ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

豊前・護国寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月10日 (木)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(ページの作成:「'''護国寺'''(ごこくじ)は、福岡県豊前市の求菩提山にあった天台宗寺院。聖護院末となり、座主の格式を持ったが、...」)
(?座主)
 
(間の9版分が非表示)
1行: 1行:
-
'''護国寺'''(ごこくじ)は、福岡県豊前市の[[求菩提山]]にあった[[天台宗]]寺院。[[聖護院]]末となり、座主の格式を持ったが、明治維新で寺は廃絶。現在、[[国玉神社]]がある。(参考:同名寺院[[護国寺]])
+
'''護国寺'''(ごこくじ)は、福岡県豊前市の[[求菩提山]]にあった[[天台宗]]寺院。[[聖護院]]末となり、座主の格式を持ったが、明治維新で寺は廃絶。現在、[[豊前・国玉神社]]がある。(参考:同名寺院[[護国寺_(同名)]])
 +
 
 +
== 組織 ==
 +
===座主===
 +
座主坊として学王院があった。
 +
*宗心()<>:大聖院。応永頃の座主。
 +
*宗親()<>:天龍院。嘉吉文安頃の座主。
 +
*道閑()<>:東寺の僧。法菩提院。
 +
*貞清()<>:順長院。宇都宮氏の史料にはみえるが求菩提山の史料にはみえず。
 +
*1道達(-1702)<>:小笠原系初代。知徳院。小笠原忠真の弟、因幡貞政の子。元禄5年に入寺。1702年(元禄15年)死去。
 +
*2道海()<>:台教院。
 +
*3道応()<>:教王院。
 +
*4道祐()<>:清教院。
 +
*5長宥()<>:学王院。
 +
*6俊宥(-1863)<>:清浄光院。1863年死去。
 +
*7俊政(-1900)<>:延寿王院。立石木下家出身。俊正とも。慶応2年6月、継承。還俗して三好久弥麿と称する。明治33年死去。
[[category:福岡県]]
[[category:福岡県]]

2018年5月10日 (木) 時点における最新版

護国寺(ごこくじ)は、福岡県豊前市の求菩提山にあった天台宗寺院。聖護院末となり、座主の格式を持ったが、明治維新で寺は廃絶。現在、豊前・国玉神社がある。(参考:同名寺院護国寺_(同名)

組織

座主

座主坊として学王院があった。

  • 宗心()<>:大聖院。応永頃の座主。
  • 宗親()<>:天龍院。嘉吉文安頃の座主。
  • 道閑()<>:東寺の僧。法菩提院。
  • 貞清()<>:順長院。宇都宮氏の史料にはみえるが求菩提山の史料にはみえず。
  • 1道達(-1702)<>:小笠原系初代。知徳院。小笠原忠真の弟、因幡貞政の子。元禄5年に入寺。1702年(元禄15年)死去。
  • 2道海()<>:台教院。
  • 3道応()<>:教王院。
  • 4道祐()<>:清教院。
  • 5長宥()<>:学王院。
  • 6俊宥(-1863)<>:清浄光院。1863年死去。
  • 7俊政(-1900)<>:延寿王院。立石木下家出身。俊正とも。慶応2年6月、継承。還俗して三好久弥麿と称する。明治33年死去。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%B1%8A%E5%89%8D%E3%83%BB%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール