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米沢城御堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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慶長14年6月、竣工。幕末の嘉永2年12月20日に火災で焼失するが、翌年8月に再建された。 | 慶長14年6月、竣工。幕末の嘉永2年12月20日に火災で焼失するが、翌年8月に再建された。 | ||
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2014年12月20日 (土) 時点における版
江戸時代、米沢城本丸の東南隅にあった上杉謙信を祀る霊廟。遺骸が奉安されていた。春日山城不識庵から会津を経て、米沢城に遷された。引続き米沢でも「不識庵」と呼ばれたこともあるようだ。脇侍として春日山城毘沙門堂から遷された謙信の守護神の泥足毘沙門天と、謙信が信濃善光寺から略奪した善光寺如来が祀られていた。 慶長14年6月、竣工。幕末の嘉永2年12月20日に火災で焼失するが、翌年8月に再建された。
御堂を管理していたのは城内にあった霊仙寺だったが、このほか能化衆の法音寺、大乗寺、蔵王堂、大聖院、安養院、教王院、長福寺、宝蔵寺、金剛院、延寿寺、妙観院、御堂衆の善性院、東光院、円明院、萬秀院、弥勒院、浄福院、連蔵院、正福院、法性院があり、その21寺の奉仕で祭祀が行われていた(寺院名は幕末の再建のときの棟札による[1])。能化衆は学僧、御堂衆は儀礼を司った僧侶と思われる。
明治維新で廃絶となり、祭祀は城跡の上杉神社に継承される一方、謙信の遺骸は上杉家墓地に埋葬された。泥足毘沙門天と善光寺如来は菩提寺の法音寺に遷された。
御堂だった建物は、明治9年ごろ、米沢・長命寺(真宗大谷派)本堂として移築されて現存している。
跡地には戊辰戦争などの戦死者を祀る大型の招魂碑が建てられている。山形県米沢市。善光寺遷座旧跡。