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洞春寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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===歴代住職===
===歴代住職===
*1嘯岳鼎虎(1528-1599)<>:博多出身。1528年(享禄1年)生。当初は[[夢窓派]]に属し、昌虎を名乗った。1548年(天文17年)対馬宗氏が作り出した日本国王の偽使に同行して朝鮮に渡海。また2回、明に渡ったと伝承され、1544年(天文13年)・弘治年間の遣明船が候補に挙げられている。[[幻住派]]の湖心碩鼎に師事して幻住派にも所属。その法嗣となり、鼎虎と改名した。1562年(永禄5年)、[[高源寺]]住職。1565年(永禄8年)高源寺住職再任。1570年(元亀1年)高源寺住職に3度目の就任。小早川家ゆかりの竹原妙法寺の縁で毛利家と関係ができた。1571年(元亀2年)、毛利元就の葬儀の導師を勤めた。1573年(天正1年)洞春寺住職。1575年(天正3年)4月、[[三聖寺]]住職。11月、[[博多聖福寺]]住職。1576年(天正4年)3月、[[建仁寺]]住職。1577年(天正5年)4月、[[南禅寺]]住職。1592年、豊臣秀吉朝鮮出兵で従軍。1599年(慶長4年)10月5日、広島で死去。吉田郡山城に埋葬された。門下の済陰玄宏は臨川寺や天龍寺に入寺して幻住派が京都五山に本格的に進出するきっかけを作り、その末流は関東地方にも広がった。
*1嘯岳鼎虎(1528-1599)<>:博多出身。1528年(享禄1年)生。当初は[[夢窓派]]に属し、昌虎を名乗った。1548年(天文17年)対馬宗氏が作り出した日本国王の偽使に同行して朝鮮に渡海。また2回、明に渡ったと伝承され、1544年(天文13年)・弘治年間の遣明船が候補に挙げられている。[[幻住派]]の湖心碩鼎に師事して幻住派にも所属。その法嗣となり、鼎虎と改名した。1562年(永禄5年)、[[高源寺]]住職。1565年(永禄8年)高源寺住職再任。1570年(元亀1年)高源寺住職に3度目の就任。小早川家ゆかりの竹原妙法寺の縁で毛利家と関係ができた。1571年(元亀2年)、毛利元就の葬儀の導師を勤めた。1573年(天正1年)洞春寺住職。1575年(天正3年)4月、[[三聖寺]]住職。11月、[[博多聖福寺]]住職。1576年(天正4年)3月、[[建仁寺]]住職。1577年(天正5年)4月、[[南禅寺]]住職。1592年、豊臣秀吉朝鮮出兵で従軍。1599年(慶長4年)10月5日、広島で死去。吉田郡山城に埋葬された。門下の済陰玄宏は臨川寺や天龍寺に入寺して幻住派が京都五山に本格的に進出するきっかけを作り、その末流は関東地方にも広がった。
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*2充甫玄棟()<1597->:嘯岳鼎虎の法嗣。1582年(天正10年)2月14日、足利義昭から[[景徳寺]]公帖と[[臨川寺]]公帖を同時に発給される。1597年(慶長2年)9月1日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。
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*2充甫玄棟(?-1597)<1597-1597>:嘯岳鼎虎の法嗣。1582年(天正10年)2月14日、足利義昭から[[景徳寺]]公帖と[[臨川寺]]公帖を同時に発給される。1597年(慶長2年)9月1日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。のちの天桂碩祐が語ったところによると、就任の1597年に死去したという。『防長寺社由来』の1587年5月17日死去は誤りとみられる。
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*3〓渓玄轍(?-1612)<1600->:嘯岳鼎虎の法嗣。1599年(慶長4年)1月27日、[[安芸安国寺]]住職(公帖発給は1603年(慶長8年))。2月28日、[[禅興寺]]住職(公帖発給は1604年(慶長9年))。1600年(慶長5年)4月2日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。1610年(慶長15年)、建仁寺住職298世。同年、南禅寺住職。1612年(慶長17年)2月25日死去。〓渓景轍。(〓は「竹均」)
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*3〓渓玄轍(1562-1612)<1600-?>:備中国出身。嘯岳鼎虎の法嗣。1599年(慶長4年)1月27日、[[安芸安国寺]]住職(公帖発給は1603年(慶長8年)9月11日)。2月28日、[[禅興寺]]住職(公帖発給は1604年(慶長9年)2月23日)。1600年(慶長5年)4月2日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。安国寺を継ぐ予定が充甫玄棟の急死により、嘯岳鼎虎の懇請で後継者となったという。1610年(慶長15年)2月16日、徳川秀忠公帖で建仁寺住職298世。同年4月5日、徳川秀忠公帖で南禅寺住職。紫福村の見性院に隠居。1612年(慶長17年)2月25日死去。〓渓景轍。(〓は「竹均」)
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*4如天玄勲(?-1651)<1623->:〓渓玄轍の法嗣。1623年(元和9年)4月5日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。1651年(慶安4年)死去。
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*4如天玄勲(?-1651)<1623->:〓渓玄轍の法嗣。1622/3/5、徳川秀忠公帖で景徳寺住職。同年5月10日に同年 公帖で聖福寺住職。1623年(元和9年)4月5日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。1651年(慶安4年)11/25死去。
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*5義天玄瑞(?-1677)<>:如天玄勲の法嗣。1677年(延宝5年)死去。
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*5義天玄瑞(?-1677)<1651?-1677>:如天玄勲の法嗣。寛文3年5/14、徳川家綱公帖で安国寺住職。6/14同公帖で真如寺住職。1667/7/5、徳川家綱公帖で建仁寺住職。1677年(延宝5年)死去。
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*6江峰宗澄(?-1730)<>:義天玄瑞の法嗣。1730年(享保15年)死去。
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*6江峰宗澄(?-1730)<1677-1691>:義天玄瑞の法嗣。1677年、奉書で洞春寺住職任命。1691年隠居。1711年建仁寺住職。1730年(享保15年)、建仁寺で死去。初名は碩尹だっだが、上京後改名したとみられる。
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*7天桂碩祐(?-1721)<>:義天玄瑞の法嗣。1721年(享保6年)死去。
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*7天桂碩祐(?-1721)<1691-1720>:義天玄瑞の法嗣。1691年、洞春寺住職を相続したが当時は上京中で実際に入寺したのは2年後という。元禄16年8/12、徳川綱吉公帖で安国寺住職。9月15日、同公帖で真如寺住職。1710年12/17、徳川家宣公帖で建仁寺住職。1720年隠居。1721年(享保6年)死去。
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*8愚渓碩賢()<>:天桂碩祐の法嗣。
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*8愚渓碩賢(?-1735)<1720-1734>:天桂碩祐の法嗣。1720年相続。毛利元就150年遠忌を営む。1721年、建仁寺西堂か。同年10/14、徳川吉宗公帖で安芸安国寺住職。同年12/5同公帖で真如寺住職。1734年死去。建仁寺住職に就かなかった。
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*9永明碩孝(?-1769)<>:愚渓碩賢の法嗣。建仁寺330世。1769年(明和6年)死去。
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*9永明碩孝(?-1769)<1734-1766>:愚渓碩賢の法嗣。1734年、相続。元文4年1/20徳川吉宗公帖で安国寺住職。2/24真如寺。1754年2/11、徳川家重公帖で建仁寺330世。1766年隠居。1769年(明和6年)死去。
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*10仙巌玄覚()<>:永明碩孝の法嗣。
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*10仙巌玄覚(?-1792)<1766-1792>:永明碩孝の法嗣。1766年相続。明和6年12/8徳川家治公帖で安国寺住職。翌年1/18同公帖で真如寺住職。1784年12/16、徳川家治公帖で建仁寺住職。1792年死去。
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*11越岸玄珠(?-1822)<>:1822年(文政5年)死去。
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*11越岸玄珠(?-1822)<>:入寺年月不明。1794年6/26、徳川家斉公帖で安国寺住職。7/5同公帖で真如寺住職。1811年12/20、徳川家斉公帖で建仁寺住職。1822年(文政5年)死去。
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*12古渓禅誌()<>
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*12古渓禅誌(?-1823)<1822-1823>:1822年相続。1823年死去。
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*13洪川玄基()<>
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*13洪川玄基(?-1867)<1823-1846>:1823年相続。1831年12/20徳川家斉公帖で安国寺住職。1832/1/12同公帖で真如寺住職。毛利家の財政改革のため、献納金の用意ができず建仁寺住職になるタイミングを逃したという。1846年隠居。1867年死去。
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*14泰邦玄〓()<>:(〓は「人廷」)
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*14泰邦玄〓(?-1885)<1846->:1846年相続。1860年6/30、徳川家茂公帖で安国寺住職。7/20、同公帖で真如寺住職。1885年死去。(〓は「人廷」)
*15実宗恵参(?-1885)<>:1885年(明治18年)死去。
*15実宗恵参(?-1885)<>:1885年(明治18年)死去。
*16玉翁真乗()<>:
*16玉翁真乗()<>:
*17徳巌玄寿()<>:
*17徳巌玄寿()<>:
*18怡山至俊(?-1910)<>:1910年(明治43年)死去。
*18怡山至俊(?-1910)<>:1910年(明治43年)死去。
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*19棟雲道隆()<>
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*19棟雲道隆()<>:明治27年6/26西堂から東堂に昇級。明治28年改衣。明治33年11/15、管長から建仁寺公帖。
*20夾山泰祐(1886-1954)<1921->:中村泰祐。建仁寺417世。建仁寺派管長6代。1921年(大正10年)洞春寺住職。
*20夾山泰祐(1886-1954)<1921->:中村泰祐。建仁寺417世。建仁寺派管長6代。1921年(大正10年)洞春寺住職。
*21圭明泰巌(1933-1998)<>:高山泰巌。南禅僧堂師家。1998年(平成10年)死去。古清軒。
*21圭明泰巌(1933-1998)<>:高山泰巌。南禅僧堂師家。1998年(平成10年)死去。古清軒。

2022年2月20日 (日) 時点における版

洞春寺(とうしゅんじ)は、山口県山口市水の上町にある臨済宗寺院。毛利元就の菩提寺。臨済宗建仁寺派。本尊は十一面観音である。安芸、広島、萩、山口と遷った。十刹山口藩(萩藩)毛利家における祖霊祭祀の中心であった。山号は正宗山。

目次

歴史

1573年(天正1年)、毛利輝元が毛利元就の菩提寺として嘯岳鼎虎を招いて吉田郡山城に創建。以来、毛利家配下の筆頭寺院として厚遇された。その後、毛利家の移転に伴い、広島、山口、萩を転々とし、明治初年に現在地に移転した。

開山の嘯岳鼎虎は幻住派の重鎮で、洞春寺に迎えられる以前に既に幻住派の拠点の高源寺住職を3度務めていた。朝鮮や明にも渡海し、大内氏の外交に携わっていたとみられる。年代は不明だが、毛利系小早川家ゆかりの竹原妙法寺(現在の西方寺)の住職を務めていたのをきっかけに毛利家と関係ができたという。外交・政治手腕を持ち、1561年(永禄4年)には高橋鑑種を大友家家臣から毛利家に寝返させるのに活躍した。1571年(元亀2年)に毛利元就が亡くなるとその葬儀の導師を勤めた。現在、吉田郡山城には洞春寺跡のほか、嘯岳鼎虎の墓や、毛利家吉田郡山城跡墓地(毛利元就、毛利隆元、歴代城主の墓)、常栄寺跡、毛利元就火葬所がある。

広島移転の年代は明確でない。しばらく新旧併存してやがて広島に一本化されたという。 広島城時代には現在の広瀬神社の位置にあったという。

1576年、毛利輝元は四至を定めた。

1587年(天正15年)、足利義昭によって諸山に列格され、同年8月に十刹に昇格した。毛利輝元は毛利家中で洞春寺を首位とし、常栄寺を次位とすることを通達した。1597年にも再度通達している。

1603年(慶長8年)、毛利家の山口入城に伴い、山口に移転。1606年(慶長11年)、毛利家が萩へ移転するとそれに従った。さらに1863年(文久3年)に毛利家が山口に藩庁を移すと、1869年(明治2年)、山口に移転。最初は旧大通院の伽藍を接収して移転。開山の別号にちなんで万年寺と改称した。改称は毛利家が菩提寺を廃止したことに伴ったものではないだろうか。1869年(明治2年)萩妙玖寺を合併。 1871年(明治4年)、旧常栄寺の現在地に移転した(常栄寺は妙寿寺の地に移転して、妙寿寺は廃絶となった)。1899年(明治32年)、再び洞春寺と称した。

1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを洞春寺におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ毛利本家祖霊社内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦)

本堂(十一面観音)および観音堂(聖観音)がある。山門は、もともとこの地にあった大内氏菩提寺の周防・国清寺創建当時(1404年(応永11年))のものだと言われている。 井上馨の墓がある(東京の長谷寺にもある)。

寺地変遷

  • 吉田郡山城時代:1573年(天正1年)創建。洞春寺跡が残る。
  • 広島時代:現在の広瀬神社の位置にあったという。
  • 第一次山口時代:1603年(慶長8年)山口移転。現在の浄瑠璃寺の地。
  • 萩時代:1606年(慶長11年)萩に移転。1608年(慶長13年)竣工。
  • 第二次山口時代:1869年(明治2年)山口の現在地(常栄寺跡)に移転。

組織

歴代住職

  • 1嘯岳鼎虎(1528-1599)<>:博多出身。1528年(享禄1年)生。当初は夢窓派に属し、昌虎を名乗った。1548年(天文17年)対馬宗氏が作り出した日本国王の偽使に同行して朝鮮に渡海。また2回、明に渡ったと伝承され、1544年(天文13年)・弘治年間の遣明船が候補に挙げられている。幻住派の湖心碩鼎に師事して幻住派にも所属。その法嗣となり、鼎虎と改名した。1562年(永禄5年)、高源寺住職。1565年(永禄8年)高源寺住職再任。1570年(元亀1年)高源寺住職に3度目の就任。小早川家ゆかりの竹原妙法寺の縁で毛利家と関係ができた。1571年(元亀2年)、毛利元就の葬儀の導師を勤めた。1573年(天正1年)洞春寺住職。1575年(天正3年)4月、三聖寺住職。11月、博多聖福寺住職。1576年(天正4年)3月、建仁寺住職。1577年(天正5年)4月、南禅寺住職。1592年、豊臣秀吉朝鮮出兵で従軍。1599年(慶長4年)10月5日、広島で死去。吉田郡山城に埋葬された。門下の済陰玄宏は臨川寺や天龍寺に入寺して幻住派が京都五山に本格的に進出するきっかけを作り、その末流は関東地方にも広がった。
  • 2充甫玄棟(?-1597)<1597-1597>:嘯岳鼎虎の法嗣。1582年(天正10年)2月14日、足利義昭から景徳寺公帖と臨川寺公帖を同時に発給される。1597年(慶長2年)9月1日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。のちの天桂碩祐が語ったところによると、就任の1597年に死去したという。『防長寺社由来』の1587年5月17日死去は誤りとみられる。
  • 3〓渓玄轍(1562-1612)<1600-?>:備中国出身。嘯岳鼎虎の法嗣。1599年(慶長4年)1月27日、安芸安国寺住職(公帖発給は1603年(慶長8年)9月11日)。2月28日、禅興寺住職(公帖発給は1604年(慶長9年)2月23日)。1600年(慶長5年)4月2日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。安国寺を継ぐ予定が充甫玄棟の急死により、嘯岳鼎虎の懇請で後継者となったという。1610年(慶長15年)2月16日、徳川秀忠公帖で建仁寺住職298世。同年4月5日、徳川秀忠公帖で南禅寺住職。紫福村の見性院に隠居。1612年(慶長17年)2月25日死去。〓渓景轍。(〓は「竹均」)
  • 4如天玄勲(?-1651)<1623->:〓渓玄轍の法嗣。1622/3/5、徳川秀忠公帖で景徳寺住職。同年5月10日に同年 公帖で聖福寺住職。1623年(元和9年)4月5日、毛利輝元から洞春寺住職に任命。1651年(慶安4年)11/25死去。
  • 5義天玄瑞(?-1677)<1651?-1677>:如天玄勲の法嗣。寛文3年5/14、徳川家綱公帖で安国寺住職。6/14同公帖で真如寺住職。1667/7/5、徳川家綱公帖で建仁寺住職。1677年(延宝5年)死去。
  • 6江峰宗澄(?-1730)<1677-1691>:義天玄瑞の法嗣。1677年、奉書で洞春寺住職任命。1691年隠居。1711年建仁寺住職。1730年(享保15年)、建仁寺で死去。初名は碩尹だっだが、上京後改名したとみられる。
  • 7天桂碩祐(?-1721)<1691-1720>:義天玄瑞の法嗣。1691年、洞春寺住職を相続したが当時は上京中で実際に入寺したのは2年後という。元禄16年8/12、徳川綱吉公帖で安国寺住職。9月15日、同公帖で真如寺住職。1710年12/17、徳川家宣公帖で建仁寺住職。1720年隠居。1721年(享保6年)死去。
  • 8愚渓碩賢(?-1735)<1720-1734>:天桂碩祐の法嗣。1720年相続。毛利元就150年遠忌を営む。1721年、建仁寺西堂か。同年10/14、徳川吉宗公帖で安芸安国寺住職。同年12/5同公帖で真如寺住職。1734年死去。建仁寺住職に就かなかった。
  • 9永明碩孝(?-1769)<1734-1766>:愚渓碩賢の法嗣。1734年、相続。元文4年1/20徳川吉宗公帖で安国寺住職。2/24真如寺。1754年2/11、徳川家重公帖で建仁寺330世。1766年隠居。1769年(明和6年)死去。
  • 10仙巌玄覚(?-1792)<1766-1792>:永明碩孝の法嗣。1766年相続。明和6年12/8徳川家治公帖で安国寺住職。翌年1/18同公帖で真如寺住職。1784年12/16、徳川家治公帖で建仁寺住職。1792年死去。
  • 11越岸玄珠(?-1822)<>:入寺年月不明。1794年6/26、徳川家斉公帖で安国寺住職。7/5同公帖で真如寺住職。1811年12/20、徳川家斉公帖で建仁寺住職。1822年(文政5年)死去。
  • 12古渓禅誌(?-1823)<1822-1823>:1822年相続。1823年死去。
  • 13洪川玄基(?-1867)<1823-1846>:1823年相続。1831年12/20徳川家斉公帖で安国寺住職。1832/1/12同公帖で真如寺住職。毛利家の財政改革のため、献納金の用意ができず建仁寺住職になるタイミングを逃したという。1846年隠居。1867年死去。
  • 14泰邦玄〓(?-1885)<1846->:1846年相続。1860年6/30、徳川家茂公帖で安国寺住職。7/20、同公帖で真如寺住職。1885年死去。(〓は「人廷」)
  • 15実宗恵参(?-1885)<>:1885年(明治18年)死去。
  • 16玉翁真乗()<>:
  • 17徳巌玄寿()<>:
  • 18怡山至俊(?-1910)<>:1910年(明治43年)死去。
  • 19棟雲道隆()<>:明治27年6/26西堂から東堂に昇級。明治28年改衣。明治33年11/15、管長から建仁寺公帖。
  • 20夾山泰祐(1886-1954)<1921->:中村泰祐。建仁寺417世。建仁寺派管長6代。1921年(大正10年)洞春寺住職。
  • 21圭明泰巌(1933-1998)<>:高山泰巌。南禅僧堂師家。1998年(平成10年)死去。古清軒。
  • 22日下元精()<>:1980年(昭和55年)花園大学卒。南禅僧堂師家。清光軒。
  • 23深野宗泉()<2014->:2014年(平成26年)洞春寺住職。


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