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近江・福田寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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福田寺(ふくでんじ)は滋賀県米原市長沢(近江国坂田郡)にある浄土真宗寺院。浄土真宗本願寺派。湖北十箇寺の一つ。近江国一向一揆の拠点。別格寺、別格別院だった。長沢御坊。山号は布施山。(参考:同名寺院福田寺)
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歴史
白鳳12年7月:伊吹山寺三修の高弟の名超が薬師如来を祀って創建。忍海部荘布施村(長浜市布施町)にあった。息長寺、成功徳院と称した。
- 息長氏布施王の所領だった。南都大安寺の末寺だったという。
- 1181年(養和1年)9月24日:大安寺三綱記によれば「近江国布施寺」が炎上とある。
- 正安年間、看坊の善順が覚如に帰依して覚乗と称し、改宗した。
- 1337年(延元2年):現在地に堂塔を移築。(旧地には吟松寺が残る)
- 延徳年間:蓮如が滞在。
- 不詳:長浜に通寺(出張所)を開設。
- 1571年(元亀2年):湖北十箇寺騒動(湖北一揆)が起きる。顕如の命令で浅井長政を支援して織田信長軍を攻める時、福田寺覚芸が先頭に立って門徒4000人を率いて進攻。堀氏の居城を攻撃するが横山城の豊臣秀吉の遊撃で成功せず。
- 1573年(天正1年)9月:浅井氏滅亡後も起請文を交わして織田軍に対抗した。
- 1648年(慶安1年):東本願寺末から西本願寺末に転じる[1]
- 1671年(寛文11年):御坊となる。
- 1761年(宝暦11年):院家となる。
- 宝暦年間:西本願寺法如の五男が入寺。連枝地となる。長沢御坊と称す。
- 某年:藩主井伊直幸の子が入寺。
- 1819年(文政2年):台所造営。井伊家の支援による。
- 慶応年間:下馬札許可。
- 明治初年:大津県より触頭に命じられる。
- 明治初年:滋賀県より寺院取締に命じられる。
- 1878年(明治11年):北陸巡幸を終え京都に向かう明治天皇が小休止
- 1878年(明治11年)11月:住職が京都御所で拝謁。
- 1879年(明治12年)4月:宮内省より真影拝戴。
- 1885年(明治18年):別格寺となる。
- 1887年(明治20年)尊牌安置許可。(どこから?)
- 不詳:別格別院となる。現在は一般寺院。
組織
歴代住職
- 5覚乗(1253-1320)<>:正安年間、覚如に帰依。1320年(元応2年)(1319年(元応1年)とも)11月15日死去。68歳。
- 6頓乗()<>:文安年間、蓮如(1415-1499)に帰依。
- 7宗俊()<>:蓮如に帰依。
- 8了芸()<>:蓮如に帰依。1489年(延徳1年)得度。
- 9
- 10
- 11覚芸()<>:1571年(元亀2年)湖北十カ寺騒動。
- 12正芸()<>:浅井長政の遺児の万菊丸だという。
- 19法覚()<>:西本願寺17世法如の五男。幼名は豊丸。連枝地となる。
- 20暉玄()<>:文観。井伊家の出身。井伊直幸の子。西本願寺18世文如の猶子。直心院と号す。
- 21摂有()<>:本成。井伊共雅。井伊家の出身。井伊直幸の子。暉玄の養子。西本願寺19世本如の猶子。善住院と号す。
- 22摂専()<>:本覚。摂有の子。井伊直弼のいとこにあたる。室は摂政関白左大臣二条斉敬の娘(明治天皇のいとこ?)。1820年(文政3年)生。1825年(文政8年)得度。1861年(文久1年)1月死去。三乗院と号す。和漢古今の典籍に通じる。
- 23沢祐()<>:広如の猶子。室は井伊直弼の娘。聞誓院と号す。
- 24
- 25
- 26大谷昭乗
- 27大谷照典(?-2015)<>:2015年(平成27年)死去[2]。