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斑鳩寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年1月23日 (土)
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+ | [[file:C7836079-DA2F-44A9-9E78-8C7A129B37CE.jpeg|聖徳殿|thumb|400px]] | ||
'''斑鳩寺'''(いかるが・でら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤(播磨国揖保郡)にある[[聖徳太子]]ゆかりの[[天台宗]]寺院。本尊は[[釈迦如来]]・[[薬師如来]]・[[如意輪観音]]。[[法隆寺]]の荘園があった。 | '''斑鳩寺'''(いかるが・でら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤(播磨国揖保郡)にある[[聖徳太子]]ゆかりの[[天台宗]]寺院。本尊は[[釈迦如来]]・[[薬師如来]]・[[如意輪観音]]。[[法隆寺]]の荘園があった。 | ||
==歴史== | ==歴史== | ||
+ | [[file:84AD0153-38CD-4244-AEE7-ACBE948B1B3A.jpeg|寺号碑|200px|thumb]] | ||
+ | [[file:4AF498AB-8031-4164-B30E-CA6DBEE63AB8.jpeg|三重塔|300px|thumb]] | ||
聖徳太子が[[推古天皇]]から大和[[法隆寺]]のためにこの地の水田を施入された時に同時に斑鳩寺も創建されたという。 | 聖徳太子が[[推古天皇]]から大和[[法隆寺]]のためにこの地の水田を施入された時に同時に斑鳩寺も創建されたという。 | ||
法隆寺の創建直後に維持運営費を捻出するための財源としてこの地が寄進されたことはおそらく史実で、管理統治するための法隆寺の出先機関が起源とみられる。 | 法隆寺の創建直後に維持運営費を捻出するための財源としてこの地が寄進されたことはおそらく史実で、管理統治するための法隆寺の出先機関が起源とみられる。 | ||
- | + | 747年(天平19年)成立の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、598年(推古6年)、推古天皇が「播磨国佐西地」の50万代を法隆寺に施入したと記されている。 | |
「佐西地」は『上宮聖徳法王帝説』などでは「佐勢地」と表記される。平安時代には中世的な荘園となり、鵤庄と呼ばれた。 | 「佐西地」は『上宮聖徳法王帝説』などでは「佐勢地」と表記される。平安時代には中世的な荘園となり、鵤庄と呼ばれた。 | ||
- | + | 『法隆寺別当次第』によると法隆寺は別当親誉の時代に鵤庄に寺主慶好を実検使として派遣したとあるので、親誉が別当になった1039年(長暦3年)以前には鵤庄が成立していたとみられる。 | |
鵤庄の支配をめぐり、法隆寺は地頭、幕府、在地代官、武将らとたびたび争い、守ってきたが、戦国時代以降は衰えた。 | 鵤庄の支配をめぐり、法隆寺は地頭、幕府、在地代官、武将らとたびたび争い、守ってきたが、戦国時代以降は衰えた。 | ||
- | + | 1516年(永正13年)の伽藍修理や1524年(大永4年)の太子堂の檜皮葺き替えを援助した円山真久という人物は、たび重なる功績で法隆寺から地下の太子講衆頭役という役職に任じられており、この時点ではまだ斑鳩寺と法隆寺が密接な関係にあったことが分かる(斑鳩寺文書および法隆寺文書)。しかし1577年(天正5年)の豊臣秀吉の播磨侵攻以降は法隆寺への年貢上納は完全に途絶えた。 | |
- | + | 1329年(元徳1年・嘉暦4年)と1386年(元中3年/至徳3年)の「鵤庄絵図」(嘉暦図と至徳図)が法隆寺に残されており、斑鳩寺とその周辺の様子が分かる。寿福寺・若王子・楽々山(楽々寺)・松尾寺・佐福寺・孝恩寺・春日神社・新善光寺・念仏堂・妙見・稗田神社・斑鳩寺・太子堂・佐岡寺・八幡宮・東保八幡社を示す。また満願寺・成福寺・聖霊の名を記す。 | |
どの程度実態を反映し、どのような由緒をもった寺社なのか判然としないが、孝恩寺については名主が創建したもので、建武年間に叡実という僧侶が律宗として復興したという。 | どの程度実態を反映し、どのような由緒をもった寺社なのか判然としないが、孝恩寺については名主が創建したもので、建武年間に叡実という僧侶が律宗として復興したという。 | ||
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1565年(永禄8年)、三重塔再建。 | 1565年(永禄8年)、三重塔再建。 | ||
- | 江戸時代、[[延暦寺]] | + | 江戸時代、[[延暦寺]]直末となる。1617年(元和3年)、下間[[池田家]](元は[[本願寺]]の坊官)を藩主とする鵤藩の陣屋がすぐそばにあったが、1627年(寛永4年)、新宮に移った。 |
- | + | 寛文年間、[[臨済宗]]の[[播磨・龍門寺]]開山の盤珪が留錫して多くの寺僧が師事した。 | |
朱印地154石。 | 朱印地154石。 | ||
鎌倉時代の文永年間以来、広山八幡宮([[阿宗神社]])の祭祀を司ってきたという。 | 鎌倉時代の文永年間以来、広山八幡宮([[阿宗神社]])の祭祀を司ってきたという。 | ||
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(『日本歴史地名大系』ほか) | (『日本歴史地名大系』ほか) | ||
==伽藍== | ==伽藍== | ||
- | *講堂:斑鳩寺の本堂。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。飛鳥時代の仏像を模した鎌倉時代末〜室町時代の作。秘仏で2月22- | + | [[file:5213DBC8-CEB4-42CF-91B7-8C1E80A4719F.jpeg|講堂|thumb|350px]] |
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+ | *講堂:斑鳩寺の本堂。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。飛鳥時代の仏像を模した鎌倉時代末〜室町時代の作。秘仏で2月22-23日の春会式で開帳。1556年(弘治2年)再建。1769年(明和6年)再建。講堂という名称から考えると、また別に金堂があったのかもしれない。 | ||
+ | *聖徳殿:「植髪の太子」(孝養像)を祀る。1541年(天文10年)焼失。1551年(天文20年)再建。1665年(寛文5年)再建。1916年(大正5年)、中殿と奥殿を増築。奥殿は法隆寺夢殿を模した八角堂。太子堂。太子御堂とも。 | ||
+ | *三重塔:1565年(永禄8年)の再建。 | ||
*弥勒堂: | *弥勒堂: | ||
*護摩堂:廃絶? | *護摩堂:廃絶? | ||
*薬師堂:廃絶? | *薬師堂:廃絶? | ||
- | * | + | *聖霊権現社:1827年(文政10年)造営。下宮(しものみや)とも呼ばれ、稗田神社の御旅所にもなっている。 |
*稗田神社:主祭神は稗田阿礼で、素盞鳴命・大安万侶命・天鈿売命・猿田彦命・豊受比売命を配祀する。『日本歴史地名大系』では「稗田阿礼命・素盞嗚尊・聖徳太子」とする。『斑鳩寺記録』では祭神は太子妃の膳大娘とする。現在の社殿は1969年造営。上宮(かんのみや)とも呼ばれた。郷社。 | *稗田神社:主祭神は稗田阿礼で、素盞鳴命・大安万侶命・天鈿売命・猿田彦命・豊受比売命を配祀する。『日本歴史地名大系』では「稗田阿礼命・素盞嗚尊・聖徳太子」とする。『斑鳩寺記録』では祭神は太子妃の膳大娘とする。現在の社殿は1969年造営。上宮(かんのみや)とも呼ばれた。郷社。 | ||
- | * | + | *山王社:1656年(明暦2年)造営。1679年(延宝7年)に門前の中宮寺(不詳)から遷座。 |
- | * | + | *天神社:1835年(天保6年)造営。 |
*池田重利・池田重政墓:[[池田家]] | *池田重利・池田重政墓:[[池田家]] | ||
*赤松政秀・赤松広英供養塔 | *赤松政秀・赤松広英供養塔 | ||
*聖宝殿:宝物収蔵庫。 | *聖宝殿:宝物収蔵庫。 | ||
- | * | + | *仁王門:1673年(延宝1年)再建。 |
- | * | + | *鐘楼:1693年(元禄6年)造営。 |
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==関連旧跡== | ==関連旧跡== | ||
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==子院== | ==子院== | ||
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*宝勝院:現存? | *宝勝院:現存? | ||
*保性院:廃絶。1649年造営と推定される建物が庫裏として残されている。浄土坊。 | *保性院:廃絶。1649年造営と推定される建物が庫裏として残されている。浄土坊。 | ||
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2021年1月23日 (土) 時点における最新版
斑鳩寺(いかるが・でら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤(播磨国揖保郡)にある聖徳太子ゆかりの天台宗寺院。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。法隆寺の荘園があった。
目次 |
歴史
聖徳太子が推古天皇から大和法隆寺のためにこの地の水田を施入された時に同時に斑鳩寺も創建されたという。 法隆寺の創建直後に維持運営費を捻出するための財源としてこの地が寄進されたことはおそらく史実で、管理統治するための法隆寺の出先機関が起源とみられる。
747年(天平19年)成立の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、598年(推古6年)、推古天皇が「播磨国佐西地」の50万代を法隆寺に施入したと記されている。 「佐西地」は『上宮聖徳法王帝説』などでは「佐勢地」と表記される。平安時代には中世的な荘園となり、鵤庄と呼ばれた。 『法隆寺別当次第』によると法隆寺は別当親誉の時代に鵤庄に寺主慶好を実検使として派遣したとあるので、親誉が別当になった1039年(長暦3年)以前には鵤庄が成立していたとみられる。 鵤庄の支配をめぐり、法隆寺は地頭、幕府、在地代官、武将らとたびたび争い、守ってきたが、戦国時代以降は衰えた。 1516年(永正13年)の伽藍修理や1524年(大永4年)の太子堂の檜皮葺き替えを援助した円山真久という人物は、たび重なる功績で法隆寺から地下の太子講衆頭役という役職に任じられており、この時点ではまだ斑鳩寺と法隆寺が密接な関係にあったことが分かる(斑鳩寺文書および法隆寺文書)。しかし1577年(天正5年)の豊臣秀吉の播磨侵攻以降は法隆寺への年貢上納は完全に途絶えた。
1329年(元徳1年・嘉暦4年)と1386年(元中3年/至徳3年)の「鵤庄絵図」(嘉暦図と至徳図)が法隆寺に残されており、斑鳩寺とその周辺の様子が分かる。寿福寺・若王子・楽々山(楽々寺)・松尾寺・佐福寺・孝恩寺・春日神社・新善光寺・念仏堂・妙見・稗田神社・斑鳩寺・太子堂・佐岡寺・八幡宮・東保八幡社を示す。また満願寺・成福寺・聖霊の名を記す。 どの程度実態を反映し、どのような由緒をもった寺社なのか判然としないが、孝恩寺については名主が創建したもので、建武年間に叡実という僧侶が律宗として復興したという。
1541年(天文10年)、伽藍焼失。 龍野円勝寺の昌仙が復興に努め、以後天台宗となる。 1551年(天文20年)、太子堂再建。 1556年(弘治2年)、講堂再建。 1565年(永禄8年)、三重塔再建。
江戸時代、延暦寺直末となる。1617年(元和3年)、下間池田家(元は本願寺の坊官)を藩主とする鵤藩の陣屋がすぐそばにあったが、1627年(寛永4年)、新宮に移った。 寛文年間、臨済宗の播磨・龍門寺開山の盤珪が留錫して多くの寺僧が師事した。 朱印地154石。 鎌倉時代の文永年間以来、広山八幡宮(阿宗神社)の祭祀を司ってきたという。
明治以後、皇族による太子像の御衣奉納が恒例となる。 1879年(明治12年)に有栖川宮により、1935年(昭和10年)に久邇宮により奉納。1962年(昭和37年)には高松宮により奉納され、2月22日に御衣替法要が営まれた。
寺宝に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる石がある。
(『日本歴史地名大系』ほか)
伽藍
- 講堂:斑鳩寺の本堂。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。飛鳥時代の仏像を模した鎌倉時代末〜室町時代の作。秘仏で2月22-23日の春会式で開帳。1556年(弘治2年)再建。1769年(明和6年)再建。講堂という名称から考えると、また別に金堂があったのかもしれない。
- 聖徳殿:「植髪の太子」(孝養像)を祀る。1541年(天文10年)焼失。1551年(天文20年)再建。1665年(寛文5年)再建。1916年(大正5年)、中殿と奥殿を増築。奥殿は法隆寺夢殿を模した八角堂。太子堂。太子御堂とも。
- 三重塔:1565年(永禄8年)の再建。
- 弥勒堂:
- 護摩堂:廃絶?
- 薬師堂:廃絶?
- 聖霊権現社:1827年(文政10年)造営。下宮(しものみや)とも呼ばれ、稗田神社の御旅所にもなっている。
- 稗田神社:主祭神は稗田阿礼で、素盞鳴命・大安万侶命・天鈿売命・猿田彦命・豊受比売命を配祀する。『日本歴史地名大系』では「稗田阿礼命・素盞嗚尊・聖徳太子」とする。『斑鳩寺記録』では祭神は太子妃の膳大娘とする。現在の社殿は1969年造営。上宮(かんのみや)とも呼ばれた。郷社。
- 山王社:1656年(明暦2年)造営。1679年(延宝7年)に門前の中宮寺(不詳)から遷座。
- 天神社:1835年(天保6年)造営。
- 池田重利・池田重政墓:池田家
- 赤松政秀・赤松広英供養塔
- 聖宝殿:宝物収蔵庫。
- 仁王門:1673年(延宝1年)再建。
- 鐘楼:1693年(元禄6年)造営。
関連旧跡
- 檀特山
- 鵤荘牓示石:太子の投げ石。嘉暦図には12個、至徳図に9個記す。
- 兵庫県太子町鵤北山根。
- 兵庫県太子町東南。
- 兵庫県太子町平方。
- 兵庫県太子町松ケ下。
- 兵庫県太子町東出。
- 兵庫県姫路市大谷。
子院
- 宝勝院:現存?
- 保性院:廃絶。1649年造営と推定される建物が庫裏として残されている。浄土坊。
- 保寿院:廃絶。
- 仏餉院:廃絶。寂阿(潜嶽祖龍)は臨済宗盤珪に師事して伊予・如法寺住職となる。
- 双樹院:廃絶。義淳(祖言)は臨済宗の盤珪に師事して伊予天徳寺住職となる。
- 不動院:廃絶。
- 実相院:廃絶。
- 円光院:廃絶。
- 円寿院:廃絶。
- 香林坊:廃絶。
- 普門院:廃絶。
- 西之坊:廃絶。
- 東円坊:廃絶。
- 理教坊:廃絶。
- 本住寺:廃絶。