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真宗大谷派赤羽別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月16日 (金)
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20代達如の時代の寛政10年(1798)に'''掛所'''となり、'''赤羽御坊'''と呼ばれた。御坊にふさわしい伽藍を建てようと、文政7年(1824)11月、巨大な本堂が建立。しかし、昭和20年(1945)の三河地震で諸堂が倒壊。34年(1959)の伊勢湾台風で本堂も倒壊した。旧詰所を仮本堂としていたが、平成7年(1995)10月本堂を再建した。 | 20代達如の時代の寛政10年(1798)に'''掛所'''となり、'''赤羽御坊'''と呼ばれた。御坊にふさわしい伽藍を建てようと、文政7年(1824)11月、巨大な本堂が建立。しかし、昭和20年(1945)の三河地震で諸堂が倒壊。34年(1959)の伊勢湾台風で本堂も倒壊した。旧詰所を仮本堂としていたが、平成7年(1995)10月本堂を再建した。 | ||
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== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
*木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部 | *木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部 |
2023年6月16日 (金) 時点における最新版
真宗大谷派赤羽別院(しんしゅうおおたには・あかばね・べついん)は、愛知県西尾市一色町にある真宗大谷派の別院。本目山親宣寺。赤羽御坊。三河別院の設立まで西三河の大寺院だった。
歴史
旗本の本目親宣は、江戸本法寺良秀に師事した熱心な門徒だった。元禄13年(1700)に西尾藩主土井利意(出典やウェブサイトには利忠とあるが、該当人物はいないため、利意の誤記を思われる)に許可を得て、一宇を建立したのが起源。翌年に東本願寺17代真如から本目山親宣寺の寺号と絵像本尊を授かった。現在も本目親宣の墓がある。蓮如ゆかりの道場が起源という異説もあるが不詳。
20代達如の時代の寛政10年(1798)に掛所となり、赤羽御坊と呼ばれた。御坊にふさわしい伽藍を建てようと、文政7年(1824)11月、巨大な本堂が建立。しかし、昭和20年(1945)の三河地震で諸堂が倒壊。34年(1959)の伊勢湾台風で本堂も倒壊した。旧詰所を仮本堂としていたが、平成7年(1995)10月本堂を再建した。
参考文献
- 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
- 金岡秀友、昭和56『古寺名刹大辞典』