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解脱寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年2月24日 (木)
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その後、早くに衰退したらしい。 | その後、早くに衰退したらしい。 | ||
閼伽井の跡の石碑(1867年(慶応3年)華王院暹煦が建立)が現存するが別地とする説もある。 | 閼伽井の跡の石碑(1867年(慶応3年)華王院暹煦が建立)が現存するが別地とする説もある。 | ||
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file:解脱寺跡2.jpg|解脱寺閼伽井跡碑 | file:解脱寺跡2.jpg|解脱寺閼伽井跡碑 |
2022年2月24日 (木) 時点における最新版
解脱寺(げだつじ)は、京都府京都市左京区岩倉長谷町にあった天台宗寺院。天台宗寺門派。
東三条院藤原詮子(藤原道長姉)が創建。年次不詳。
当初は阿弥陀・観音・勢至を祀る小堂だったが園城寺勧修が延暦寺からの難を避けて解脱寺に住す。
1002年(長保4年)7月17日、勧修を導師として常行堂を建立法要。
藤原公任(966-1041)が解脱寺で出家し念仏生活を送ったという。
その後、早くに衰退したらしい。
閼伽井の跡の石碑(1867年(慶応3年)華王院暹煦が建立)が現存するが別地とする説もある。
聖護院の長谷殿が近くにあったとも。