ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
近江国分寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
近江国分寺(おうみ・こくぶんじ)は、近江国にあった古代国分寺。移転により甲賀郡・栗太郡・滋賀郡の3カ所あったと考えられているが、いずれの跡地も推定段階で全貌は明らかになっていない。最澄の旧跡。
目次 |
歴史
第1次
当初、紫香楽宮近くに創建された甲賀寺が国分寺の役割を担ったと考えられている。紫香楽宮は国分寺創建の勅が発布された国分寺発祥地とも言える。正倉院文書に「甲賀国分寺」とあることから天平勝宝3年(751)には信楽の地に国分寺があったことは確実という。『日本後紀』によると延暦4年(785)に焼失したが第一次伽藍か第二次伽藍かは不明。従来、紫香楽宮跡とされてきた遺跡が、昭和5年の肥後和男の調査以降、塔跡などが確認され、甲賀寺跡と考えられるようになっている。東大寺式の伽藍跡や火災の痕跡を示す焼土が確認されている。
第2次
正中2年(1325)の文献『叡山末寺領注文』に「勢多国分寺敷地」とあるのが瀬田説の根拠。『日本後紀』によると延暦4年(785)に焼失したが第一次伽藍か第二次伽藍かは不明。国府に近い場所に建てられた国分寺が多いことから保良宮造営が一段落した天平宝字6年(762)頃に国分寺も移転したのではないかとも言われる。跡地は瀬田川東岸の滋賀県大津市野郷原にある瀬田廃寺(桑畑廃寺)が有力視されている。昭和34年(1959)、名神高速建設に伴う発掘調査で塔、金堂、西僧房、西回廊の遺構が出土し、平成12年・16年の調査で四天王寺式伽藍と判明した。
第3次
『日本紀略』によると弘仁11年(820)に国昌寺に移転した。国昌寺は瀬田川西岸の滋賀県大津市国分・光が丘の晴嵐小学校周辺にある石山国分遺跡(国昌寺遺跡)とされる。あまり調査が進んでおらず、全体像は明らかでない。