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飽波葦垣宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年5月6日 (木)
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- | '''飽波葦垣宮'''(あくなみのあしがきのみや)は、大和国平群郡にあった[[称徳天皇]]の[[離宮]]。[[聖徳太子]]の没地という記録もある。'''飽波葦墻宮'''(『大安寺資財帳』)。'''飽波宮'''(あくなみのみや。『続日本紀』)、'''葦垣宮'''(あしがきのみや。『太子伝私記』)、'''葺垣宮''' | + | '''飽波葦垣宮'''(あくなみのあしがきのみや)は、大和国平群郡にあった[[称徳天皇]]の[[離宮]]。[[聖徳太子]]の没地という記録もある。'''飽波葦墻宮'''(『大安寺資財帳』)。'''飽波宮'''(あくなみのみや。『続日本紀』)、'''飽浪宮'''(あくなみのみや)、'''葦垣宮'''(あしがきのみや。『太子伝私記』)、'''葺垣宮'''(読み方不詳。ふきがきのみや?『太子伝私記』)、'''芦墉宮'''(あしがきのみや。『斑鳩古事便覧』)も同一の宮と考えられている。[[法隆寺関連旧跡]]。奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺南の上宮(かみや)にある'''上宮遺跡'''(かみやいせき)に比定されている。 |
== 歴史== | == 歴史== | ||
- | 『太子伝私記』によると聖徳太子の「葺垣宮」があったというが傍証は見つかっていない。太子の没地は一般的に[[斑鳩宮]](のちの[[上宮王院]]。現在の[[法隆寺]] | + | 『太子伝私記』によると聖徳太子の「葺垣宮」があったというが傍証は見つかっていない。太子の没地は一般的に[[斑鳩宮]](のちの[[上宮王院]]。現在の[[法隆寺]]東院伽藍)とされるが(『日本書紀』)、『大安寺資財帳』『太子伝私記』『聖徳太子伝略』では「飽波葦墻宮」で死去したと伝える(斑鳩宮と同一視されたためとも言われる)。『斑鳩古事便覧』によると、[[大和・成福寺|成福寺]]という寺院になったとされる。 |
- | また[[推古天皇]]が田村皇子([[舒明天皇]] | + | また[[推古天皇]]が田村皇子([[舒明天皇]])を見舞いに訪れたという記録もある(『大安寺資財帳』)。学術的には聖徳太子王子の泊瀬王の宮として建てられたと考えられている。奈良時代にも存続し、称徳天皇が767年(神護景雲1年)4月26日に「飽波宮」に行幸(続日本紀)。769年(神護景雲3年)10月にも[[由義宮]]行幸の途中に2日間滞在している(続日本紀)。 |
上宮遺跡は法隆寺の南に位置する。その西南150mのところに成福寺があり、別名の神屋寺(かみやでら)は地名の上宮(かみや)に通じる。 | 上宮遺跡は法隆寺の南に位置する。その西南150mのところに成福寺があり、別名の神屋寺(かみやでら)は地名の上宮(かみや)に通じる。 | ||
上宮遺跡の戦後の発掘調査では8世紀造営の掘立柱建物群が発見されると共に、7世紀に遡る出土遺物も見つかった。掘立柱建物跡は全部で7棟見つかり、規格性を持った建物群が整然と配置されているから、単なる一般の住居ではなく、宮殿や官衙の遺跡と考えられている。 | 上宮遺跡の戦後の発掘調査では8世紀造営の掘立柱建物群が発見されると共に、7世紀に遡る出土遺物も見つかった。掘立柱建物跡は全部で7棟見つかり、規格性を持った建物群が整然と配置されているから、単なる一般の住居ではなく、宮殿や官衙の遺跡と考えられている。 | ||
- | ただ跡地を上宮遺跡や成福寺ではなく、安堵町の[[飽波神社]]とする伝承もある。聖徳太子が斑鳩と[[飛鳥]]を往復する時に使ったという太子道の道中に当たる。現在も安堵町に「飽波」が地名としてあることから少なくとも後世の「飽波郷」は、現在の安堵町にあったとみられている。 | + | ただ跡地を上宮遺跡や成福寺ではなく、安堵町の[[飽波神社]]とする伝承もある。聖徳太子が斑鳩と[[飛鳥]]の[[小墾田宮]]を往復する時に使ったという太子道の道中に当たる。現在も安堵町に「飽波」が地名としてあることから少なくとも後世の「飽波郷」は、現在の安堵町にあったとみられている。 |
(『法隆寺史 上』) | (『法隆寺史 上』) | ||
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2021年5月6日 (木) 時点における最新版
飽波葦垣宮(あくなみのあしがきのみや)は、大和国平群郡にあった称徳天皇の離宮。聖徳太子の没地という記録もある。飽波葦墻宮(『大安寺資財帳』)。飽波宮(あくなみのみや。『続日本紀』)、飽浪宮(あくなみのみや)、葦垣宮(あしがきのみや。『太子伝私記』)、葺垣宮(読み方不詳。ふきがきのみや?『太子伝私記』)、芦墉宮(あしがきのみや。『斑鳩古事便覧』)も同一の宮と考えられている。法隆寺関連旧跡。奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺南の上宮(かみや)にある上宮遺跡(かみやいせき)に比定されている。
歴史
『太子伝私記』によると聖徳太子の「葺垣宮」があったというが傍証は見つかっていない。太子の没地は一般的に斑鳩宮(のちの上宮王院。現在の法隆寺東院伽藍)とされるが(『日本書紀』)、『大安寺資財帳』『太子伝私記』『聖徳太子伝略』では「飽波葦墻宮」で死去したと伝える(斑鳩宮と同一視されたためとも言われる)。『斑鳩古事便覧』によると、成福寺という寺院になったとされる。
また推古天皇が田村皇子(舒明天皇)を見舞いに訪れたという記録もある(『大安寺資財帳』)。学術的には聖徳太子王子の泊瀬王の宮として建てられたと考えられている。奈良時代にも存続し、称徳天皇が767年(神護景雲1年)4月26日に「飽波宮」に行幸(続日本紀)。769年(神護景雲3年)10月にも由義宮行幸の途中に2日間滞在している(続日本紀)。
上宮遺跡は法隆寺の南に位置する。その西南150mのところに成福寺があり、別名の神屋寺(かみやでら)は地名の上宮(かみや)に通じる。 上宮遺跡の戦後の発掘調査では8世紀造営の掘立柱建物群が発見されると共に、7世紀に遡る出土遺物も見つかった。掘立柱建物跡は全部で7棟見つかり、規格性を持った建物群が整然と配置されているから、単なる一般の住居ではなく、宮殿や官衙の遺跡と考えられている。
ただ跡地を上宮遺跡や成福寺ではなく、安堵町の飽波神社とする伝承もある。聖徳太子が斑鳩と飛鳥の小墾田宮を往復する時に使ったという太子道の道中に当たる。現在も安堵町に「飽波」が地名としてあることから少なくとも後世の「飽波郷」は、現在の安堵町にあったとみられている。
(『法隆寺史 上』)