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鎌倉法華堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年2月19日 (金)
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- | '''法華堂''' | + | '''法華堂'''は神奈川県鎌倉市西御門あたりにあった寺院。[[源頼朝墓]]があり、その菩提寺。寺院の名称としての法華堂と、墓廟の建物として法華堂と、両方の意味があるようだ。'''右大将家法華堂'''、'''故将軍法華堂'''、'''大倉法華堂'''、'''大蔵法華堂'''、'''頼朝法華堂'''とも。(参考:同名寺院[[法華堂]]) |
==歴史== | ==歴史== | ||
- | 1189年(文治5年) | + | 1189年(文治5年)が良暹を招いて御所の後方の丘陵に持仏堂を創建。現在の源頼朝墓の場所のあたりと考えられている。当初は[[観音菩薩]]を祀ったという。 |
頼朝は1199年(正治1年)1月13日に死去。持仏堂に葬られた。 | 頼朝は1199年(正治1年)1月13日に死去。持仏堂に葬られた。 | ||
1200年(正治2年)1月13日の一周忌には「法華堂」で「仏事」が営まれ、北条時政らが参列した(『吾妻鏡』)。 | 1200年(正治2年)1月13日の一周忌には「法華堂」で「仏事」が営まれ、北条時政らが参列した(『吾妻鏡』)。 | ||
- | + | 2月2日には[[北条政子]]の発願で法華懺法を営んだ(『吾妻鏡』)。 | |
1203年(建仁3年)10月13日、将軍源実朝が参拝(『吾妻鏡』)。 | 1203年(建仁3年)10月13日、将軍源実朝が参拝(『吾妻鏡』)。 | ||
11月15日、右大将家法華堂奉行が設置され、安達景盛ら3人が任命された(『吾妻鏡』)。 | 11月15日、右大将家法華堂奉行が設置され、安達景盛ら3人が任命された(『吾妻鏡』)。 | ||
1211年(建暦1年)10月13日、鴨長明が参拝(『吾妻鏡』)。 | 1211年(建暦1年)10月13日、鴨長明が参拝(『吾妻鏡』)。 | ||
- | 1231年(寛喜3年) | + | 1231年(寛喜3年)10月25日、[[北条義時法華堂]]と共に焼失(鎌倉年代記)。 |
まもなく再建に着手され11月18日上棟式(吾妻鏡)。 | まもなく再建に着手され11月18日上棟式(吾妻鏡)。 | ||
1233年(天福1年)1月13日、北条泰時が参詣。この時別当は尊範。(吾妻鏡) | 1233年(天福1年)1月13日、北条泰時が参詣。この時別当は尊範。(吾妻鏡) | ||
1235年(嘉禎1年)9月1日、火災で周辺が焼けるが法華堂は無事(吾妻鏡) | 1235年(嘉禎1年)9月1日、火災で周辺が焼けるが法華堂は無事(吾妻鏡) | ||
- | 1240年(仁治1年) | + | 1240年(仁治1年)12月21日、北条泰時、評定衆を率いて法華堂に参詣し、[[行勇]]を導師に二階堂基行の初七日を営む。 |
1247年(宝治1年)6月5日には三浦泰村ら一族500人が法華堂に立て籠もり、源頼朝像の前で自刃して果てた(『吾妻鏡』)。 | 1247年(宝治1年)6月5日には三浦泰村ら一族500人が法華堂に立て籠もり、源頼朝像の前で自刃して果てた(『吾妻鏡』)。 | ||
同年9月13日、北条時頼参詣。恒例の仏事が「すこぶる結構」に行われたという。 | 同年9月13日、北条時頼参詣。恒例の仏事が「すこぶる結構」に行われたという。 | ||
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- | + | 室町時代中頃から[[鶴岡八幡宮相承院]]の管理となった。 | |
- | + | [[徳川家康]]が相承院に法華堂料・別当料を寄進したという。 | |
場所が移動した時期は分からないが江戸時代には丘陵の麓に堂宇があった。 | 場所が移動した時期は分からないが江戸時代には丘陵の麓に堂宇があった。 | ||
- | + | 「鶴岡一山拾四箇所由緒写書上」によると本尊は[[阿弥陀三尊]]だった。 | |
1779年(安永8年)、鹿児島藩主島津重豪が源頼朝の墓を現在の形に整備した。 | 1779年(安永8年)、鹿児島藩主島津重豪が源頼朝の墓を現在の形に整備した。 | ||
明治初年の廃仏毀釈で廃絶し、跡地には1872年(明治5年)に[[鎌倉・白旗神社]]が建てられた。 | 明治初年の廃仏毀釈で廃絶し、跡地には1872年(明治5年)に[[鎌倉・白旗神社]]が建てられた。 | ||
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==組織== | ==組織== | ||
===別当=== | ===別当=== | ||
- | * | + | *良暹()<1189->:[[伊豆山権現]]の僧侶。専光坊。 |
- | * | + | *行慈()<>:天台宗寺門派。菅原登宣の子。大学房。 |
- | * | + | *尊範()<>:源範頼(源頼朝の異母弟)の孫。 |
- | * | + | *房海(1245-1316)<>:天台宗寺門派。[[鶴岡八幡宮]]14世。 |
- | * | + | *顕弁(1269-1331)<1320->:天台宗寺門派。北条顕時の子。[[園城寺]]長吏。鶴岡八幡宮別当16世。 |
- | + | *房朝(生没年不詳)<>:天台宗寺門派。園城寺長吏。 | |
- | + | *覚雄(?-1369)<>:[[醍醐寺地蔵院]]。久我長通の子。[[東寺]]長者。[[醍醐寺]]座主。[[鎌倉・永福寺]]別当。1369年(正平24年/応安2年)死去。 | |
- | + | *聖快(?-1417)<>:醍醐寺地蔵院。久我通相の子。東寺長者。法務。1417年(応永24年)12月11日死去。道快、快賢とも。 | |
- | + | *持円(生没年不詳)<>:醍醐寺地蔵院。足利満詮の子。東寺長者。 | |
- | + | ==資料== | |
- | * | + | *法華堂文書:相州文書所収 |
- | * | + | *堀越敏夫1976「鎌倉法華堂に関する一考察」[https://doi.org/10.4259/ibk.24.652] |
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2021年2月19日 (金) 時点における最新版
法華堂は神奈川県鎌倉市西御門あたりにあった寺院。源頼朝墓があり、その菩提寺。寺院の名称としての法華堂と、墓廟の建物として法華堂と、両方の意味があるようだ。右大将家法華堂、故将軍法華堂、大倉法華堂、大蔵法華堂、頼朝法華堂とも。(参考:同名寺院法華堂)
目次 |
歴史
1189年(文治5年)が良暹を招いて御所の後方の丘陵に持仏堂を創建。現在の源頼朝墓の場所のあたりと考えられている。当初は観音菩薩を祀ったという。 頼朝は1199年(正治1年)1月13日に死去。持仏堂に葬られた。 1200年(正治2年)1月13日の一周忌には「法華堂」で「仏事」が営まれ、北条時政らが参列した(『吾妻鏡』)。 2月2日には北条政子の発願で法華懺法を営んだ(『吾妻鏡』)。 1203年(建仁3年)10月13日、将軍源実朝が参拝(『吾妻鏡』)。 11月15日、右大将家法華堂奉行が設置され、安達景盛ら3人が任命された(『吾妻鏡』)。 1211年(建暦1年)10月13日、鴨長明が参拝(『吾妻鏡』)。 1231年(寛喜3年)10月25日、北条義時法華堂と共に焼失(鎌倉年代記)。 まもなく再建に着手され11月18日上棟式(吾妻鏡)。 1233年(天福1年)1月13日、北条泰時が参詣。この時別当は尊範。(吾妻鏡) 1235年(嘉禎1年)9月1日、火災で周辺が焼けるが法華堂は無事(吾妻鏡) 1240年(仁治1年)12月21日、北条泰時、評定衆を率いて法華堂に参詣し、行勇を導師に二階堂基行の初七日を営む。 1247年(宝治1年)6月5日には三浦泰村ら一族500人が法華堂に立て籠もり、源頼朝像の前で自刃して果てた(『吾妻鏡』)。 同年9月13日、北条時頼参詣。恒例の仏事が「すこぶる結構」に行われたという。 1248年(宝治2年)12月13日、北条時頼・北条重時、頼朝法華堂と北条義時法華堂に参詣。 1250年(建長2年)3月13日、謀反の輩がいるという夢想を得た北条重時の格別の指示により、恒例の仏事が営まれた。
1284年(弘安7年)12月13日、鎌倉幕府は田畑4町などを法華堂に寄進。翌年にも追加で寄進している。 1286年(弘安9年)12月5日、幕府、頼朝の剣を法華堂に納めた(法華堂文書)。一説にはこれが源家重代の宝刀「髭切」とされる。 1363年(正平18年/貞治2年)5月16日、関東公方足利基氏が武蔵国榛沢郡や秩父郡の地を寄進。
室町時代中頃から鶴岡八幡宮相承院の管理となった。
徳川家康が相承院に法華堂料・別当料を寄進したという。
場所が移動した時期は分からないが江戸時代には丘陵の麓に堂宇があった。
「鶴岡一山拾四箇所由緒写書上」によると本尊は阿弥陀三尊だった。
1779年(安永8年)、鹿児島藩主島津重豪が源頼朝の墓を現在の形に整備した。
明治初年の廃仏毀釈で廃絶し、跡地には1872年(明治5年)に鎌倉・白旗神社が建てられた。
1969年(昭和44年)に丘陵下の発掘調査が行われている。
鎌倉・来迎寺にある如意輪観音坐像・地蔵菩薩坐像・跋陀婆羅尊者像は鎌倉法華堂から神仏分離の時に移されたものと伝わる。
組織
別当
- 良暹()<1189->:伊豆山権現の僧侶。専光坊。
- 行慈()<>:天台宗寺門派。菅原登宣の子。大学房。
- 尊範()<>:源範頼(源頼朝の異母弟)の孫。
- 房海(1245-1316)<>:天台宗寺門派。鶴岡八幡宮14世。
- 顕弁(1269-1331)<1320->:天台宗寺門派。北条顕時の子。園城寺長吏。鶴岡八幡宮別当16世。
- 房朝(生没年不詳)<>:天台宗寺門派。園城寺長吏。
- 覚雄(?-1369)<>:醍醐寺地蔵院。久我長通の子。東寺長者。醍醐寺座主。鎌倉・永福寺別当。1369年(正平24年/応安2年)死去。
- 聖快(?-1417)<>:醍醐寺地蔵院。久我通相の子。東寺長者。法務。1417年(応永24年)12月11日死去。道快、快賢とも。
- 持円(生没年不詳)<>:醍醐寺地蔵院。足利満詮の子。東寺長者。
資料
- 法華堂文書:相州文書所収
- 堀越敏夫1976「鎌倉法華堂に関する一考察」[1]