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本居家

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年12月20日 (火)

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(?松坂本居家)
 
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== 歴代 ==
== 歴代 ==
===紀伊本居家===
===紀伊本居家===
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*本居宣長(1730-1801):
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和歌山に移ったのちは臨済宗を宗旨としたらしい。
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*本居大平(1756-1833):宣長の養子。伊勢松坂出身。初名は稲掛茂穂。春庭に代わり本家を継ぎ、和歌山藩に仕える。
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{|class="wikitable"
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*本居内遠(1792-1855):大平の養子。尾張出身。初名は浜田鎌次郎。
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*本居豊穎(1834-1913):内遠の実子。東宮侍講。大八洲学会を設立。[[神田神社]]祠官。東京大学講師。[[大社教]]副管長。
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!style="width:5%;"|代数
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*(松野勇雄):離縁
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!style="width:75%;"|略歴
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|[[本居宣長]]
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|1730-1801
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|国学の大成者。1730年(享保15年)生。『古事記伝』を執筆。1801年(享和1年)死去。墓所は[[本居宣長墓]]と[[浄土宗]][[樹敬寺]]。戒名は高岳院石上道啓居士。諡号は秋津彦瑞桜根大人。[[本居宣長宮]]などに祀られる。
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|本居大平
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|1756-1833
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|本居宣長の養子。伊勢松坂出身。初名は稲掛茂穂。生家は豆腐商。1756年(宝暦6年)生。13歳で本居宣長に入門。1799年(寛政11年)、養子となる。1801年(享和1年)の本居宣長の死後、眼病の春庭に代わり本家を継ぐ。和歌山藩に仕え、1808年(文化5年)『紀伊続風土記』編纂の命を受け、1809年(文化6年)和歌山に移住。1833年(天保4年)9月11日死去。墓所は[[臨済宗]][[吹上寺]]。藤垣内(ふじのかきつ)と号す。戒名は和心院意富必楽居士。諡号は国足八十言霊大人。弟子に近藤芳樹、加納諸平、長沢伴雄、中島広足、伊達千広など。著書『古学要』『神楽歌新釈』『万葉集合解』『玉鉾百首解』『稲葉集』『藤垣内文集』など。
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|本居内遠
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|1792-1855
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|本居大平の婿養子。名古屋出身。初名は浜田鎌次郎。生家は書肆万巻屋。1792年(寛政4年)生。18歳の時、本居宣長の弟子の植松有信の『源氏物語』講読を聞く。1820年(文政3年)、29歳で本居大平に入門。1831年(天保2年)、40歳で本居大平の養子となった。和歌山藩に仕え、『紀伊続風土記』を完成させた。1851年(嘉永4年)から和歌山藩の神道学問所で講義。1854年(安政1年)江戸藩邸の古学館教授。1855年(安政2年)10月4日死去。墓所は深川の[[臨済宗]]恵然寺に埋葬され、[[東海寺大山墓地]]に改葬された。和歌山吹上寺にも墓碑がある。号は榛園、木綿垣(ゆうがき)。諡号は弥足功績道根大人。著書『古学本教大意』『落葉の錦』『賤者考』『本宮神社考定』『条理図帳考』『田租度量考』。
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|本居豊穎
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|1834-1913
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|[[大社教]]副管長。本居内遠の実子。1834年(天保5年)生。1855年(安政2年)、22歳で、父の跡を継いで和歌山藩江戸藩邸の古学館教授。1859年(安政6年)、和歌山の国学所の教官となる。1869年(明治2年)12月、[[宣教使]]の権中宣教使(のち制度改正で宣教中博士)。1870年(明治3年)3月25日、[[神祇官]]から長崎出張を命じられる。27日、従七位。1871年(明治4年)3月14日、引き続き長崎在勤を命じられる(9月7日まで)。同年8月24日、[[神祇省]]出仕・大祀御用掛。11月13日、神祇省大録。27日、[[宮内省]]七等出仕。1872年(明治5年)8月4日から1873年(明治6年)3月7日まで宮内省六等出仕。1873年(明治6年)4月17日から8月4日まで、[[平野神社]]大宮司となり、[[教導職]]権少教正。同年8月5日から1894年(明治27年)5月9日まで[[神田神社]]祠官。9月9日、教導職権中教正。1874年(明治7年)3月28日、東京府の神道教導取締。1875年(明治8年)8月13日、東京府神道事務分局長。1875年(明治8年)10月20日、中教正。1876年(明治9年)6月10日、薫子内親王墓祭の地鎮祭と出棺後清祓を奉仕。1878年(明治11年)5月6日、権大教正。1878年(明治11年)7月27日、敬仁親王([[明治天皇]]第二皇子)御葬祭斎主を命じられる。1878年(明治11年)12月25日、大教官設置について建言[https://www.digital.archives.go.jp/img/633743]。1881年(明治14年)6月17日、神道事務局について建言[https://www.digital.archives.go.jp/img/3650343]。1881年(明治14年)11月23日、[[出雲大社教会]]教長。10月23日、[[皇典講究所]]委員。1882年(明治15年)4月18日、[[出雲大社東京出張所]]所長。26日神道事務分局長辞任。8月30日、[[東京大学]]文学部古典講習科開設にあたり、その講師となる(1886年(明治19年)3月8日まで)。[[惟神教会]]の会長も務めている。1883年(明治16年)7月21日、[[岩倉具視]]国葬の副斎主を命じられる。1884年(明治17年)9月29日、大教正(1894年(明治27年)11月2日まで)。1885年(明治18年)1月29日、大社教東京出張所総監。5月19日、[[大社教]]副管長(1894年(明治27年)11月2日まで)。1886年(明治19年)1月25日、[[有栖川宮]]幟仁親王葬祭の斎主を命じられる。1886年(明治19年)、大八洲学会を設立。1887年(明治20年)4月15日、一等学正。1888年(明治21年)11月13日、猷仁親王(明治天皇第四皇子)葬祭の斎主を命じられる。1891年(明治24年)2月20日、[[三条実美]]国葬の斎主を命じられる。1892年(明治25年)1月6日、講書始の儀で国書進講を務める(1894年(明治27年)も)。1894年(明治27年)5月9日、神田神社祠官を辞める。同年11月2日、大社教副管長・大教正を辞任。11月11日、高等師範学校・女子高等師範学校の国文学科教授(1895年(明治28年)12月26日まで)。この頃から活動のメインが神道界・学界から宮中と学界に移る。12月28日、従六位。1895年(明治28年)12月28日、東宮職御用掛。1896年(明治29年)6月16日、東宮侍講となり、皇太子([[大正天皇]])の教育を担当する。即位するまで行啓には頻繁に随行している。7月10日、正五位。1897年(明治30年)10月2日、[[御歌所]]寄人。1900年(明治33年)10月11日、東京帝国大学文科大学講師。1900年(明治33年)、本居宣長100年祭を前に『本居全集』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993712]を編纂。1901年(明治34年)7月20日、従四位。1906年(明治39年)7月30日、正四位。9月14日、帝国学士院会員。1909年(明治42年)7月24日、文学博士。1911年(明治44年)8月10日、従三位。1912年(大正1年)8月24日、東宮侍講廃され、宮内省御用掛。1913年(大正2年)2月15日死去。80歳。正三位。墓所は[[谷中霊園]]。秋屋(あきのや)と号す。著書『古今和歌集講義』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873283][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873284][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873285]、『諄辞集』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815970][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815971]、『秋屋集』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438645][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438646][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438647][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438648]、『神田神社由緒略記』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815230]、『本居雑考』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754817][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754818]、『玉鉾集』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873734]、『国文註釈全書』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935764]、『歌学文庫』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1883913]など多数。(履歴書[https://www.digital.archives.go.jp/img/2841907]、国学院大学デジタルミュージアム[http://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=40252])
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|本居並子
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|本居豊穎の娘。
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|松野勇雄
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|1852-1893
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|本居豊穎の婿養子(離縁)。国学者。1852年(嘉永5年)生。広島藩家老三原城主浅野家に仕えた松野尚志の次男。[[神道事務局]]生徒寮や[[神宮教院]]本教館、[[国学院大学]]の創設経営に関わる。1877年(明治10年)本居豊穎の養子となるが1879年(明治12年)に離縁。1884年(明治17年)皇典講究所幹事。1885年(明治18年)皇典講究所の創立趣旨を説明し経営資金援助を願うために全国を巡る。1890年(明治23年)「国学院設立趣意書」を起草。1893年(明治26年)8月6日死去。42歳。墓所は[[染井霊園]]。1922年(大正11年)従五位追贈。
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|増田于信
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|1862-1932
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|本居豊穎の婿養子(離縁)。国文学者。1862年(文久2年)生。水戸藩士雨宮于勝の子。初名は雨宮于信。東京大学文学部卒。1884年(明治17年)本居豊穎の養子となるが本居並子の死去で離縁。増田家の養子となる。1907年(明治40年)から1926年(昭和1年)まで宮内省御用掛。[[諸陵寮]]に勤務し、考証課長となり、各地の陵墓の調査に従事した。1932年(昭和7年)死去。本居于信。
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|本居長世
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|1885-1945
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|作曲家。本居並子と増田于信の子。本居豊穎に育てられた。1885年(明治18年)生。1908年(明治41年)東京音楽学校本科卒。宮城道雄らと新日本音楽運動を起こした。1945年(昭和20年)10月14日死去。墓所は[[谷中霊園]]。
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|本居修三
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|1911-1967
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|詩人・仏文学者。本居雷章。菱山修三。
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===松坂本居家===
===松坂本居家===
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*本居宣長(1730-1801):
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墓所は松阪[[樹敬寺]]の[[本居家墓地]]。
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*本居春庭(1763-1828):宣長の長男。
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*本居有郷(1804-1853):
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*本居信郷
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|[[本居宣長]]
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|1730-1801
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|国学の大成者。1730年(享保15年)生。『古事記伝』を執筆。1801年(享和1年)死去。墓所は[[本居宣長墓]]と[[浄土宗]][[樹敬寺]]。戒名は高岳院石上道啓居士。諡号は秋津彦瑞桜根大人。[[本居宣長宮]]などに祀られる。
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|本居春庭
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|1763-1828
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|本居宣長の長男。1763年(宝暦13年)生。幼年より父の学業を補佐。多数の書物を書写した。1791年(寛政3年)眼病をわずらい、1794年(寛政6年)32歳の時に失明した。父の家督は門人で養子の本居大平が継いだが、大平が1809年(文化6年)に和歌山に移住後は後鈴屋を開いた。1828年(文政11年)11月7日死去。66歳。墓所は[[樹敬寺]]の[[本居家墓地]]。号は後鈴屋(のちのすずのや)。戒名は明章院通言道永居士。諡号は後鈴屋芳琉爾波翁。1924年(大正13年)正五位追贈。著書は『詞八衢』『詞通路』『後鈴屋集』など。
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|本居有郷
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|1804-1852
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|本居春庭の長男。1804年(文化1年)生。長谷川源右衛門や小津清左衛門の養子に出されるが、いずれも離縁になった。1828年(文政11年)11月、父の死後に家督を相続。1852年(嘉永5年)12月26日死去。49歳。墓所は樹敬寺。戒名は有学院厚言道郷居士。著書『有郷詠草』『密岳日記』。
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|本居信郷
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|1825-1900
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|本居有郷の養子。四日市の高尾家の出身。母の牛は本居宣長の孫。1825年(文政8年)生。上京して[[表千家]]茶道を習う。1853年(嘉永6年)5月5日、断絶した松阪本居家の家督を相続。1866年(慶応2年)松坂国学所教導。1873年(明治6年)百枝神社(のち[[松阪神社]]に合祀)祠掌。1900年(明治33年)8月26日死去。76歳。墓所は樹敬寺。本居健亭。茶会記『会席附』、『信郷詠草』。
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|本居清造
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|1873-1963
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|本居信郷の次男。1873年(明治6年)生。大阪府第二尋常中学校国語科教員など教員を続ける。『本居宣長稿本全集』を刊行。本居宣長旧宅遺品の整理を進めた。1963年(昭和38年)9月7日死去。90歳。墓所は樹敬寺。著書『本居清造詠草』。
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|本居弥生
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|本居芳野
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2022年12月20日 (火) 時点における最新版

本居家(もとおりけ)は、本居宣長を祖とする国学者の家。


歴代

紀伊本居家

和歌山に移ったのちは臨済宗を宗旨としたらしい。

代数 名前 生没 略歴
1 本居宣長 1730-1801 国学の大成者。1730年(享保15年)生。『古事記伝』を執筆。1801年(享和1年)死去。墓所は本居宣長墓浄土宗樹敬寺。戒名は高岳院石上道啓居士。諡号は秋津彦瑞桜根大人。本居宣長宮などに祀られる。
2 本居大平 1756-1833 本居宣長の養子。伊勢松坂出身。初名は稲掛茂穂。生家は豆腐商。1756年(宝暦6年)生。13歳で本居宣長に入門。1799年(寛政11年)、養子となる。1801年(享和1年)の本居宣長の死後、眼病の春庭に代わり本家を継ぐ。和歌山藩に仕え、1808年(文化5年)『紀伊続風土記』編纂の命を受け、1809年(文化6年)和歌山に移住。1833年(天保4年)9月11日死去。墓所は臨済宗吹上寺。藤垣内(ふじのかきつ)と号す。戒名は和心院意富必楽居士。諡号は国足八十言霊大人。弟子に近藤芳樹、加納諸平、長沢伴雄、中島広足、伊達千広など。著書『古学要』『神楽歌新釈』『万葉集合解』『玉鉾百首解』『稲葉集』『藤垣内文集』など。
2 本居内遠 1792-1855 本居大平の婿養子。名古屋出身。初名は浜田鎌次郎。生家は書肆万巻屋。1792年(寛政4年)生。18歳の時、本居宣長の弟子の植松有信の『源氏物語』講読を聞く。1820年(文政3年)、29歳で本居大平に入門。1831年(天保2年)、40歳で本居大平の養子となった。和歌山藩に仕え、『紀伊続風土記』を完成させた。1851年(嘉永4年)から和歌山藩の神道学問所で講義。1854年(安政1年)江戸藩邸の古学館教授。1855年(安政2年)10月4日死去。墓所は深川の臨済宗恵然寺に埋葬され、東海寺大山墓地に改葬された。和歌山吹上寺にも墓碑がある。号は榛園、木綿垣(ゆうがき)。諡号は弥足功績道根大人。著書『古学本教大意』『落葉の錦』『賤者考』『本宮神社考定』『条理図帳考』『田租度量考』。
4 本居豊穎 1834-1913 大社教副管長。本居内遠の実子。1834年(天保5年)生。1855年(安政2年)、22歳で、父の跡を継いで和歌山藩江戸藩邸の古学館教授。1859年(安政6年)、和歌山の国学所の教官となる。1869年(明治2年)12月、宣教使の権中宣教使(のち制度改正で宣教中博士)。1870年(明治3年)3月25日、神祇官から長崎出張を命じられる。27日、従七位。1871年(明治4年)3月14日、引き続き長崎在勤を命じられる(9月7日まで)。同年8月24日、神祇省出仕・大祀御用掛。11月13日、神祇省大録。27日、宮内省七等出仕。1872年(明治5年)8月4日から1873年(明治6年)3月7日まで宮内省六等出仕。1873年(明治6年)4月17日から8月4日まで、平野神社大宮司となり、教導職権少教正。同年8月5日から1894年(明治27年)5月9日まで神田神社祠官。9月9日、教導職権中教正。1874年(明治7年)3月28日、東京府の神道教導取締。1875年(明治8年)8月13日、東京府神道事務分局長。1875年(明治8年)10月20日、中教正。1876年(明治9年)6月10日、薫子内親王墓祭の地鎮祭と出棺後清祓を奉仕。1878年(明治11年)5月6日、権大教正。1878年(明治11年)7月27日、敬仁親王(明治天皇第二皇子)御葬祭斎主を命じられる。1878年(明治11年)12月25日、大教官設置について建言[1]。1881年(明治14年)6月17日、神道事務局について建言[2]。1881年(明治14年)11月23日、出雲大社教会教長。10月23日、皇典講究所委員。1882年(明治15年)4月18日、出雲大社東京出張所所長。26日神道事務分局長辞任。8月30日、東京大学文学部古典講習科開設にあたり、その講師となる(1886年(明治19年)3月8日まで)。惟神教会の会長も務めている。1883年(明治16年)7月21日、岩倉具視国葬の副斎主を命じられる。1884年(明治17年)9月29日、大教正(1894年(明治27年)11月2日まで)。1885年(明治18年)1月29日、大社教東京出張所総監。5月19日、大社教副管長(1894年(明治27年)11月2日まで)。1886年(明治19年)1月25日、有栖川宮幟仁親王葬祭の斎主を命じられる。1886年(明治19年)、大八洲学会を設立。1887年(明治20年)4月15日、一等学正。1888年(明治21年)11月13日、猷仁親王(明治天皇第四皇子)葬祭の斎主を命じられる。1891年(明治24年)2月20日、三条実美国葬の斎主を命じられる。1892年(明治25年)1月6日、講書始の儀で国書進講を務める(1894年(明治27年)も)。1894年(明治27年)5月9日、神田神社祠官を辞める。同年11月2日、大社教副管長・大教正を辞任。11月11日、高等師範学校・女子高等師範学校の国文学科教授(1895年(明治28年)12月26日まで)。この頃から活動のメインが神道界・学界から宮中と学界に移る。12月28日、従六位。1895年(明治28年)12月28日、東宮職御用掛。1896年(明治29年)6月16日、東宮侍講となり、皇太子(大正天皇)の教育を担当する。即位するまで行啓には頻繁に随行している。7月10日、正五位。1897年(明治30年)10月2日、御歌所寄人。1900年(明治33年)10月11日、東京帝国大学文科大学講師。1900年(明治33年)、本居宣長100年祭を前に『本居全集』[3]を編纂。1901年(明治34年)7月20日、従四位。1906年(明治39年)7月30日、正四位。9月14日、帝国学士院会員。1909年(明治42年)7月24日、文学博士。1911年(明治44年)8月10日、従三位。1912年(大正1年)8月24日、東宮侍講廃され、宮内省御用掛。1913年(大正2年)2月15日死去。80歳。正三位。墓所は谷中霊園。秋屋(あきのや)と号す。著書『古今和歌集講義』[4][5][6]、『諄辞集』[7][8]、『秋屋集』[9][10][11][12]、『神田神社由緒略記』[13]、『本居雑考』[14][15]、『玉鉾集』[16]、『国文註釈全書』[17]、『歌学文庫』[18]など多数。(履歴書[19]、国学院大学デジタルミュージアム[20]
5 本居並子 本居豊穎の娘。
松野勇雄 1852-1893 本居豊穎の婿養子(離縁)。国学者。1852年(嘉永5年)生。広島藩家老三原城主浅野家に仕えた松野尚志の次男。神道事務局生徒寮や神宮教院本教館、国学院大学の創設経営に関わる。1877年(明治10年)本居豊穎の養子となるが1879年(明治12年)に離縁。1884年(明治17年)皇典講究所幹事。1885年(明治18年)皇典講究所の創立趣旨を説明し経営資金援助を願うために全国を巡る。1890年(明治23年)「国学院設立趣意書」を起草。1893年(明治26年)8月6日死去。42歳。墓所は染井霊園。1922年(大正11年)従五位追贈。
増田于信 1862-1932 本居豊穎の婿養子(離縁)。国文学者。1862年(文久2年)生。水戸藩士雨宮于勝の子。初名は雨宮于信。東京大学文学部卒。1884年(明治17年)本居豊穎の養子となるが本居並子の死去で離縁。増田家の養子となる。1907年(明治40年)から1926年(昭和1年)まで宮内省御用掛。諸陵寮に勤務し、考証課長となり、各地の陵墓の調査に従事した。1932年(昭和7年)死去。本居于信。
6 本居長世 1885-1945 作曲家。本居並子と増田于信の子。本居豊穎に育てられた。1885年(明治18年)生。1908年(明治41年)東京音楽学校本科卒。宮城道雄らと新日本音楽運動を起こした。1945年(昭和20年)10月14日死去。墓所は谷中霊園
7 本居修三 1911-1967 詩人・仏文学者。本居雷章。菱山修三。

松坂本居家

墓所は松阪樹敬寺本居家墓地

代数 名前 生没 略歴
1 本居宣長 1730-1801 国学の大成者。1730年(享保15年)生。『古事記伝』を執筆。1801年(享和1年)死去。墓所は本居宣長墓浄土宗樹敬寺。戒名は高岳院石上道啓居士。諡号は秋津彦瑞桜根大人。本居宣長宮などに祀られる。
2 本居春庭 1763-1828 本居宣長の長男。1763年(宝暦13年)生。幼年より父の学業を補佐。多数の書物を書写した。1791年(寛政3年)眼病をわずらい、1794年(寛政6年)32歳の時に失明した。父の家督は門人で養子の本居大平が継いだが、大平が1809年(文化6年)に和歌山に移住後は後鈴屋を開いた。1828年(文政11年)11月7日死去。66歳。墓所は樹敬寺本居家墓地。号は後鈴屋(のちのすずのや)。戒名は明章院通言道永居士。諡号は後鈴屋芳琉爾波翁。1924年(大正13年)正五位追贈。著書は『詞八衢』『詞通路』『後鈴屋集』など。
3 本居有郷 1804-1852 本居春庭の長男。1804年(文化1年)生。長谷川源右衛門や小津清左衛門の養子に出されるが、いずれも離縁になった。1828年(文政11年)11月、父の死後に家督を相続。1852年(嘉永5年)12月26日死去。49歳。墓所は樹敬寺。戒名は有学院厚言道郷居士。著書『有郷詠草』『密岳日記』。
4 本居信郷 1825-1900 本居有郷の養子。四日市の高尾家の出身。母の牛は本居宣長の孫。1825年(文政8年)生。上京して表千家茶道を習う。1853年(嘉永6年)5月5日、断絶した松阪本居家の家督を相続。1866年(慶応2年)松坂国学所教導。1873年(明治6年)百枝神社(のち松阪神社に合祀)祠掌。1900年(明治33年)8月26日死去。76歳。墓所は樹敬寺。本居健亭。茶会記『会席附』、『信郷詠草』。
5 本居清造 1873-1963 本居信郷の次男。1873年(明治6年)生。大阪府第二尋常中学校国語科教員など教員を続ける。『本居宣長稿本全集』を刊行。本居宣長旧宅遺品の整理を進めた。1963年(昭和38年)9月7日死去。90歳。墓所は樹敬寺。著書『本居清造詠草』。
6 本居弥生
7 本居芳野
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