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紀伊・総持寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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本堂
総持寺(そうじじ)は、和歌山県和歌山市にある浄土宗檀林寺院。本尊は阿弥陀如来西山浄土宗檀林。知足院。通称は梶取総持寺梶取本山。山号は受陽山。(参考 同名寺院総持寺 (同名)

赤松則村の孫の明秀光雲が宝徳2年(1450)創建。天文10年(1541)、後奈良天皇から、永禄11年(1568)、正親町天皇から勅願寺とされた。 天正13年(1585)、豊臣秀吉の根来攻略で焼失。羽柴秀長が復興した。鎮守は住吉神社。(日本歴史地名大系)

目次

組織

住職

  • 1明秀光雲(1403-1488)<1450->:総持寺開山。吾妻善光寺2世円光に師事。総持寺の他に紀伊国内に18寺を開いたという。著書『愚要鈔』『無量寿経講録』。
  • 2永槃(生没年不詳)<不詳>:
  • 3自洹(生没年不詳)<不詳>:
  • 4自伝(生没年不詳)<不詳>:
  • 5空鎮(生没年不詳)<不詳>:
  • 6珍岸(生没年不詳)<不詳>:
  • 7暁空(生没年不詳)<不詳>:
  • 8月空(生没年不詳)<不詳>:日沢
  • 9桓空顕応()<不詳>:朝倉義景家臣の小林家の出身。顕貞に師事。1535年3月26日死去。
  • 10智玄(生没年不詳)<不詳>:禅林寺宏善に師事。
  • 11哲翁託賢()<>:尾張出身。海善寺を経て総持寺に晋山。和泉国谷川村と紀伊国木本村および西之庄村との紛争を仲介したことを受けて谷川村から招かれ常見寺開山となる。豊臣秀吉の根来攻めを避けて尾張に逃れ、1585年6月25日死去。
  • 12智空甫叔(?-1586)<>:禅林寺法主。総持寺から禅林寺に晋山したという禅林寺の記録は年代が合わないという。先代の死後に短期間のみ兼務と考えられるという。
  • 13果空俊式(?-1623)<>:淡路国出身。智空甫叔に師事。総持寺を経て天正14年7月、禅林寺法主。
  • 14空眼行清()<>:禅林寺法主。近江国出身。融隆に師事。吾妻善導寺19世、曼陀羅寺22世を経て総持寺に晋山。1594年12月28日死去(5月28日とも)。
  • 15沢良教雲()<>:正覚寺8世、祐福寺12世を経て総持寺に晋山。短期間の在職という。後に立政寺に住す。1612年8月15日死去。
  • 16空雄章温()<>:越前国一乗谷の出身。総持寺に晋山し、海善寺を兼務。1596年8月29日死去。71歳。章漫とも。
  • 17賢乗澄空()<>:智空甫叔に師事。総持寺を隠居して三光寺に住す。1613年4月9日死去。
  • 18道空純長( ?-1638)<>:京都出身。禅林寺で学び智空甫叔から法脈を継ぐ。京都十念寺、大津九品寺を経て総持寺住職となり光明寺法主となった。短期間の在職。
  • 19長感応沾(?-1624)<>:備後国出身。智空甫叔に師事。紀伊法蔵寺、護念寺に住し、空席だった総持寺に自ら晋山。元和7年6月、徳川家康に謁見。総持寺に戻らず尾道宝幢寺に隠居し、僧侶の指導に当たった。1624年9月13日死去。享年不詳。
  • 20真空久円(?-1645)<>:淡路国出身。堺十万寺を経て総持寺に入る。のち禅林寺法主となる。元和1年から寛永12年までのこととするが矛盾するという。
  • 21俊山沢道()<>:熱田正覚寺に住す。正覚寺時代、他の浄土宗学僧と共に江戸城で日蓮宗の日経と法論を交わす。元和4年、総持寺住職。1625年1月19日死去。著書『曼荼羅沢道抄』。
  • 22大江南楚(1592-1671)<1626->:紀伊国六十谷の出身。紀伊法然寺で得度し、長感応沾に師事。禅林寺で学んだ。比叡山で天海、知恩院で霊巌、南禅寺の裁長老、興聖寺の円耳に学んだ。法然寺を中興したという。寛永2年、総持寺が空座となったため、「私が住職となる」と自ら進んで晋山した。僧侶を指導し、学寮が発展した。伽藍を整備。著書多数。光明寺法主に2度請われたが固辞し、弟子の中から代わりに法蔵寺倍山を推薦した。禅林寺からも請われたが固辞して弟子の泰〓を推した。光明寺の本廟の改築を発願して尽力した。影臨寺に住す。寛文11年3月4日死去。80歳。
  • 23白峰俊良()<>:播磨国網干の出身。俗姓は葛西。大江南楚に師事して頭角を表した。正保1年、総持寺に晋山。承応3年8月、藩主の母の養珠院殿の弔いのために甲斐国に赴いた。9月に後光明上皇の崩御で読経。禅林寺と誓願寺から招かれたが固辞。晩年、和泉国畑の観音寺に隠居し寛文7年5月12日死去。78歳。
  • 24関空善廓()<>:尾張国熱田の出身。俗姓は岡崎。両親を失い、大徳寺で髪を剃り、長谷寺でどの宗派を学ぶべきかくじを引いたところ浄土宗となった。禅林寺で積峰に師事。寛文3年9月、招かれて総持寺に晋山。この時、白峰俊良から法を継いだ。引退して延宝2年6月14日死去。49歳(?)。
  • 25教道琢典()<>:京都出身。白峰俊良に師事。泉涌寺で大蔵経を閲覧。延宝2年6月16日に総持寺に晋山。50日あまりの在職で延宝2年8月7日、死去。著書に『阿弥陀経䟽鈔管解』。
  • 26快空太悦(?-1686)<>:播磨国出身。立政寺の快南に師事。越前安養寺に住し、延宝2年、総持寺に晋山。天和3年12月、光明寺法主。1686年11月21日死去。
  • 27咬翁古白()<>:和歌山出身。大田定秋の子。11歳で白峰俊良のもとで剃髪し、19歳で法脈を継いだ。光明寺で学び寛文4年2月、香衣を受け、学席第一座となり、禅林寺の第一座に転じた。貞享2年8月、請われて総持寺に晋山。招請にあたっては誰を招くかで総持寺内で対立が生じて幕府の寺社奉行の沙汰を仰ぐまでに至った(古白騒動)。12月、江戸に登り、寺社奉行から総持寺の定めの認可を得た。誓願寺の招請を固辞。僧侶の教育に注力した。宝永5年3月15日引退して利益寺に移った。正徳2年5月1日死去。
  • 28関笈禅良()<>:堺の出身。俗姓は大崎。護念寺で剃髪。関空善廓から法脈を受けた。元禄5年、護念寺住職。宝永5年8月、総持寺に晋山。享保2年12月引退。享保5年4月5日死去。
  • 29解空智了()<>:姫路出身。俗姓は寺井。播磨大覚寺の存空で剃髪し、禅林寺で学ぶ。50歳で大覚寺住職。享保3年8月、請われて総持寺に晋山。在職4年で病で隠居。享保12年1月8日死去。
  • 30広空本立()<>:紀伊国出身。深専寺で剃度。咬翁古白に法脈を受け、禅林寺で学んだ。宝永7年、播磨利生寺に住し、越前安養寺に転じる。享保6年5月、総持寺に晋山。享保19年3月、請われて誓願寺法主。宝暦6年7月19日死去。
  • 31泰空旭瑛(?-1748)<>:紀伊国出身。俗姓は池田。善徳寺で得度。総持寺に掛錫して咬翁古白に法脈を受けた。禅林寺に学び、享保19年7月、請われて総持寺に晋山。延享3年、61歳で光明寺法主。1748年2月20日死去。
  • 32高空万嶽()<>:豊後国臼杵の出身。俗姓は岡田。大橋寺で得度。禅林寺の三空に法脈を受けた。元文4年6月、高砂十輪寺に入る。延享4年3月、総持寺に晋山。1751年11月27日死去。
  • 33逸空瑞巌()<>:紀伊国出身。俗姓は土井。薬師寺で得度し、総持寺で学び、西山光明寺の沢了から法脈を受けた。寛延2年、十輪寺に住す。宝暦2年4月、総持寺に晋山。宝暦6年冬、誓願寺に晋山(誓願寺歴代では未確認)。安永10年3月21日死去。
  • 34龍峰義仙()<>:紀伊国出身。俗姓は会栖。常福寺で得度。禅林寺に掛錫し法脈を総持寺の解空智了に受けて総持寺に転錫。寛延4年6月、熊野如来寺。宝暦7年3月、総持寺に晋山。明和3年1月、隠居。1768年7月22日死去。
  • 35鴻道玄門()<>:紀伊国山口の出身。遍照寺で得度。総持寺に掛錫し、広空本立から法脈を受けた。光明寺に転錫して学席第一座となった。明和3年6月、総持寺に晋山。安永1年12月引退。安永10年5月28日死去。
  • 36了空恵光()<>:和歌山出身。俗姓は志賀。立政寺の看省に師事して法脈を受けた。師の晋山に従い、光明寺に移りさらに諸寺で学んだ。東寺の勧懲に密教を長時院の徳聞に法相宗を、光明寺の旭〓に当麻曼陀羅を学んだ。丸亀法音寺を経て安永2年9月19日、総持寺に晋山。1778年3月10日死去。61歳。
  • 37疾空仙霊()<>:近江国田上郡の出身。俗姓は溝上。京都善徳寺で得度。禅林寺で学び、徳亮から法脈を受けた。宝暦年間、徳聞につき、倶舎、唯識、天台、華厳を学んだ。嵯峨薬師寺に入り、大覚寺宮寛深法親王(のち輪王寺宮)に講じて信頼を得て付弟の教授となった。安永7年6月、総持寺に晋山。大覚寺宮から菊紋許可を得て、大覚寺宮の来訪もあった。天明8年10月(寛政3年とも)誓願寺法主。寛政9年2月4日死去。61歳。相如と号す。
  • 38蓮空象海()<>:豊後国臼杵の出身。俗姓は平川。8歳で大橋寺で得度。禅林寺で学び、法脈を徳亮に受けた。徳聞の講義に通った。明和1年、徳聞の増上寺での華厳の講義を聴くために江戸に下る。明和3年香衣。松室西光寺、堺正法寺を経て天明8年10月、総持寺に晋山。円満寺再建を支援。影臨寺に隠居。1814年1月22日死去。74歳。
  • 39〓空大臻(1740-1819)<>:播磨国龍野の出身。熊野如来寺の龍峰義仙に師事。光明寺に学び、河内想善寺、桑名浄土寺を経て享和3年10月、総持寺に晋山。藩主から葵紋付の金襴五条袈裟を贈られた。文化3年4月引退。文化12年4月、光明寺法主。1819年12月21日死去。80歳。
  • 40遠空源長()<>:紀伊国日高郡の出身。俗姓は森。有田浄教寺で得度。総持寺に掛錫し、了空恵光に法脈を受けた。安永9年、香衣。光明寺に転錫。常福寺、明吉寺、行願寺、西岸寺に住す。享和1年、誓願寺法主に請われるが固辞。文化3年9月、総持寺に晋山。文化4年10月10日死去。54歳。
  • 41暠空瑞〓()<>:福岡出身。俗姓は清水。浄念寺で得度。光明寺に掛錫し、律賢から法脈を受けた。28歳で香衣。享和3年山科に隠棲。文化4年末に総持寺に晋山。1688年6月13日死去。63歳。泊如と号す。
  • 42妙空弁才(1770-1834)<>:京都の高野香郷の猶子。日置法然寺で得度。立政寺の旭雄から法脈を受けた。光明寺で学び、西七条の真導寺に住す。文化9年、熊野如来寺に入る。文政1年11月、総持寺に晋山。懸案となっていた紫衣許可取得について学友の詮量院一如が青蓮院宮の師範だったためその伝手で、文政2年5月30日、青蓮院宮から永代常紫衣の令旨を得た。在任中、末寺檀家の神主が神葬祭許可を申請し抗議した。1834年1月18日死去。55歳。
  • 43百空千及()<>:紀伊国出身。報恩講寺の万及に師事。総持寺に掛錫し、疾空仙霊から法脈を受けた。光明寺に学ぶ。聖徳寺を経て文政1年11月、熊野如来寺に住す。妙空弁才の死去を受けて1834年、総持寺晋山が決まり、8月初旬に請待の式を実施。9月に入寺の予定だったがにわかに病み8月13日、如来寺で死去。総持寺から僧侶を派遣して葬儀を行なった。
  • 44知空善良()<>:紀伊国出身。千代原弥勒寺に住す。西山光明寺に学び学席第三座に進んだ。尾道光明寺に入る。妙空弁才の死後、総持寺の招請を受けて固辞したので百空千及に決まったが、百空千及は急死。再度請われて文政7年12月10日晋山。翌年の1825年11月22日死去。善長?
  • 45浄空恬澄(?-1827)<1826-1827>:山城国出身。中河原安楽寺で得度。禅林寺で学び、泰準から法脈を受けた。証空の典籍の校訂刊行するなど教学に大きな業績をあげた。文政9年3月、総持寺に晋山。1827年6月10日死去。享年不詳。著書『阿弥陀経聞書』。
  • 46穎空義隆()<>:尾張国出身。

文政11年10月20日、総持寺に晋山。1835年6月28日死去。玉華と号す。画を好んだ。

  • 47真空感瑞(1786-1848)<>:光明寺法主。桑名藩士の子。天保6年12月、総持寺に晋山。天保11年12月、光明寺に晋山。1848年10月26日死去。
  • 48真空湛霊()<>:紀伊国加茂下津浦の出身。天保12年2月、総持寺に晋山。安政3年5月病気で引退。1857年11月25日死去。
  • 49海空賢江()<>:和歌山藩士の子。安政3年9月、総持寺に晋山。1862年3月引退。1865年10月(6月とも)6日死去。
  • 50徹空俊玉()<>:東山天華。尾張国丹羽郡の出身。沢田良左衛門の子。1861年2月、総持寺に晋山。1863年2月、京都安養寺に隠居。慶応2年6月、禅林寺法主。2年で西福寺に隠居。1881年7月22日死去。74歳。
  • 51誡空是教()<1864-1873>:名古屋出身。上野内膳の子。嘉永4年、高砂十輪寺43世。元治1年、総持寺に晋山。1873年8月26日死去。道雄大和尚
  • 52然空冏学()<1873-1881>:佐藤冏学。和歌山出身。明治6年10月、総持寺に晋山。1881年10月29日死去。
  • 53輪空円瑞(1827-1893)<1881-1887>:紀伊国有田郡の出身。元治1年6月、熊野如来寺。明治14年12月、総持寺に晋山。明治16年、光明寺法主選挙に当選するが固辞。明治17年、宗制寺法の草案を作成。明治20年2月、光明寺法主。明治26年5月13日死去。67歳。
  • 54弘空信道()<1887-1893>:紀伊国加太の出身。利光平左衛門の子。明治20年、総持寺に晋山。1893年6月1日死去。71歳。淡水と号す。
  • 55伝空隆道()<1894-1897>:名古屋熱田の出身。明治27年10月、総持寺に晋山。明治30年春、病のため退任(しばらく無住)。のち回復。明治44年1月、円福寺法主68世。伝空隆道上人聞阿月海大和尚。
  • 56是空証全(1840-1916)<1901-1906>:柴田証全。尾張国半田の出身。天保11年生。明治34年2月、総持寺に晋山。明治39年、67歳で退任。大正2年5月、光明寺法主。1916年3月26日死去。77歳。[1]
  • 57訣空純正()<1907-1907>:紀伊国出身。明治26年6月から明治27年10月まで兼務住職。選挙に当選し、明治40年8月9日、総持寺住職に管長から任命されるが病のため辞任。
  • 58真空諦承(1860-1938)<1908-1918>:関本諦承。光明寺法主。佐藤冏学に師事。
  • 若宮秀諦(1858-1925)<1917?-1925>:紀伊国有田郡の出身。安政5年生[2]。大正6年、総持寺貫主。1925年1月14日死去[3]
  • 日下俊隆(1869-1944)<1925->:興空俊隆。福岡県京都郡出身。1869年生[4]。1888年、楊谷寺住職。1925年、総持寺貫主[5]。光明寺法主。1944年12月22日死去[6]。77歳。
  • 小早川随康(1874-1948)<1930-1936>:紀伊国日高郡出身。1936年、光明寺法主。
  • 寺坂義照(1908-)<1968-1982>:信空義照。1908年生。西山専門学校卒業。京都聖徳寺、田辺善徳寺を経て昭和43年、総持寺貫主。1982年、光明寺法主。[7]
  • 寺坂義継(1934-2018)<?-2011>:2011年、光明寺法主。
  • 畑崎龍定()<>:定福寺住職
  • 松尾孝龍()<>:法然寺住職。


画像

資料

  • 『総持寺伝』
  • 『明秀上人全集』[8]
  • 関本諦承1913『梶取総持寺沿革誌』[9]
  • 和歌山市立博物館編1989『梶取総持寺の寺宝』
  • 関山和夫2007「明秀光雲の唱導」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E3%83%BB%E7%B7%8F%E6%8C%81%E5%AF%BA」より作成

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