の創建とされる。
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768年(神護景雲2年)、近江国甲賀郡の峰寺(不詳)に「諏訪春日姫」が降臨し、敢国神社の背後の南宮山に遷り、后神となったという。
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850年(嘉祥3年)6月4日の時点で従五位下とある(文徳実録)。
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867年(貞観9年)10月5日、従五位上(三代実録)。873年(貞観15年)9月27日、正五位下(三代実録)。891年(寛平3年)4月28日、正五位上(日本紀略)。
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1341年(興国2年/暦応4年)、南朝が正一位を授けたという伝もある(南朝編年記略)。
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1579年(天正7年)と1581年(天正9年)の「伊賀の乱」で伊賀地侍と織田信長軍が激突し、兵火に焼かれた。この時、信長が南宮山の頂上に登っている。
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1582年(天正10年)に本能寺の変で信長が討たれると、伊賀地侍が蜂起した。
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戦乱で社殿は焼失し、「神体」が流亡した。
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復興の端緒を手掛けたのが小天狗清蔵という修験者だった。1593年(文禄2年)6月8日に社殿の上棟を行っている。
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1608年(慶長13年)に伊賀上野藩主に藤堂高虎が入封すると敢国神社を崇敬。改めて社殿を造営し、1609年(慶長14年)12月に本殿を上棟している。まもなく竣工したのだろう。1612年(慶長17年)、黒印地107石を寄進された。
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天正の戦乱で流亡した「神体」の1体は山城国伏見に流出したという。これを伊賀国島ケ原の水口佐右衛門という人物が取り戻し、神社への還座が実現。1620年(元和6年)1月の礼状が現存している。『伊水温故』ではこの時取り戻した御神体を「甲賀三郎の像」とする。
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1871年(明治4年)国幣中社。
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==境内==
==境内==
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*本社:
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*若宮八幡社:
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*子授社:
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*神明社:
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*楠社:[[南木神社]]の分社。
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*大石社:磐座から遷座。
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*市杵島姫社:
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*六所社:甲賀兼家の霊像も祀るという。
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*九所社:
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*桃太郎岩:
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*護摩堂:藩主藤堂高次が1636年(寛永13年)6月建立。南宮山神光院と称し、敢国神社の別当寺となった。1665年(寛文5年)1月には将軍のための祈祷を行った記録もある。廃絶。
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*御旅所:三重県伊賀市千歳野添。廃絶か。
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*府中神社:三重県伊賀市佐那具町。1907年(明治40年)周辺の神社を合祀。現在は敢国神社の御旅所となっている。
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*浅間社:南宮山の山頂にある。
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*磐座:神社の南200mの大岩古墳と道を隔てる場所にあった。「黒岩」と呼ばれていた。現存せず。大石社として遷座。
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*南宮山:標高350m。金山比咩命の旧社地。現在は浅間社がある。
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*[[大彦命墓_伊賀伝承地|大彦命墓]]:三重県伊賀市佐那具町。全長180m。三重県内最大の古墳。前方後円墳。北1kmにある。治定外。御墓山古墳。治定実現運動が大正年間に行われた。
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==組織==
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社家としては東家、南家、中西家があった。
===宮司===
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===権宮司===
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==古典籍==
 
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==参考文献==
 
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*土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』
 
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==脚注==
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==資料==
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[[category:三重県]]

2020年2月24日 (月) 時点における版

敢国神社

敢国神社(あえくに・じんじゃ)は三重県伊賀市一之宮(伊賀国阿拝郡)にある神社。祭神は大彦命。少彦名命と金山比咩命を配祀する。 この地を開拓した古代の阿閇氏の祖神とするのが定説だが、中世には諏訪信仰南宮信仰の神社でもあった。官社名神大社伊賀国一宮国幣中社別表神社。伊賀国総社という説もある。別当は神光院だった。 南宮社敢国津大社敢国角大明神とも呼ばれた。

目次

奉斎

  • 大彦命
  • 少彦名命
  • 金山比咩命

近代には総称して「敢国津神」とされている。これは『文徳実録』850年(嘉祥3年)6月4日に登場する神名(神社名)。 1687年(貞享4年)の『伊水温故』は祭神3座とする。「少彦名命」と「南宮金山日売」を主祭神とし、少彦名命の御神体は「仙人ノ影像」、南宮金山日売はとぐろを巻いた「蛇形」というまた相殿として「甲賀三郎」を祀り、十一面観音の坐像を祀っていたという。1763年(宝暦13年)『三国地志』では「少彦名命」「金山比咩命」を祭神とし、甲賀三郎を摂社祭神とする。 大彦命説の初見は1713年(正徳3年)の度会延経『神名帳考証』で、伊賀国の阿拝郡を根拠とした阿閇氏の祖神とされる。ただ中世には諏訪信仰の影響下にあり、諏訪神(諏訪南宮法性上下大明神)であったり、諏訪神と関係の深い南宮菩薩(南宮大社祭神)や甲賀三郎であったりされた。1568年(永禄11年)吉田兼右は中世に諏訪神が祀られるまでは大岩明神が「根本」だったと記す(兼右卿記)。大岩明神は近くの磐座に祀られていた神で、現在は境内の大石社として残る。


歴史

現在の神社由緒では658年(斉明4年)の創建とされる。 768年(神護景雲2年)、近江国甲賀郡の峰寺(不詳)に「諏訪春日姫」が降臨し、敢国神社の背後の南宮山に遷り、后神となったという。

850年(嘉祥3年)6月4日の時点で従五位下とある(文徳実録)。 867年(貞観9年)10月5日、従五位上(三代実録)。873年(貞観15年)9月27日、正五位下(三代実録)。891年(寛平3年)4月28日、正五位上(日本紀略)。 1341年(興国2年/暦応4年)、南朝が正一位を授けたという伝もある(南朝編年記略)。

1579年(天正7年)と1581年(天正9年)の「伊賀の乱」で伊賀地侍と織田信長軍が激突し、兵火に焼かれた。この時、信長が南宮山の頂上に登っている。 1582年(天正10年)に本能寺の変で信長が討たれると、伊賀地侍が蜂起した。 戦乱で社殿は焼失し、「神体」が流亡した。

復興の端緒を手掛けたのが小天狗清蔵という修験者だった。1593年(文禄2年)6月8日に社殿の上棟を行っている。

1608年(慶長13年)に伊賀上野藩主に藤堂高虎が入封すると敢国神社を崇敬。改めて社殿を造営し、1609年(慶長14年)12月に本殿を上棟している。まもなく竣工したのだろう。1612年(慶長17年)、黒印地107石を寄進された。

天正の戦乱で流亡した「神体」の1体は山城国伏見に流出したという。これを伊賀国島ケ原の水口佐右衛門という人物が取り戻し、神社への還座が実現。1620年(元和6年)1月の礼状が現存している。『伊水温故』ではこの時取り戻した御神体を「甲賀三郎の像」とする。

1871年(明治4年)国幣中社。

境内

  • 本社:
  • 若宮八幡社:
  • 子授社:
  • 神明社:
  • 楠社:南木神社の分社。
  • 結社:
  • 大石社:磐座から遷座。
  • 市杵島姫社:
  • 六所社:甲賀兼家の霊像も祀るという。
  • 九所社:
  • 桃太郎岩:
  • 護摩堂:藩主藤堂高次が1636年(寛永13年)6月建立。南宮山神光院と称し、敢国神社の別当寺となった。1665年(寛文5年)1月には将軍のための祈祷を行った記録もある。廃絶。


  • 御旅所:三重県伊賀市千歳野添。廃絶か。
  • 府中神社:三重県伊賀市佐那具町。1907年(明治40年)周辺の神社を合祀。現在は敢国神社の御旅所となっている。
  • 浅間社:南宮山の山頂にある。
  • 磐座:神社の南200mの大岩古墳と道を隔てる場所にあった。「黒岩」と呼ばれていた。現存せず。大石社として遷座。
  • 南宮山:標高350m。金山比咩命の旧社地。現在は浅間社がある。
  • 大彦命墓:三重県伊賀市佐那具町。全長180m。三重県内最大の古墳。前方後円墳。北1kmにある。治定外。御墓山古墳。治定実現運動が大正年間に行われた。


組織

社家としては東家、南家、中西家があった。

宮司

権宮司

  • 藤堂元施(1836-1877):津藩家老。


画像

資料

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%95%A2%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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