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斑鳩寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''斑鳩寺'''(いかるが・でら)は、兵庫県揖保郡太子町にある[[聖徳太子]]ゆかりの[[天台宗]]寺院。本尊は[[釈迦如来]]・[[薬師如来]]・[[如意輪観音]]。[[法隆寺]]の荘園があった。
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'''斑鳩寺'''(いかるが・でら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤(播磨国揖保郡)にある[[聖徳太子]]ゆかりの[[天台宗]]寺院。本尊は[[釈迦如来]]・[[薬師如来]]・[[如意輪観音]]。[[法隆寺]]の荘園があった。
==歴史==
==歴史==
聖徳太子が[[推古天皇]]から大和[[法隆寺]]のためにこの地の水田を施入された時に同時に斑鳩寺も創建されたという。
聖徳太子が[[推古天皇]]から大和[[法隆寺]]のためにこの地の水田を施入された時に同時に斑鳩寺も創建されたという。
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以後、法隆寺領を管理する拠点として機能したと思われる。
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法隆寺の創建直後に維持運営費を捻出するための財源としてこの地が寄進されたことはおそらく史実で、管理統治するための法隆寺の出先機関が起源とみられる。
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1329年の法隆寺蔵の鵤庄絵図には斑鳩寺と太子堂が描かれている。
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1516年の伽藍修理や1524年の太子堂の檜皮葺き替えを援助した円山真久という人物は、たび重なる功績で法隆寺から地下の太子講衆頭役という役職に任じられており、斑鳩寺と法隆寺が密接な関係にあったことが分かる(斑鳩寺文書および法隆寺文書)。
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747年成立の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、598年、推古天皇が「播磨国佐西地」の50万代を法隆寺に施入したと記されている。
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「佐西地」は『上宮聖徳法王帝説』などでは「佐勢地」と表記される。平安時代には中世的な荘園となり、鵤庄と呼ばれた。
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『法隆寺別当次第』によると法隆寺は別当親誉の時代に鵤庄に寺主慶好を実検使として派遣したとあるので、親誉が別当になった1039年以前には鵤庄が成立していたとみられる。
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鵤庄の支配をめぐり、法隆寺は地頭、幕府、在地代官、武将らとたびたび争い、守ってきたが、戦国時代以降は衰えた。
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1516年の伽藍修理や1524年の太子堂の檜皮葺き替えを援助した円山真久という人物は、たび重なる功績で法隆寺から地下の太子講衆頭役という役職に任じられており、この時点ではまだ斑鳩寺と法隆寺が密接な関係にあったことが分かる(斑鳩寺文書および法隆寺文書)。しかし1577年の豊臣秀吉の播磨侵攻以降は法隆寺への年貢上納は完全に途絶えた。
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1329年と1386年の「鵤庄絵図」が法隆寺に残されており、斑鳩寺とその周辺の様子が分かる。寿福寺・若王子・楽々山(楽々寺)・松尾寺・佐福寺・孝恩寺・春日神社・新善光寺・念仏堂・妙見・稗田神社・斑鳩寺・太子堂・佐岡寺・八幡宮・東保八幡社を示す。また満願寺・成福寺・聖霊の名を記す。
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どの程度実態を反映し、どのような由緒をもった寺社なのか判然としないが、孝恩寺については名主が創建したもので、建武年間に叡実という僧侶が律宗として復興したという。
1541年(天文10年)、伽藍焼失。
1541年(天文10年)、伽藍焼失。
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1556年(弘治2年)、講堂再建。
1556年(弘治2年)、講堂再建。
1565年(永禄8年)、三重塔再建。
1565年(永禄8年)、三重塔再建。
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江戸時代、[[延暦寺]]直末となる。
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広山八幡宮([[阿宗神社]])の祭祀を行った。
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江戸時代、[[延暦寺]]直末となる。1617年、下間[[池田家]]を藩主とする鵤藩の陣屋がすぐそばにあったが、1627年、新宮に移った。
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寛文年間、臨済宗の[[播磨・龍門寺]]開山の盤珪が留錫して多くの寺僧が師事した。
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朱印地154石。
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鎌倉時代の文永年間以来、広山八幡宮([[阿宗神社]])の祭祀を司ってきたという。
明治以後、皇族による太子像の御衣奉納が恒例となる。
明治以後、皇族による太子像の御衣奉納が恒例となる。
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寺宝に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる石がある。
寺宝に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる石がある。
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(『日本歴史地名大系』ほか)
==伽藍==
==伽藍==
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*講堂:本堂。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。飛鳥時代の仏像を模した鎌倉時代末〜室町時代の作。秘仏で2月22-23日の春会式で開帳。1556年再建。
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*講堂:斑鳩寺の本堂。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。飛鳥時代の仏像を模した鎌倉時代末〜室町時代の作。秘仏で2月22-23日の春会式で開帳。1556年再建。講堂という名称から考えると、また別に金堂があったのかもしれない。
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*聖徳殿:太子堂。「植髪の太子」(孝養像)を祀る。1541年焼失。1551年再建。1665年修造。1916年、中殿と奥殿を増築。奥殿は法隆寺夢殿を模した八角堂。
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*聖徳殿:「植髪の太子」(孝養像)を祀る。1541年焼失。1551年再建。1665年修造。1916年、中殿と奥殿を増築。奥殿は法隆寺夢殿を模した八角堂。太子堂。太子御堂とも。
*三重塔:1565年の再建。
*三重塔:1565年の再建。
*弥勒堂:
*弥勒堂:
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*薬師堂:廃絶?
*薬師堂:廃絶?
*聖霊権現社:1827年造営。
*聖霊権現社:1827年造営。
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*稗田神社:
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*稗田神社:祭神は稗田阿礼命・素盞嗚尊・聖徳太子。『斑鳩寺記録』では祭神は太子妃の膳大娘。郷社。
*山王社:1656年造営。
*山王社:1656年造営。
*天神社:1835年造営。
*天神社:1835年造営。
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*鐘楼:1693年造営。
*鐘楼:1693年造営。
*八幡社:?
*八幡社:?
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*鵤荘牓示石:太子の投げ石。
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==関連旧跡==
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*檀特山
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*鵤荘牓示石:太子の投げ石。嘉暦図には12個、至徳図に9個記す。
**兵庫県太子町鵤北山根。
**兵庫県太子町鵤北山根。
**兵庫県太子町東南。
**兵庫県太子町東南。
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*保性院:廃絶。1649年造営と推定される建物が庫裏として残されている。浄土坊。
*保性院:廃絶。1649年造営と推定される建物が庫裏として残されている。浄土坊。
*保寿院:廃絶。
*保寿院:廃絶。
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*仏餉院:廃絶。
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*仏餉院:廃絶。寂阿(潜嶽祖龍)は臨済宗盤珪に師事して[[伊予・如法寺]]住職となる。
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*双樹院:廃絶。
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*双樹院:廃絶。義淳(祖言)は臨済宗の盤珪に師事して伊予天徳寺住職となる。
*不動院:廃絶。
*不動院:廃絶。
*実相院:廃絶。
*実相院:廃絶。

2021年1月19日 (火) 時点における版

斑鳩寺(いかるが・でら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤(播磨国揖保郡)にある聖徳太子ゆかりの天台宗寺院。本尊は釈迦如来薬師如来如意輪観音法隆寺の荘園があった。

目次

歴史

聖徳太子が推古天皇から大和法隆寺のためにこの地の水田を施入された時に同時に斑鳩寺も創建されたという。 法隆寺の創建直後に維持運営費を捻出するための財源としてこの地が寄進されたことはおそらく史実で、管理統治するための法隆寺の出先機関が起源とみられる。

747年成立の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、598年、推古天皇が「播磨国佐西地」の50万代を法隆寺に施入したと記されている。 「佐西地」は『上宮聖徳法王帝説』などでは「佐勢地」と表記される。平安時代には中世的な荘園となり、鵤庄と呼ばれた。 『法隆寺別当次第』によると法隆寺は別当親誉の時代に鵤庄に寺主慶好を実検使として派遣したとあるので、親誉が別当になった1039年以前には鵤庄が成立していたとみられる。 鵤庄の支配をめぐり、法隆寺は地頭、幕府、在地代官、武将らとたびたび争い、守ってきたが、戦国時代以降は衰えた。 1516年の伽藍修理や1524年の太子堂の檜皮葺き替えを援助した円山真久という人物は、たび重なる功績で法隆寺から地下の太子講衆頭役という役職に任じられており、この時点ではまだ斑鳩寺と法隆寺が密接な関係にあったことが分かる(斑鳩寺文書および法隆寺文書)。しかし1577年の豊臣秀吉の播磨侵攻以降は法隆寺への年貢上納は完全に途絶えた。

1329年と1386年の「鵤庄絵図」が法隆寺に残されており、斑鳩寺とその周辺の様子が分かる。寿福寺・若王子・楽々山(楽々寺)・松尾寺・佐福寺・孝恩寺・春日神社・新善光寺・念仏堂・妙見・稗田神社・斑鳩寺・太子堂・佐岡寺・八幡宮・東保八幡社を示す。また満願寺・成福寺・聖霊の名を記す。 どの程度実態を反映し、どのような由緒をもった寺社なのか判然としないが、孝恩寺については名主が創建したもので、建武年間に叡実という僧侶が律宗として復興したという。

1541年(天文10年)、伽藍焼失。 龍野円勝寺の昌仙が復興に努め、以後天台宗となる。 1551年(天文20年)、太子堂再建。 1556年(弘治2年)、講堂再建。 1565年(永禄8年)、三重塔再建。

江戸時代、延暦寺直末となる。1617年、下間池田家を藩主とする鵤藩の陣屋がすぐそばにあったが、1627年、新宮に移った。 寛文年間、臨済宗の播磨・龍門寺開山の盤珪が留錫して多くの寺僧が師事した。 朱印地154石。 鎌倉時代の文永年間以来、広山八幡宮(阿宗神社)の祭祀を司ってきたという。

明治以後、皇族による太子像の御衣奉納が恒例となる。 1879年(明治12年)に有栖川宮により、1935年(昭和10年)に久邇宮により奉納。1962年(昭和37年)には高松宮により奉納され、2月22日に御衣替法要が営まれた。

寺宝に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる石がある。

(『日本歴史地名大系』ほか)

伽藍

  • 講堂:斑鳩寺の本堂。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。飛鳥時代の仏像を模した鎌倉時代末〜室町時代の作。秘仏で2月22-23日の春会式で開帳。1556年再建。講堂という名称から考えると、また別に金堂があったのかもしれない。
  • 聖徳殿:「植髪の太子」(孝養像)を祀る。1541年焼失。1551年再建。1665年修造。1916年、中殿と奥殿を増築。奥殿は法隆寺夢殿を模した八角堂。太子堂。太子御堂とも。
  • 三重塔:1565年の再建。
  • 弥勒堂:
  • 護摩堂:廃絶?
  • 薬師堂:廃絶?
  • 聖霊権現社:1827年造営。
  • 稗田神社:祭神は稗田阿礼命・素盞嗚尊・聖徳太子。『斑鳩寺記録』では祭神は太子妃の膳大娘。郷社。
  • 山王社:1656年造営。
  • 天神社:1835年造営。
  • 池田重利・池田重政墓:池田家
  • 赤松政秀・赤松広英供養塔
  • 聖宝殿:宝物収蔵庫。
  • 仁王門:1673年再建。
  • 鐘楼:1693年造営。
  • 八幡社:?

関連旧跡

  • 檀特山
  • 鵤荘牓示石:太子の投げ石。嘉暦図には12個、至徳図に9個記す。
    • 兵庫県太子町鵤北山根。
    • 兵庫県太子町東南。
    • 兵庫県太子町平方。
    • 兵庫県太子町松ケ下。
    • 兵庫県太子町東出。
    • 兵庫県姫路市大谷。

子院

  • 宝勝院:現存?
  • 保性院:廃絶。1649年造営と推定される建物が庫裏として残されている。浄土坊。
  • 保寿院:廃絶。
  • 仏餉院:廃絶。寂阿(潜嶽祖龍)は臨済宗盤珪に師事して伊予・如法寺住職となる。
  • 双樹院:廃絶。義淳(祖言)は臨済宗の盤珪に師事して伊予天徳寺住職となる。
  • 不動院:廃絶。
  • 実相院:廃絶。
  • 円光院:廃絶。
  • 円寿院:廃絶。
  • 香林坊:廃絶。
  • 普門院:廃絶。
  • 西之坊:廃絶。
  • 東円坊:廃絶。
  • 理教坊:廃絶。
  • 本住寺:廃絶。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%96%91%E9%B3%A9%E5%AF%BA」より作成

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