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興正寺大阪別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月29日 (木)

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'''興正寺大阪別院'''(こうしょうじ・おおさか・べついん)は、大阪府高槻市奈佐原にある[[浄土真宗]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[京都・興正寺|興正寺]]の[[真宗興正派の別院寺院|別院]]・[[御坊]]。元は大阪天満にあった。'''天満御坊'''。'''天満興正寺'''。通称は'''産寺'''(うぶでら)。[[真宗興正派]]
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'''興正寺大阪別院'''(こうしょうじ・おおさか・べついん)は、大阪府高槻市奈佐原にある[[浄土真宗]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[京都・興正寺|興正寺]]の[[真宗興正派の別院寺院|別院]]・[[御坊]]。元は大阪天満にあった。
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[[天満興正寺]]の寺地と伽藍を継承。'''天満御坊'''。'''天満興正寺'''。通称は'''産寺'''(うぶでら)。[[真宗興正派]]。(参考:同名寺院[[天満御坊]])
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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1532年(天文1年)興正寺は日蓮宗の山科本願寺焼き討ちで焼失すると、翌年、本寺の本願寺が大坂石山に移ると共に興正寺も大坂天満に移転。これ以前に掛所が既に設けられていたという見方もある。1546年(天文15年)、石山本願寺内に移転。1580年(天正8年)、石山本願寺が陥落すると、本願寺は各地を転々とするが、1585年(天正13年)に天満本願寺が成立すると、興正寺も天満の旧地に移転した。1591年(天正19年)、本願寺と共に興正寺は京都に戻ったが、旧地に御坊が残された。
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1532年(天文1年)、本願寺に所属する興正寺は[[日蓮宗]]の[[山科本願寺]]焼き討ちで焼失。翌年、本寺の本願寺が大坂石山に移ると共に興正寺も大坂天満に移転。これ以前に掛所が既に設けられていたという見方もある。1546年(天文15年)、[[石山本願寺]]内に移転。1580年(天正8年)、石山本願寺が陥落し、転々とする本願寺に随従するが本堂は建てられなかった。1585年(天正13年)に[[天満本願寺]]が成立すると、興正寺も天満の旧地に移転した。[[大阪天満宮]]の東南200mにあった。1591年(天正19年)、西本願寺と共に興正寺は京都に戻ったが、旧地に御坊が残された。西本願寺は天満から京都に本堂を移築したが、興正寺は京都では新たに造営し、天満には伽藍をそのまま残した。
1724年(享保9年)の大火(妙知焼)、1777年(安永6年)の大火、1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱で焼失。1855年(安政2年)再建。
1724年(享保9年)の大火(妙知焼)、1777年(安永6年)の大火、1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱で焼失。1855年(安政2年)再建。
天満郷の住民の宗旨人別帳を収める寺院であり、出産と共に参詣する必要があったから産寺とも呼ばれた。
天満郷の住民の宗旨人別帳を収める寺院であり、出産と共に参詣する必要があったから産寺とも呼ばれた。
真宗興正派の独立と共に興正寺の別院となる。1887年(明治20年)から1903年(明治36年)まで関西大学の前身である関西法律学校が学舎を置いていた。1945年(昭和20年)の空襲で焼失。1965年(昭和40年)旭区赤川に移転。さらに高槻市に移転した。旧地の北区天満・滝川公園には記念碑が建てられている。
真宗興正派の独立と共に興正寺の別院となる。1887年(明治20年)から1903年(明治36年)まで関西大学の前身である関西法律学校が学舎を置いていた。1945年(昭和20年)の空襲で焼失。1965年(昭和40年)旭区赤川に移転。さらに高槻市に移転した。旧地の北区天満・滝川公園には記念碑が建てられている。
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[[Category:大阪府]]
[[Category:大阪府]]

2023年6月29日 (木) 時点における最新版

興正寺大阪別院(こうしょうじ・おおさか・べついん)は、大阪府高槻市奈佐原にある浄土真宗寺院。本尊は阿弥陀如来興正寺別院御坊。元は大阪天満にあった。 天満興正寺の寺地と伽藍を継承。天満御坊天満興正寺。通称は産寺(うぶでら)。真宗興正派。(参考:同名寺院天満御坊

歴史

1532年(天文1年)、本願寺に所属する興正寺は日蓮宗山科本願寺焼き討ちで焼失。翌年、本寺の本願寺が大坂石山に移ると共に興正寺も大坂天満に移転。これ以前に掛所が既に設けられていたという見方もある。1546年(天文15年)、石山本願寺内に移転。1580年(天正8年)、石山本願寺が陥落し、転々とする本願寺に随従するが本堂は建てられなかった。1585年(天正13年)に天満本願寺が成立すると、興正寺も天満の旧地に移転した。大阪天満宮の東南200mにあった。1591年(天正19年)、西本願寺と共に興正寺は京都に戻ったが、旧地に御坊が残された。西本願寺は天満から京都に本堂を移築したが、興正寺は京都では新たに造営し、天満には伽藍をそのまま残した。

1724年(享保9年)の大火(妙知焼)、1777年(安永6年)の大火、1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱で焼失。1855年(安政2年)再建。 天満郷の住民の宗旨人別帳を収める寺院であり、出産と共に参詣する必要があったから産寺とも呼ばれた。 真宗興正派の独立と共に興正寺の別院となる。1887年(明治20年)から1903年(明治36年)まで関西大学の前身である関西法律学校が学舎を置いていた。1945年(昭和20年)の空襲で焼失。1965年(昭和40年)旭区赤川に移転。さらに高槻市に移転した。旧地の北区天満・滝川公園には記念碑が建てられている。 (日本歴史地名大系ほか)

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