ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
桓武天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年11月12日 (木)
(ページの作成:「元禄の修陵では、「谷口古墳」(6世紀後半)に比定された(山田邦和「桓武天皇陵」『歴史検証天皇陵』)。1821年(文政4年)...」) |
|||
(間の12版分が非表示) | |||
1行: | 1行: | ||
- | + | [[File:Kanmu-tenno-ryo_005.jpg|「桓武天皇御陵」碑。京阪丹波橋駅前にある道標。この道を500m進むとそのまま陵墓の参道となり、さらに300m進むと天皇陵がある。|thumb|200px]] | |
+ | '''桓武天皇陵'''は、京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎(山城国紀伊郡)にある[[桓武天皇]](737-806)の[[陵墓]]。'''柏原陵'''。 | ||
+ | |||
+ | == 歴史 == | ||
+ | [[File:Kanmu-tenno-ryo_001.jpg|桓武天皇陵拝所|300px|thumb]] | ||
+ | [[file:Kokudo0188.jpg|thumb|300px|桓武天皇陵中心部(国土地理院空中写真より)]] | ||
+ | [[file:Kokudo0189.jpg|thumb|300px|桓武天皇陵(国土地理院空中写真より)]] | ||
+ | [[file:Kokudo0190.jpg|thumb|300px|桓武天皇陵の南東に明治天皇陵がある。(国土地理院空中写真より)]] | ||
+ | ===埋葬=== | ||
+ | 陵所が定まるまで二転した。桓武天皇は806年3月17日に70歳で崩御。 | ||
+ | 『日本後紀』によると当初は山城国葛野郡宇多野に埋葬する計画だったが災異により変更され、4月7日に山城国紀伊郡の「柏原山陵」に葬られた。 | ||
+ | しかし、『類聚国史』によると、同年10月11日、さらに「柏原陵」に改葬されたという。このような経緯をたどった理由は不明である。 | ||
+ | ===陵域と所在地=== | ||
+ | 『延喜式』「諸陵寮」によると広さは東8町、西3町、南5町、北6町で、さらに北東の二つの峰と一つの谷を加えるとある。 | ||
+ | 古代には陵域内に[[伏見・報恩寺]]があった。 | ||
+ | |||
+ | 『江家次第』(12世紀)や『拾芥抄』(13世紀)には「在伏見山、従東辺二町許入、在稲荷南野」とあり、『山槐記』(12世紀)には伏見山松原の中にあると記され、『中右記』1120年12月25日条に「先向柏原、只今無知道、出深草南入従路東西松原」とある。鎌倉時代の『仁部記』(日野資宣の日記)によると1274年に盗掘に遭い墓が暴かれたため、使者を派遣して調査させた。その報告には「山陵登十許丈、壇廻八十余丈」とあった。 | ||
+ | |||
+ | のち所在地は不明になり、豊臣秀吉の伏見城築城で周辺が大規模な造成が行われた。 | ||
+ | ===古代の祭祀=== | ||
+ | 陵墓の祭祀制度が確立しつつある824年12月から、明確に定めた858年12月から、完全に断絶する室町時代まで一貫して[[近陵]](十陵)とされ、長きにわたり重視された。 | ||
+ | 『延喜式』「諸陵寮」には守戸5烟が置かれたとある。1113年に諸陵寮が桓武天皇陵を含む陵田が侵されていると訴えた史料として「山城国陵田坪付」が伝わる。 | ||
+ | 『日本紀略』949年6月21日条に干魃のの占いのため桓武天皇陵を実検したという。 | ||
+ | 960年7月26日条では干魃のため、桓武天皇陵に山陵使を遣わしたとある。 | ||
+ | |||
+ | ===近世近代の調査と祭祀=== | ||
+ | 元禄の修陵では、[[桓武天皇陵 深草考証地|谷口古墳]](6世紀後半)に比定された(山田邦和「桓武天皇陵」『歴史検証天皇陵』)。1821年(文政4年)には、有栖川宮韻仁親王が尭覺を開山として桓武天皇の菩提を弔うために、谷口古墳の前に「[[深草・浄蓮華院|浄蓮華院]]」を創建した。御所より建物を下賜され堂宇とし、比叡山の桓武天皇御影を祀った(ネット)。 | ||
文久の修陵においては、桓武天皇陵は定まらず、整備事業も行われなかった。ただ谷森善臣は、1865年(慶応1年)に『柏原山陵考』を著し、山城国紀伊郡堀内村三人屋敷の地が桓武天皇陵だと主張した(山田前掲)。これに基づき、1880年(明治13年)1月27日、この地を「桓武天皇柏原陵」に治定した(明治天皇紀)。 | 文久の修陵においては、桓武天皇陵は定まらず、整備事業も行われなかった。ただ谷森善臣は、1865年(慶応1年)に『柏原山陵考』を著し、山城国紀伊郡堀内村三人屋敷の地が桓武天皇陵だと主張した(山田前掲)。これに基づき、1880年(明治13年)1月27日、この地を「桓武天皇柏原陵」に治定した(明治天皇紀)。 | ||
- | + | このほか、候補地としては、[[古御香宮]]の地が知られる。伏見古図に基づく説であり、当地は、[[大亀谷陵墓参考地]]となっている。しかし、この古図は江戸時代の偽作であるといわれる。 | |
現在の比定地のある桃山丘陵の可能性が高い。しかし、豊臣秀吉による伏見城築城や、近代の[[明治天皇陵|伏見桃山陵]]の造営で、大きく改変されており、正確な位置の特定は困難となっている。 | 現在の比定地のある桃山丘陵の可能性が高い。しかし、豊臣秀吉による伏見城築城や、近代の[[明治天皇陵|伏見桃山陵]]の造営で、大きく改変されており、正確な位置の特定は困難となっている。 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | <gallery> | ||
+ | File:Kanmu-tenno-ryo_002.jpg| | ||
+ | File:Kanmu-tenno-ryo_003.jpg| | ||
+ | File:Kanmu-tenno-ryo_004.jpg| | ||
+ | </gallery> | ||
+ | |||
+ | ==資料== | ||
+ | *戸田通元『柏原山陵考略』 | ||
+ | *津久井清影『柏原聖蹟考』 | ||
+ | *谷森善臣『柏原山陵考』 | ||
+ | *上野竹次郎『山陵』上 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | [[category:京都府]] |
2020年11月12日 (木) 時点における最新版
桓武天皇陵は、京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎(山城国紀伊郡)にある桓武天皇(737-806)の陵墓。柏原陵。
目次 |
歴史
埋葬
陵所が定まるまで二転した。桓武天皇は806年3月17日に70歳で崩御。 『日本後紀』によると当初は山城国葛野郡宇多野に埋葬する計画だったが災異により変更され、4月7日に山城国紀伊郡の「柏原山陵」に葬られた。 しかし、『類聚国史』によると、同年10月11日、さらに「柏原陵」に改葬されたという。このような経緯をたどった理由は不明である。
陵域と所在地
『延喜式』「諸陵寮」によると広さは東8町、西3町、南5町、北6町で、さらに北東の二つの峰と一つの谷を加えるとある。 古代には陵域内に伏見・報恩寺があった。
『江家次第』(12世紀)や『拾芥抄』(13世紀)には「在伏見山、従東辺二町許入、在稲荷南野」とあり、『山槐記』(12世紀)には伏見山松原の中にあると記され、『中右記』1120年12月25日条に「先向柏原、只今無知道、出深草南入従路東西松原」とある。鎌倉時代の『仁部記』(日野資宣の日記)によると1274年に盗掘に遭い墓が暴かれたため、使者を派遣して調査させた。その報告には「山陵登十許丈、壇廻八十余丈」とあった。
のち所在地は不明になり、豊臣秀吉の伏見城築城で周辺が大規模な造成が行われた。
古代の祭祀
陵墓の祭祀制度が確立しつつある824年12月から、明確に定めた858年12月から、完全に断絶する室町時代まで一貫して近陵(十陵)とされ、長きにわたり重視された。 『延喜式』「諸陵寮」には守戸5烟が置かれたとある。1113年に諸陵寮が桓武天皇陵を含む陵田が侵されていると訴えた史料として「山城国陵田坪付」が伝わる。 『日本紀略』949年6月21日条に干魃のの占いのため桓武天皇陵を実検したという。 960年7月26日条では干魃のため、桓武天皇陵に山陵使を遣わしたとある。
近世近代の調査と祭祀
元禄の修陵では、谷口古墳(6世紀後半)に比定された(山田邦和「桓武天皇陵」『歴史検証天皇陵』)。1821年(文政4年)には、有栖川宮韻仁親王が尭覺を開山として桓武天皇の菩提を弔うために、谷口古墳の前に「浄蓮華院」を創建した。御所より建物を下賜され堂宇とし、比叡山の桓武天皇御影を祀った(ネット)。 文久の修陵においては、桓武天皇陵は定まらず、整備事業も行われなかった。ただ谷森善臣は、1865年(慶応1年)に『柏原山陵考』を著し、山城国紀伊郡堀内村三人屋敷の地が桓武天皇陵だと主張した(山田前掲)。これに基づき、1880年(明治13年)1月27日、この地を「桓武天皇柏原陵」に治定した(明治天皇紀)。 このほか、候補地としては、古御香宮の地が知られる。伏見古図に基づく説であり、当地は、大亀谷陵墓参考地となっている。しかし、この古図は江戸時代の偽作であるといわれる。
現在の比定地のある桃山丘陵の可能性が高い。しかし、豊臣秀吉による伏見城築城や、近代の伏見桃山陵の造営で、大きく改変されており、正確な位置の特定は困難となっている。
資料
- 戸田通元『柏原山陵考略』
- 津久井清影『柏原聖蹟考』
- 谷森善臣『柏原山陵考』
- 上野竹次郎『山陵』上