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真野宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | *1846年(弘化3年) | + | *1242年(仁治3年)10月14日:順徳天皇崩御。火葬。 |
- | *1868年(明治1年) | + | *1243年(寛元1年):随身の藤原康光が遺骨を奉じて京都に戻り、勝林院に納骨したという。 |
+ | *1679年(延宝7年):国分寺賢教、真輪寺賢照が佐渡奉行曽根吉正に陵墓の修復を請願。のち幕府の許可を得て現在の形に修復した。 | ||
+ | *1846年(弘化3年)4月21日:仁和寺宮が木造三重宝塔を寄進。 | ||
+ | *1868年(明治1年)11月:佐渡県判事奥平謙輔、真輪寺を廃絶。 | ||
+ | *1868年(明治1年)12月:旧本堂を清めて仮遷宮をして神像を奉安。 | ||
+ | *1869年(明治2年)5月:神祇官、以後神式での祭典を命じる。 | ||
+ | *1873年(明治6年):教部省の命で三重宝塔を国分寺に移す。 | ||
+ | *1873年(明治6年)2月:相川県、順徳天皇尊像について教部省に報告。 | ||
*1873年(明治6年)8月15日:明治天皇、順徳天皇の神霊を佐渡から水無瀬宮に奉遷するように命じる。 | *1873年(明治6年)8月15日:明治天皇、順徳天皇の神霊を佐渡から水無瀬宮に奉遷するように命じる。 | ||
+ | *1874年(明治7年)2月:相川県権令の鈴木重嶺、教部省の許可を得て日野資朝を祀る。 | ||
*1874年(明治7年)3月:奉迎使以下随員として橋本実梁らを任命。 | *1874年(明治7年)3月:奉迎使以下随員として橋本実梁らを任命。 | ||
*1874年(明治7年)4月20日:橋本実梁ら東京を出発。 | *1874年(明治7年)4月20日:橋本実梁ら東京を出発。 | ||
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*1874年(明治7年)5月10日:橋本実梁、奉迎式を執行。明治天皇下賜の御剣を神殿を奉安し、神殿にあった木像を唐櫃に納めた。木像は上皇に供奉した池清範が刻したものという。 | *1874年(明治7年)5月10日:橋本実梁、奉迎式を執行。明治天皇下賜の御剣を神殿を奉安し、神殿にあった木像を唐櫃に納めた。木像は上皇に供奉した池清範が刻したものという。 | ||
*1874年(明治7年)6月12日:橋本実梁ら、水無瀬宮に到着。 | *1874年(明治7年)6月12日:橋本実梁ら、水無瀬宮に到着。 | ||
- | *1874年(明治7年) | + | *1874年(明治7年)8月2日:教部省の命で県社に列格し真野宮と称す。新宮を起工していた。(7月とも) |
- | *1876年(明治9年) | + | *1876年(明治9年)6月4日:社殿竣工。(5月とも) |
- | *1876年(明治9年) | + | *1876年(明治9年):菅原道真・日野資朝を合祀。(正式な合祀?菅原道真は真輪寺境内にあった威徳天神という) |
- | *1878年(明治11年) | + | *1878年(明治11年)9月:明治天皇北陸行幸。侍従富小路敬直が代拝。幣帛料下賜。 |
+ | *1889年(明治22年):順徳天皇陵が京都大原に治定され、佐渡の御陵は火葬塚となる。 | ||
*1894年(明治27年)7月:社殿改築のための「真野宮保存立誠会」設立。 | *1894年(明治27年)7月:社殿改築のための「真野宮保存立誠会」設立。 | ||
*1895年(明治28年)7月:洪水により社殿が西南に傾斜被害。 | *1895年(明治28年)7月:洪水により社殿が西南に傾斜被害。 | ||
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*1909年(明治42年)3月:「財団法人順徳天皇御遺跡保存会」設立。 | *1909年(明治42年)3月:「財団法人順徳天皇御遺跡保存会」設立。 | ||
*1913年(大正2年)8月:地鎮祭。 | *1913年(大正2年)8月:地鎮祭。 | ||
- | *1916年(大正5年) | + | *1916年(大正5年)7月7日:皇太子(昭和天皇)参拝。100円下賜。 |
+ | *1916年(大正5年)8月:大正天皇、造営費補助のため500円下賜。 | ||
*1918年(大正7年)11月:神殿・幣殿が竣工。 | *1918年(大正7年)11月:神殿・幣殿が竣工。 | ||
*1920年(大正9年)6月:拝殿が竣工。 | *1920年(大正9年)6月:拝殿が竣工。 | ||
- | *1920年(大正9年) | + | *1920年(大正9年)7月20日:遷座。(21日?) |
==資料== | ==資料== | ||
*『越後佐渡に於ける順徳天皇聖蹟誌』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1138769] | *『越後佐渡に於ける順徳天皇聖蹟誌』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1138769] | ||
+ | *『佐渡に於ける順徳天皇』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1104715/] | ||
*「近代佐渡における真野宮御造営と3代目間島杢太郎について」[https://doi.org/10.3130/aija.78.1161] | *「近代佐渡における真野宮御造営と3代目間島杢太郎について」[https://doi.org/10.3130/aija.78.1161] | ||
[[Category:新潟県]] | [[Category:新潟県]] |
2021年5月17日 (月) 時点における版
真野宮(まの・ぐう)は、新潟県佐渡市にある、順徳天皇を祀る霊社。県社。順徳天皇火葬塚に隣接する。火葬塚を管理してきた真輪寺跡にある。承久の乱で配流となった後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇の三帝を祀る神社としては、大阪の水無瀬神宮が総本社的地位にあり、その他、鎌倉の新宮神社(鶴岡八幡宮内)や配流先に祀られた後鳥羽帝の隠岐神社、順徳帝の真野宮、土御門帝の阿波神社がある。
歴史
- 1242年(仁治3年)10月14日:順徳天皇崩御。火葬。
- 1243年(寛元1年):随身の藤原康光が遺骨を奉じて京都に戻り、勝林院に納骨したという。
- 1679年(延宝7年):国分寺賢教、真輪寺賢照が佐渡奉行曽根吉正に陵墓の修復を請願。のち幕府の許可を得て現在の形に修復した。
- 1846年(弘化3年)4月21日:仁和寺宮が木造三重宝塔を寄進。
- 1868年(明治1年)11月:佐渡県判事奥平謙輔、真輪寺を廃絶。
- 1868年(明治1年)12月:旧本堂を清めて仮遷宮をして神像を奉安。
- 1869年(明治2年)5月:神祇官、以後神式での祭典を命じる。
- 1873年(明治6年):教部省の命で三重宝塔を国分寺に移す。
- 1873年(明治6年)2月:相川県、順徳天皇尊像について教部省に報告。
- 1873年(明治6年)8月15日:明治天皇、順徳天皇の神霊を佐渡から水無瀬宮に奉遷するように命じる。
- 1874年(明治7年)2月:相川県権令の鈴木重嶺、教部省の許可を得て日野資朝を祀る。
- 1874年(明治7年)3月:奉迎使以下随員として橋本実梁らを任命。
- 1874年(明治7年)4月20日:橋本実梁ら東京を出発。
- 1874年(明治7年)5月6日:橋本実梁ら佐渡に到着。
- 1874年(明治7年)5月10日:橋本実梁、奉迎式を執行。明治天皇下賜の御剣を神殿を奉安し、神殿にあった木像を唐櫃に納めた。木像は上皇に供奉した池清範が刻したものという。
- 1874年(明治7年)6月12日:橋本実梁ら、水無瀬宮に到着。
- 1874年(明治7年)8月2日:教部省の命で県社に列格し真野宮と称す。新宮を起工していた。(7月とも)
- 1876年(明治9年)6月4日:社殿竣工。(5月とも)
- 1876年(明治9年):菅原道真・日野資朝を合祀。(正式な合祀?菅原道真は真輪寺境内にあった威徳天神という)
- 1878年(明治11年)9月:明治天皇北陸行幸。侍従富小路敬直が代拝。幣帛料下賜。
- 1889年(明治22年):順徳天皇陵が京都大原に治定され、佐渡の御陵は火葬塚となる。
- 1894年(明治27年)7月:社殿改築のための「真野宮保存立誠会」設立。
- 1895年(明治28年)7月:洪水により社殿が西南に傾斜被害。
- 1896年(明治29年)12月:改築に着手するが鎮座地の移転を計画。
- 1899年(明治32年)3月:宮内省、200円下賜。
- 1900年(明治33年)1月:衆議院、「順徳天皇御遺跡保存に関する建議案」可決。政府は不同意。
- 1900年(明治33年)12月:御料林の払い下げを請願。
- 1905年(明治38年):御料林引き渡し。
- 1909年(明治42年)3月:「財団法人順徳天皇御遺跡保存会」設立。
- 1913年(大正2年)8月:地鎮祭。
- 1916年(大正5年)7月7日:皇太子(昭和天皇)参拝。100円下賜。
- 1916年(大正5年)8月:大正天皇、造営費補助のため500円下賜。
- 1918年(大正7年)11月:神殿・幣殿が竣工。
- 1920年(大正9年)6月:拝殿が竣工。
- 1920年(大正9年)7月20日:遷座。(21日?)