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深草北陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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「深草法華堂」「安楽行院法華堂」「深草十二帝陵」ともいう。 | 「深草法華堂」「安楽行院法華堂」「深草十二帝陵」ともいう。 | ||
後深草天皇の遺骨を収めるために、法華堂が建立された。付属寺院として[[安楽行院]]が創建された。持明院統の天皇がこの法華堂に次々に葬られた。しかし、深草法華堂および安楽行院は、戦国時代の戦乱で荒廃した。 | 後深草天皇の遺骨を収めるために、法華堂が建立された。付属寺院として[[安楽行院]]が創建された。持明院統の天皇がこの法華堂に次々に葬られた。しかし、深草法華堂および安楽行院は、戦国時代の戦乱で荒廃した。 | ||
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後深草天皇の陵墓としては、文久の修陵の際には現在地のほかに、後深草天皇が崩御した伏見殿跡に「後深草帝 御火所」が定められたが、別説に基づき、同地はのちに[[後崇光太上天皇陵]]に変更された。(『文久山陵図』224・同所収「山陵考」281-283・京都市「嘉祥寺現地解説板」・嘉祥寺「嘉祥寺由緒」) | 後深草天皇の陵墓としては、文久の修陵の際には現在地のほかに、後深草天皇が崩御した伏見殿跡に「後深草帝 御火所」が定められたが、別説に基づき、同地はのちに[[後崇光太上天皇陵]]に変更された。(『文久山陵図』224・同所収「山陵考」281-283・京都市「嘉祥寺現地解説板」・嘉祥寺「嘉祥寺由緒」) | ||
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File:Fukakusa-hokkedo_003.jpg|深草法華堂 入口 | File:Fukakusa-hokkedo_003.jpg|深草法華堂 入口 | ||
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File:Fukakusa-hokkedo_001.jpg|深草法華堂 拝所 | File:Fukakusa-hokkedo_001.jpg|深草法華堂 拝所 | ||
File:Fukakusa-hokkedo_002.jpg|深草法華堂 道標 | File:Fukakusa-hokkedo_002.jpg|深草法華堂 道標 | ||
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2013年5月4日 (土) 時点における版
深草北陵 ふかくさ きた の みささぎ | |
概要 | 後深草天皇などの陵墓。 |
奉斎 | |
所在地 | 京都府京都市伏見区深草坊町 |
所在地(旧国郡) | 山城国紀伊郡 |
格式など | 治定陵墓 |
関連記事 | |
目次 |
概要
「深草法華堂」「安楽行院法華堂」「深草十二帝陵」ともいう。 後深草天皇の遺骨を収めるために、法華堂が建立された。付属寺院として安楽行院が創建された。持明院統の天皇がこの法華堂に次々に葬られた。しかし、深草法華堂および安楽行院は、戦国時代の戦乱で荒廃した。 江戸時代になり、1617年(元和3年)、後陽成天皇の葬送の際に深草法華堂が再建された。一間四方の宝形造の小堂であった。1662年(寛文2年)には空心という僧により安楽行院も復興した(同時に安楽行院内に文徳天皇勅願で仁明天皇菩提寺の嘉祥寺を復興したが、嘉祥寺の旧地とは異なるという。)。しかし、法華堂はまもなく荒廃して元禄年間には三度の修復を受けている。 江戸時代における深草法華堂の被葬者の認識については、異同があるようだ。 文久の修陵に際しては、後深草(89・持明院統1)、伏見(92・持明院統2)、後伏見(93・持明院統3)、後光厳(北朝4・持明院統8)、後円融(北朝5)、後小松(100・北朝6)、称光(101)、後土御門(103)、後柏原(104)、後奈良(105)、正親町(106)、後陽成(107)の天皇陵として「深草法華堂」として修復の対象となった。従来の小堂は取り壊されて、同じ場所に三間四方の宝形造柿葺の壮麗な堂宇が造営された。興味深いことに堂宇の前には鳥居が建てられ、祭場と思われる区画が整備されている(堂前に鳥居が書かれた古図があったらしいがこれに依るものか)。 明治以降に鳥居は撤去されて屋根は瓦葺に葺き替えられた。また伏見宮家初代の栄仁親王の墓もこの法華堂に治定された(年代未確認)。1894年(明治27年)に嘉祥寺の境内地を割いて、陵域を整備した(「嘉祥寺由緒」)。1906年(明治39年)3月23日、従来、「深草法華堂」と称してきたが、「深草北陵」と改称する(明治天皇紀)。 安楽行院と嘉祥寺と真宗院(浄土宗。後深草天皇勅願)および深草法華堂の関係については、由緒が混同されているようで、明瞭でない。 後深草天皇の陵墓としては、文久の修陵の際には現在地のほかに、後深草天皇が崩御した伏見殿跡に「後深草帝 御火所」が定められたが、別説に基づき、同地はのちに後崇光太上天皇陵に変更された。(『文久山陵図』224・同所収「山陵考」281-283・京都市「嘉祥寺現地解説板」・嘉祥寺「嘉祥寺由緒」)
画像
参考文献