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願泉寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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1598年、本堂再建。1607年4月、東本願寺教如から聖徳太子絵像と七高僧絵像を、同年12月には西本願寺准如から親鸞絵像と「願泉寺」号を与えられた。 | 1598年、本堂再建。1607年4月、東本願寺教如から聖徳太子絵像と七高僧絵像を、同年12月には西本願寺准如から親鸞絵像と「願泉寺」号を与えられた。 | ||
+ | 1663年、本堂再建。 | ||
+ | 1678年、門を建立。 | ||
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+ | 1636年、4世了周は江戸寛永寺で剃髪得度。寛永寺から真教院の号を与えられた。1668年、さらに「金凉山」号も与えられた。 | ||
+ | 1709年、輪王寺宮の院室となった。 | ||
+ | 1793年、子院の真行寺・正福寺・要眼寺が願泉寺を飛び越して西本願寺直末になることを謀ったが失敗。翌年、3カ寺は「願泉寺家来」であることが確認された。 | ||
==子院== | ==子院== | ||
+ | 「寺僧」「五カ寺」と呼ばれた。 | ||
*泉光寺:真宗大谷派。 | *泉光寺:真宗大谷派。 | ||
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*満泉寺:真宗大谷派。 | *満泉寺:真宗大谷派。 | ||
+ | *正福寺:浄土真宗本願寺派。 | ||
*要眼寺:浄土真宗本願寺派。 | *要眼寺:浄土真宗本願寺派。 | ||
*真行寺:浄土真宗本願寺派。廃絶か。 | *真行寺:浄土真宗本願寺派。廃絶か。 |
2018年9月28日 (金) 時点における版
願泉寺(がんせんじ)は大阪府貝塚市にある浄土真宗寺院。貝塚御坊。現在は浄土真宗本願寺派だが、江戸時代まで東西本願寺に両属だった。貝塚寺内町の中心寺院。本願寺遷座旧跡。輪王寺宮の院室「真教院」でもあった。山号は金凉山。
目次 |
歴史
『貝塚寺内基立書』によると行基が建てた草庵が起源。 応仁年間には蓮如が滞在したという。
1545年、長年、無住だった草庵に根来寺の右京坊という僧を迎えた。この僧が卜半斎了珍である。 この地域は浄土真宗の信仰の強い地域であると同時に、政治的には根来寺の影響下にあった。そのような背景から根来寺の僧が招かれたと思われる。 1550年に堂宇を再建し、本願寺証如から阿弥陀如来絵像を下付された。 僧侶と門徒の信仰集団は自治的組織と町を形成し、寺内町となった。 1555年には石山本願寺配下の寺内町として認められた。 1577年、本願寺を攻める織田信長軍に焼き討ちされ寺内町もろとも焼失。1580年、石山合戦が集結すると離散した住民が戻り、本堂を復興。これを板屋道場と呼んだ。 1582年、豊臣秀吉から寺内町としての自治権を認められた。 1583年7月4日、本願寺顕如は鷺森御坊から親鸞御影を貝塚に奉遷(『宇野主水日記』)。 以後2年余りにわたり、本願寺として機能し、諸国から門徒らが集まり、寺内町は大きく発展した。 1585年8月30日、親鸞御影は天満に移転した。この時、顕如は貝塚御坊に親鸞絵像を下付し、一家に准じる格式を与えた。 同年11月、水間寺の梵鐘を購入。
1598年、本堂再建。1607年4月、東本願寺教如から聖徳太子絵像と七高僧絵像を、同年12月には西本願寺准如から親鸞絵像と「願泉寺」号を与えられた。 1663年、本堂再建。 1678年、門を建立。
1636年、4世了周は江戸寛永寺で剃髪得度。寛永寺から真教院の号を与えられた。1668年、さらに「金凉山」号も与えられた。 1709年、輪王寺宮の院室となった。 1793年、子院の真行寺・正福寺・要眼寺が願泉寺を飛び越して西本願寺直末になることを謀ったが失敗。翌年、3カ寺は「願泉寺家来」であることが確認された。
子院
「寺僧」「五カ寺」と呼ばれた。
- 泉光寺:真宗大谷派。
- 満泉寺:真宗大谷派。
- 正福寺:浄土真宗本願寺派。
- 要眼寺:浄土真宗本願寺派。
- 真行寺:浄土真宗本願寺派。廃絶か。
寺内町
- 尊光寺:京都・興正寺末だった。現在は浄土真宗本願寺派。
- 上善寺:浄土宗。橋本正高の墓がある。
- 妙泉寺:日蓮宗。
- 宗福寺:天台宗。感田神社別当。廃絶。
- 感田神社:寺内町の鎮守。
関連旧跡
- 和歌山屋敷:和歌山県和歌山市卜半町。鷺森御坊参拝の時に滞在した屋敷。
組織
歴代住職
中興以来、卜半斎家(卜半家)が世襲。幕末まで自治権を認められた貝塚寺内町の地頭(領主)を務めた。
- 1了珍():京都出身。元は根来寺の僧侶。
- 2了閑
- 3
- 4了周
- 5
- 6了友