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浄厳院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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浄厳院(じょうごんいん)は滋賀県近江八幡市安土町慈恩寺(近江国蒲生郡)の安土城下にある織田信長ゆかりの浄土宗寺院。本尊は阿弥陀如来。近世の近江国浄土宗の中心寺院だった。鎮西派一条流の拠点だった。慈恩寺と号す。山号は金勝山。(参考:同名寺院慈恩寺_(同名))
歴史
浄厳坊隆尭が金勝山の麓に営んだ草庵が起源という。草庵は近江・阿弥陀寺となった。1577年(天正5年)、金勝山で鷹狩をした織田信長が阿弥陀寺で休憩。住職の8世応誉明感を気に入り、安土の近江・慈恩寺跡に寺を設けた。これが浄厳院だという。本堂は近江・興隆寺(近江八幡市多賀町)弥勒堂を移築し、本尊阿弥陀如来像は愛知郡内から調達したという。信長が近江国の本山と定め、末寺800寺を擁したという。中でも阿弥陀寺、建部・弘誓寺、近江・常念寺、近江・称名寺は有力だった。
1579年(天正7年)5月27日、浄厳院で浄土宗と日蓮宗の争論が開かれた。いわゆる安土宗論である。 浄土宗側から聖誉貞安、霊誉玉念、信誉洞庫、一心院助念が出席。 日蓮宗側から頂妙寺日珖、久遠院(京都・寂光寺)日淵、日諦らが出席した。 南禅寺鉄叟景秀らが審判役となり、信長の三奉行が立会人となった。 数度の問答が繰り返されたが、日蓮宗側が回答に一瞬詰まったことをもって浄土宗側の勝利とされた。 日珖はその場で袈裟を剥ぎ取られた。論争のきっかけとなった日蓮宗の普伝院日門もすぐさま処刑された。 (日本歴史地名大系)