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洞春寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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(?歴代住職)
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1587年(天正15年)、[[諸山]]に列格され、同年8月に[[五山十刹|十刹]]に昇格した。毛利輝元は毛利家中で洞春寺を首位とし、常栄寺を次位とすることを通達した。
1587年(天正15年)、[[諸山]]に列格され、同年8月に[[五山十刹|十刹]]に昇格した。毛利輝元は毛利家中で洞春寺を首位とし、常栄寺を次位とすることを通達した。
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1603年(慶長8年)、毛利家の山口入城に伴い、山口に移転。1606年(慶長11年)、毛利家が萩へ移転するとそれに従った。さらに1863年(文久3年)に毛利家が山口に藩庁を移すと、1869年(明治2年)、山口に移転。最初は旧大通院の伽藍を接収して移転。開山の別号にちなんで'''万年寺'''と改称した。改称は毛利家が菩提寺を廃止したことに伴ったものではないだろうか。1871年(明治4年)、旧[[常栄寺]]の現在地に移転した(常栄寺は[[妙寿寺]]の地に移転して、妙寿寺は廃絶となった)。1899年(明治32年)、再び洞春寺と称した。
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1603年(慶長8年)、毛利家の山口入城に伴い、山口に移転。1606年(慶長11年)、毛利家が萩へ移転するとそれに従った。さらに1863年(文久3年)に毛利家が山口に藩庁を移すと、1869年(明治2年)、山口に移転。最初は旧大通院の伽藍を接収して移転。開山の別号にちなんで'''万年寺'''と改称した。改称は毛利家が菩提寺を廃止したことに伴ったものではないだろうか。1869年(明治2年)萩妙玖寺を合併。
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1871年(明治4年)、旧[[常栄寺]]の現在地に移転した(常栄寺は[[妙寿寺]]の地に移転して、妙寿寺は廃絶となった)。1899年(明治32年)、再び洞春寺と称した。
1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを洞春寺におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ[[毛利本家祖霊社]]内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦)
1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを洞春寺におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ[[毛利本家祖霊社]]内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦)
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*吉田郡山城時代:1573年(天正1年)創建。洞春寺跡が残る。
*吉田郡山城時代:1573年(天正1年)創建。洞春寺跡が残る。
*広島時代:現在の広瀬神社の位置にあったという。
*広島時代:現在の広瀬神社の位置にあったという。
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*第一次山口時代:1603年(慶長8年)山口移転。跡地不詳。
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*第一次山口時代:1603年(慶長8年)山口移転。現在の浄瑠璃寺の地。
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*萩時代:1606年(慶長11年)萩に移転。
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*萩時代:1606年(慶長11年)萩に移転。1608年(慶長13年)竣工。
*第二次山口時代:1869年(明治2年)山口の現在地(常栄寺跡)に移転。
*第二次山口時代:1869年(明治2年)山口の現在地(常栄寺跡)に移転。
==組織==
==組織==
===歴代住職===
===歴代住職===
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*1嘯岳鼎虎(1528-1599)<>:博多出身。1528年(享禄1年)生。当初は[[夢窓派]]に属し、昌虎を名乗った。1548年(天文17年)対馬宗氏が作り出した日本国王の偽使に同行して朝鮮に渡海。また2回、明に渡ったと伝承され、1544年(天文13年)・弘治年間の遣明船が候補に挙げられている。[[幻住派]]の湖心碩鼎に師事して幻住派にも所属。その法嗣となり、鼎虎と改名した。1562年(永禄5年)、[[高源寺]]住職。1565年(永禄8年)高源寺住職再任。1570年(元亀1年)高源寺住職に3度目の就任。小早川家ゆかりの竹原妙法寺の縁で毛利家と関係ができた。1571年(元亀2年)、毛利元就の葬儀の導師を勤めた。1573年(天正1年)洞春寺住職。1575年(天正3年)4月、[[三聖寺]]住職。11月、[[聖福寺]]住職。1576年(天正4年)3月、[[建仁寺]]住職。1577年(天正5年)4月、[[南禅寺]]住職。1599年(慶長4年)10月5日、広島で死去。吉田郡山城に埋葬された。
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*1嘯岳鼎虎(1528-1599)<>:博多出身。1528年(享禄1年)生。当初は[[夢窓派]]に属し、昌虎を名乗った。1548年(天文17年)対馬宗氏が作り出した日本国王の偽使に同行して朝鮮に渡海。また2回、明に渡ったと伝承され、1544年(天文13年)・弘治年間の遣明船が候補に挙げられている。[[幻住派]]の湖心碩鼎に師事して幻住派にも所属。その法嗣となり、鼎虎と改名した。1562年(永禄5年)、[[高源寺]]住職。1565年(永禄8年)高源寺住職再任。1570年(元亀1年)高源寺住職に3度目の就任。小早川家ゆかりの竹原妙法寺の縁で毛利家と関係ができた。1571年(元亀2年)、毛利元就の葬儀の導師を勤めた。1573年(天正1年)洞春寺住職。1575年(天正3年)4月、[[三聖寺]]住職。11月、[[博多聖福寺]]住職。1576年(天正4年)3月、[[建仁寺]]住職。1577年(天正5年)4月、[[南禅寺]]住職。1599年(慶長4年)10月5日、広島で死去。吉田郡山城に埋葬された。
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*2充甫玄棟()<>:嘯岳鼎虎の法嗣。1582年(天正10年)2月14日、足利義昭から[[景徳寺]]公帖と[[臨川寺]]公帖を同時に発給される。
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*2充甫玄棟()<1597->:嘯岳鼎虎の法嗣。1582年(天正10年)2月14日、足利義昭から[[景徳寺]]公帖と[[臨川寺]]公帖を同時に発給される。1597年(慶長2年)9月1日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。
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*3〓渓玄轍()<>:嘯岳鼎虎の法嗣。1599年(慶長4年)1月27日、安芸安国寺住職(公帖発給は1603年(慶長8年))。2月28日、禅興寺住職(公帖発給は1604年(慶長9年))。1610年(慶長15年)、建仁寺住職298世。同年、南禅寺住職。1612年(慶長17年)死去。〓渓景轍。(〓は「竹均」)
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*3〓渓玄轍(?-1612)<1600->:嘯岳鼎虎の法嗣。1599年(慶長4年)1月27日、[[安芸安国寺]]住職(公帖発給は1603年(慶長8年))。2月28日、[[禅興寺]]住職(公帖発給は1604年(慶長9年))。1600年(慶長5年)4月2日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。1610年(慶長15年)、建仁寺住職298世。同年、南禅寺住職。1612年(慶長17年)2月25日死去。〓渓景轍。(〓は「竹均」)
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*4如天玄勲()<>:〓渓玄轍の法嗣。1651年(慶安4年)死去。
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*4如天玄勲(?-1651)<1623->:〓渓玄轍の法嗣。1623年(元和9年)4月5日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。1651年(慶安4年)死去。
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*5義天玄瑞()<>:如天玄勲の法嗣。1677年(延宝5年)死去。
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*5義天玄瑞(?-1677)<>:如天玄勲の法嗣。1677年(延宝5年)死去。
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*6江峰宗澄()<>:義天玄瑞の法嗣。1730年(享保15年)死去。
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*6江峰宗澄(?-1730)<>:義天玄瑞の法嗣。1730年(享保15年)死去。
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*7天桂碩祐()<>:義天玄瑞の法嗣。1721年(享保6年)死去。
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*7天桂碩祐(?-1721)<>:義天玄瑞の法嗣。1721年(享保6年)死去。
*8愚渓碩賢()<>:天桂碩祐の法嗣。
*8愚渓碩賢()<>:天桂碩祐の法嗣。
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*9永明碩孝()<>:愚渓碩賢の法嗣。1769年(明和6年)死去。
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*9永明碩孝(?-1769)<>:愚渓碩賢の法嗣。建仁寺330世。1769年(明和6年)死去。
*10仙巌玄覚()<>:永明碩孝の法嗣。
*10仙巌玄覚()<>:永明碩孝の法嗣。
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*11越岸玄珠()<>:1822年(文政5年)死去。
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*11越岸玄珠(?-1822)<>:1822年(文政5年)死去。
*12古渓禅誌()<>:
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*13洪川玄基()<>:
*13洪川玄基()<>:
*14泰邦玄〓()<>:(〓は「人廷」)
*14泰邦玄〓()<>:(〓は「人廷」)
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*15実宗恵参()<>:1885年(明治18年)死去。
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*15実宗恵参(?-1885)<>:1885年(明治18年)死去。
*16玉翁真乗()<>:
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*17徳巌玄寿()<>:
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*18怡山至俊()<>:1910年(明治43年)死去。
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*18怡山至俊(?-1910)<>:1910年(明治43年)死去。
*19棟雲道隆()<>:
*19棟雲道隆()<>:
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*20夾山泰祐()<>:中村泰祐。建仁寺派管長。
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*20夾山泰祐(1886-1954)<1921->:中村泰祐。建仁寺417世。建仁寺派管長6代。1921年(大正10年)洞春寺住職。
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*21圭明泰巌()<>:高山泰巌。1998年(平成10年)死去。
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*21圭明泰巌(1933-1998)<>:高山泰巌。南禅僧堂師家。1998年(平成10年)死去。古清軒。
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*22日下元精()<>:1980年(昭和55年)花園大学卒。南禅僧堂師家。清光軒。
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*23日下元精()<>:南禅僧堂師家。清光軒
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*23深野宗泉()<2014->:2014年(平成26年)洞春寺住職。
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*24深野宗泉()<>:2014年(平成26年)洞春寺住職。
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2022年2月19日 (土) 時点における版

洞春寺(とうしゅんじ)は、山口県山口市水の上町にある臨済宗寺院。毛利元就の菩提寺。臨済宗建仁寺派。本尊は十一面観音である。安芸、広島、萩、山口と遷った。十刹山口藩(萩藩)毛利家における祖霊祭祀の中心であった。山号は正宗山。

目次

歴史

1573年(天正1年)、毛利輝元が毛利元就の菩提寺として嘯岳鼎虎を招いて吉田郡山城に創建。嘯岳鼎虎は幻住派の重鎮で、小早川家ゆかりの竹原妙法寺(現在の西方寺)の住職を務めていたのをきっかけに毛利家と関係ができたという。外交・政治手腕を持ち、1561年(永禄4年)には高橋鑑種を大友家家臣から毛利家に寝返させるのに活躍した。1571年(元亀2年)に毛利元就が亡くなるとその葬儀の導師を勤めた。

現在、吉田郡山城には洞春寺跡のほか、嘯岳鼎虎の墓や、毛利家吉田郡山城跡墓地(毛利元就、毛利隆元、歴代城主の墓)、常栄寺跡、毛利元就火葬所がある。

その後、毛利家の移転に伴い、広島、山口、萩、山口と点々とした。広島城時代には現在の広瀬神社の位置にあったという。

1587年(天正15年)、諸山に列格され、同年8月に十刹に昇格した。毛利輝元は毛利家中で洞春寺を首位とし、常栄寺を次位とすることを通達した。

1603年(慶長8年)、毛利家の山口入城に伴い、山口に移転。1606年(慶長11年)、毛利家が萩へ移転するとそれに従った。さらに1863年(文久3年)に毛利家が山口に藩庁を移すと、1869年(明治2年)、山口に移転。最初は旧大通院の伽藍を接収して移転。開山の別号にちなんで万年寺と改称した。改称は毛利家が菩提寺を廃止したことに伴ったものではないだろうか。1869年(明治2年)萩妙玖寺を合併。 1871年(明治4年)、旧常栄寺の現在地に移転した(常栄寺は妙寿寺の地に移転して、妙寿寺は廃絶となった)。1899年(明治32年)、再び洞春寺と称した。

1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを洞春寺におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ毛利本家祖霊社内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦)

本堂(十一面観音)および観音堂(聖観音)がある。山門は、もともとこの地にあった大内氏菩提寺の周防・国清寺創建当時(1404年(応永11年))のものだと言われている。 井上馨の墓がある(東京の長谷寺にもある)。

寺地変遷

  • 吉田郡山城時代:1573年(天正1年)創建。洞春寺跡が残る。
  • 広島時代:現在の広瀬神社の位置にあったという。
  • 第一次山口時代:1603年(慶長8年)山口移転。現在の浄瑠璃寺の地。
  • 萩時代:1606年(慶長11年)萩に移転。1608年(慶長13年)竣工。
  • 第二次山口時代:1869年(明治2年)山口の現在地(常栄寺跡)に移転。

組織

歴代住職

  • 1嘯岳鼎虎(1528-1599)<>:博多出身。1528年(享禄1年)生。当初は夢窓派に属し、昌虎を名乗った。1548年(天文17年)対馬宗氏が作り出した日本国王の偽使に同行して朝鮮に渡海。また2回、明に渡ったと伝承され、1544年(天文13年)・弘治年間の遣明船が候補に挙げられている。幻住派の湖心碩鼎に師事して幻住派にも所属。その法嗣となり、鼎虎と改名した。1562年(永禄5年)、高源寺住職。1565年(永禄8年)高源寺住職再任。1570年(元亀1年)高源寺住職に3度目の就任。小早川家ゆかりの竹原妙法寺の縁で毛利家と関係ができた。1571年(元亀2年)、毛利元就の葬儀の導師を勤めた。1573年(天正1年)洞春寺住職。1575年(天正3年)4月、三聖寺住職。11月、博多聖福寺住職。1576年(天正4年)3月、建仁寺住職。1577年(天正5年)4月、南禅寺住職。1599年(慶長4年)10月5日、広島で死去。吉田郡山城に埋葬された。
  • 2充甫玄棟()<1597->:嘯岳鼎虎の法嗣。1582年(天正10年)2月14日、足利義昭から景徳寺公帖と臨川寺公帖を同時に発給される。1597年(慶長2年)9月1日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。
  • 3〓渓玄轍(?-1612)<1600->:嘯岳鼎虎の法嗣。1599年(慶長4年)1月27日、安芸安国寺住職(公帖発給は1603年(慶長8年))。2月28日、禅興寺住職(公帖発給は1604年(慶長9年))。1600年(慶長5年)4月2日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。1610年(慶長15年)、建仁寺住職298世。同年、南禅寺住職。1612年(慶長17年)2月25日死去。〓渓景轍。(〓は「竹均」)
  • 4如天玄勲(?-1651)<1623->:〓渓玄轍の法嗣。1623年(元和9年)4月5日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。1651年(慶安4年)死去。
  • 5義天玄瑞(?-1677)<>:如天玄勲の法嗣。1677年(延宝5年)死去。
  • 6江峰宗澄(?-1730)<>:義天玄瑞の法嗣。1730年(享保15年)死去。
  • 7天桂碩祐(?-1721)<>:義天玄瑞の法嗣。1721年(享保6年)死去。
  • 8愚渓碩賢()<>:天桂碩祐の法嗣。
  • 9永明碩孝(?-1769)<>:愚渓碩賢の法嗣。建仁寺330世。1769年(明和6年)死去。
  • 10仙巌玄覚()<>:永明碩孝の法嗣。
  • 11越岸玄珠(?-1822)<>:1822年(文政5年)死去。
  • 12古渓禅誌()<>:
  • 13洪川玄基()<>:
  • 14泰邦玄〓()<>:(〓は「人廷」)
  • 15実宗恵参(?-1885)<>:1885年(明治18年)死去。
  • 16玉翁真乗()<>:
  • 17徳巌玄寿()<>:
  • 18怡山至俊(?-1910)<>:1910年(明治43年)死去。
  • 19棟雲道隆()<>:
  • 20夾山泰祐(1886-1954)<1921->:中村泰祐。建仁寺417世。建仁寺派管長6代。1921年(大正10年)洞春寺住職。
  • 21圭明泰巌(1933-1998)<>:高山泰巌。南禅僧堂師家。1998年(平成10年)死去。古清軒。
  • 22日下元精()<>:1980年(昭和55年)花園大学卒。南禅僧堂師家。清光軒。
  • 23深野宗泉()<2014->:2014年(平成26年)洞春寺住職。


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