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「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

阿波神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2016年10月6日 (木)

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阿波神社(あわ・じんじゃ)は、徳島県鳴門市にある土御門天皇を祀る霊社土御門天皇火葬塚隣接地にある。承久の乱で配流となった後鳥羽天皇順徳天皇土御門天皇の三帝を祀る神社としては、大阪の水無瀬神宮が総本社的地位にあり、その他、鎌倉新宮神社鶴岡八幡宮内)や配流先に祀られた後鳥羽帝の隠岐神社、順徳帝の真野宮、土御門帝の阿波神社がある。県社

目次

歴史

土御門天皇略歴

土御門天皇は、承久の乱敗北により、土佐・阿波に配流された天皇。当時、土御門天皇は弟の順徳天皇に譲位して上皇となっていたが、実権は父の後鳥羽上皇が握っており、承久の乱の計画には関与していなかった。そのため、鎌倉幕府も土御門上皇を処罰の対象と考えていなかったが、父帝が配流となったのに自分のみ京に留まるのは偲びないとして、自ら配流となり、承久3年(1221)10月、土佐に流された。貞応2年(1223)5月27日、幕府の配慮により、京に近い阿波に移された。阿波には9年間滞在し、寛喜3年(1231)10月11日、当地で崩御し、火葬された(神社由緒)。遺骨は京へ奉遷され、西山金原法華堂に葬られた。嵯峨二尊院にも供養塔がある。

前史1・火葬塚の所在

阿波における天皇の在所や火葬塚の所在については諸説あり、江戸時代、火葬塚については、里浦の「尼塚」説、池谷の「丸山」説の2説があった。松下見林の『前王廟陵記』、蒲生君平の『山陵志』、細井知慎の『諸陵周垣記』では、里浦説を主張したが、阿波の学者の松浦長年は『土御門天皇御旧跡考証』で、沈没隠滅の可能性が強い海岸部は他例を見てもありえないとして、里浦説を否定し、池谷説を主張。文化12年(1815)、徳島藩は『阿波志』を編集し、池谷説を採用し、明治2年、藩は池谷「丸山」を火葬塚として修復した。宮内省も明治初年「丸山」を火葬塚と決定した(『徳島県新名勝案内』)が、徳島藩の見解を受け継いだものと見られる。

前史2・大阪府の水無瀬神宮の創建

土御門天皇の祭祀について画期となるのは、明治6年の水無瀬宮(現・水無瀬神宮)への承久の乱に関する三帝神霊の奉遷合祀である。 明治政府は、大阪府からの水無瀬神社の社格伺いや相川県(佐渡国を管轄)からの順徳天皇像(真輪寺旧蔵)の扱いについての伺いを契機に、水無瀬神社に三帝の神霊を合祀し、官幣社とすることを決定。5月には教部省から太政官に三帝神霊を水無瀬神社に合祀する伺いが出されているが、同じ上申書に火葬塚(当時は「御火葬所」)の修繕についても伺いがされており、神社への奉斎と、火葬塚の整備は一体のものとして検討されていたことが分かる。「国家神道」確立以降の、陵墓祭祀と神社祭祀が分離した体制とは異なる明治初年の特徴が現れている。 水無瀬宮は、後鳥羽天皇の離宮・水無瀬離宮を崩御後、同天皇の霊廟・御影堂としたものであった。別当寺はなかったようだが、近隣の真言天台臨済の社僧が奉仕していた。明治維新で「水無瀬神社」となった。 明治6年8月14日、政府は水無瀬神社の社格を「官幣中社」とし、社名を「水無瀬宮」とした。9月29日、政府は土御門天皇神霊を奉迎するための勅使として式部助・五辻安仲(いつつじ・やすなか)を任命し、在地や巡幸路となる府県に先導を命じた。10月7日、三帝神霊を配流地の山陵から水無瀬宮に合祀することを公表。天覧に供された神鏡が阿波国に護送され、火葬塚から神霊を奉遷(分霊?)した。天皇行幸の儀に準じ、陸軍部隊が供奉した。御霊代となった神鏡は、大阪まで海路で神幸。大阪からは御羽車に奉安され、12月21日に水無瀬宮に着御。翌日に合祀された。後鳥羽天皇、順徳天皇の神霊も前後して奉遷合祀された。

興味深いのは、明治政府は、神霊の分霊元を山城国の金原陵とせず、阿波国の火葬塚としたことである。江戸時代末期に幕府が行った「文久の修陵」では、金原寺跡を陵墓と決定していた。もちろん朝廷の同意を得た上での事業である。陵墓と火葬塚では、当然、陵墓の方が重要で、祭祀の中心となると考えるのが自然である。しかし、三天皇の神霊の分霊はいずれも火葬塚で執行された。そもそも後鳥羽天皇の神霊(御影)は江戸時代より水無瀬神宮に祀られていたのである。極論を言えば、神殿で神霊の降臨を願えば全ては済む話で、どの祭神であろうと遠隔地から奉遷などする必然性はなかった。それでも「天皇の行幸」になぞらえるという手間暇を掛けてまで、神霊の遷座を行ったのはなぜか。それは御霊怨霊の慰撫という目的があったからと思われる。 そもそも明治初年の配流地で崩御した天皇を奉斎する神社の創建は、日本史上最大の怨霊とも言われる崇徳天皇が、数百年にわたって祟りを起こして朝廷を悩ましてきたという認識から始まっている。明治元年に孝明天皇の遺志を引き継ぎ白峯宮(現・白峯神宮)が創建されたとき、崇徳天皇の霊が讃岐国の白峯陵から奉遷された。明治政府としては、あってはならなかった「天皇の配流」に対し、一区切りつける必要があった。一度、怨霊鎮撫のために配流地からの神霊奉遷と官社奉斎という方法が採用されると、前例として機能した。実際、土御門天皇においても崇徳天皇の場合を前例とするように指示されている。また日本の伝統的な宗教観を考慮すると、霊魂の所在は遺骨の所在に限定されず、むしろ地縛霊のように「因縁の地」に留まっていたと認識していたと考えるべきかもしれない。各地で火葬塚が山陵と呼ばれてきた経緯もあり、正式な陵墓とその他(火葬塚や分骨所など)の区分けの認識が現在ほど明確でなかった可能性もある。陵墓ではなく火葬塚から分霊された理由は以上のものと推定できる。

阿波神社の創建

土御門天皇を祀る神社については池谷には江戸時代より「土御門天皇廟」があったと記す。『阿波志』には大代と池谷の二箇所にその名称が見える。大代のものは消息は分からないが、池谷のものが明治に「丸山神社」と称し、村社となった。昭和2年には境内で発掘が行われている。しかし、丸山神社は地元の鎮守である小社で、郷土史にも取り上げられることの少ない規模の神社だったようである。

徳島県の皇紀2600年記念事業として県民の浄財と勤労奉仕により、大規模な改築を行い、昭和18年10月に竣工。阿波神社と改称し、県社となった。『土御門院奉祀地問題補遺』によると、阿波神社建設において、丸山神社の処遇を巡って議論があったらしい。

既に新潟県佐渡島では、順徳天皇火葬塚に隣接する真野宮が明治7年に県社となっていたが、寺院を神社化したものであった。同様に県社クラスの天皇奉斎神社がなかった島根県隠岐でも、徳島県に先立つ昭和14年、後鳥羽天皇火葬塚近くに隠岐神社が創建された。阿波神社の創建も火葬塚に隣接する形で行われ、他地に足並みを揃えたものであった。

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