ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
浄光明寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(版間での差分)
1行: | 1行: | ||
- | '''浄光明寺''' | + | '''浄光明寺'''(じょうこうみょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある、[[北条家]]・[[足利家]]ゆかりの[[真言宗]]寺院。本尊は阿弥陀如来。[[真言宗泉涌寺派]]。山号は泉谷山。[[鶴岡八幡宮]]の神主を世襲した大伴家の[[大伴神主家墓所]]がある。(参考:同名寺院[[浄光明寺_(同名)]]) |
+ | |||
+ | == 歴史 == | ||
+ | [[文覚]]の草庵が前身という。1251年(建長3年)北条長時を開基として真聖国師真阿が創建。1264年(文永1年)、北条長時は浄光明寺で死去(鎌倉年代記)。『吾妻鏡』にある1265年(文永2年)北条長時の追善供養を行った「泉谷新造堂」が浄光明寺と思われる。 | ||
+ | |||
+ | 2世は性仙道空あるいは真了という。3世は如仙高恵の時代に四宗兼学の寺院として確立した。1333年(元弘3年/正慶2年)の[[後醍醐天皇]]綸旨が残る。同年12月、[[成良親王]]祈願所となる。1335年(建武2年)、[[新田義貞]]が鎌倉攻めした時、[[足利尊氏]]が一時蟄居した。 | ||
+ | 1399年(応永6年)10月、足利満兼が足利基氏と足利氏満の分骨を収めた。 | ||
+ | |||
+ | 1923年(大正12年)の関東大震災で大破。本堂のみが現存する。 | ||
+ | |||
+ | 子院として玉泉院、慈恩院、華蔵院、東南院、慈光院、地蔵院があった。幕末には慈恩院のみが残っていた。 | ||
+ | |||
+ | 慈恩院は[[護良親王]]の追善のために足利直義が創建。 | ||
+ | 護良親王位牌は[[理智光寺]]を経て[[東慶寺]]に現存するという。 | ||
+ | |||
+ | (日本歴史地名大系) | ||
+ | |||
- | |||
[[category:神奈川県]] | [[category:神奈川県]] |
2019年3月18日 (月) 時点における版
浄光明寺(じょうこうみょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある、北条家・足利家ゆかりの真言宗寺院。本尊は阿弥陀如来。真言宗泉涌寺派。山号は泉谷山。鶴岡八幡宮の神主を世襲した大伴家の大伴神主家墓所がある。(参考:同名寺院浄光明寺_(同名))
歴史
文覚の草庵が前身という。1251年(建長3年)北条長時を開基として真聖国師真阿が創建。1264年(文永1年)、北条長時は浄光明寺で死去(鎌倉年代記)。『吾妻鏡』にある1265年(文永2年)北条長時の追善供養を行った「泉谷新造堂」が浄光明寺と思われる。
2世は性仙道空あるいは真了という。3世は如仙高恵の時代に四宗兼学の寺院として確立した。1333年(元弘3年/正慶2年)の後醍醐天皇綸旨が残る。同年12月、成良親王祈願所となる。1335年(建武2年)、新田義貞が鎌倉攻めした時、足利尊氏が一時蟄居した。 1399年(応永6年)10月、足利満兼が足利基氏と足利氏満の分骨を収めた。
1923年(大正12年)の関東大震災で大破。本堂のみが現存する。
子院として玉泉院、慈恩院、華蔵院、東南院、慈光院、地蔵院があった。幕末には慈恩院のみが残っていた。
慈恩院は護良親王の追善のために足利直義が創建。 護良親王位牌は理智光寺を経て東慶寺に現存するという。
(日本歴史地名大系)