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深草・浄蓮華院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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[[桓武天皇]]菩提寺。陵墓に付属する寺院。[[天台宗]]。本尊は[[阿弥陀如来]]。
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江戸時代、[[桓武天皇陵]]は現在と異なり、深草の谷口古墳と考えられており、幕府の行った元禄の修陵でも同古墳が陵墓とされた。
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江戸時代、[[桓武天皇陵]]は現在と異なり、深草の谷口古墳([[桓武天皇陵 深草考証地]])と考えられており、幕府の行った元禄の修陵でも同古墳が陵墓とされた。
最澄の遠忌事業で、[[比叡山]]は陵墓の柵の修復とともに小堂を建立し、僧侶に供養させることを幕府に請願。修復は行われたが、小堂の建立は許可が降りなかった。その後、幕末に有栖川宮が尭覚らと拝殿創建運動を起こし、文政4年(1821)に当院が創建された。
最澄の遠忌事業で、[[比叡山]]は陵墓の柵の修復とともに小堂を建立し、僧侶に供養させることを幕府に請願。修復は行われたが、小堂の建立は許可が降りなかった。その後、幕末に有栖川宮が尭覚らと拝殿創建運動を起こし、文政4年(1821)に当院が創建された。
しかし、山陵研究が進むとともに、桓武天皇陵の谷口古墳説は支持されなくなり、文久の修陵では候補地不明のまま修復の対象とならず、事実上、同説は否定された。その後、明治13年に現陵が治定された。
しかし、山陵研究が進むとともに、桓武天皇陵の谷口古墳説は支持されなくなり、文久の修陵では候補地不明のまま修復の対象とならず、事実上、同説は否定された。その後、明治13年に現陵が治定された。
京都府京都市伏見区。
京都府京都市伏見区。

2014年8月7日 (木) 時点における版

桓武天皇菩提寺。陵墓に付属する寺院。天台宗。本尊は阿弥陀如来。 江戸時代、桓武天皇陵は現在と異なり、深草の谷口古墳(桓武天皇陵 深草考証地)と考えられており、幕府の行った元禄の修陵でも同古墳が陵墓とされた。 最澄の遠忌事業で、比叡山は陵墓の柵の修復とともに小堂を建立し、僧侶に供養させることを幕府に請願。修復は行われたが、小堂の建立は許可が降りなかった。その後、幕末に有栖川宮が尭覚らと拝殿創建運動を起こし、文政4年(1821)に当院が創建された。 しかし、山陵研究が進むとともに、桓武天皇陵の谷口古墳説は支持されなくなり、文久の修陵では候補地不明のまま修復の対象とならず、事実上、同説は否定された。その後、明治13年に現陵が治定された。 京都府京都市伏見区。

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