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百済寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2026年2月28日 (土)

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'''百済寺'''(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市にある[[天台宗]]寺院。本尊は十一面観音。古代の[[天台別院]]。[[金剛輪寺]]・[[犬上・西明寺|西明寺]]と共に'''湖東三山'''と呼ばれる。山号は釈迦山。(参考:同名寺院[[百済寺_(同名)]])
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[[ファイル:百済寺・3本堂-16.jpg|thumb|500px| ]]
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'''百済寺'''(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市百済寺町(近江国愛知郡)にある[[聖徳太子]]ゆかりの[[天台宗]]寺院。本尊は[[十一面観音]]。古代の[[天台別院]]。[[金剛輪寺]]・[[犬上・西明寺|西明寺]]と共に'''湖東三山'''と呼ばれる。山号は釈迦山。(参考:同名寺院[[百済寺_(同名)]])
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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推古14年、[[聖徳太子]]が百済国龍雲寺を模して創建したと伝える。
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[[ファイル:百済寺・2喜見院-14.jpg|thumb|500px| ]]
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平安時代、[[延暦寺]]の末寺となり、後には延暦寺内の[[無動寺]]の末寺となっていた。
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天福元年(1233)、[[法性寺]]座主慈賢が百済寺に隠棲。
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足利義尚は長享元年(1487)の第一次六角征伐で陣を置いた。
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*592年(推古14年):[[聖徳太子]]が百済国龍雲寺を模して創建したと伝える。高麗の[[恵慈]]が呪願師を務め、百済の道欣が導師として落慶供養。
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明応元年(1492)の第二次六角征伐では足利義材が伽藍を焼き払った。さらに6年後にも失火炎上している。
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*665年(天智4年):百済国の王子が来日して滞在・居住。そのため百済寺と称する(『淡海温故録』)。
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文亀3年(1503)、兵火で焼失。
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*1144年(天養元年):近江国愛知郡百済寺、[[天台別院]]となる(『東寺観智院文書年代記』『近江愛智郡志』)。
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*1183年(寿永2年):上洛する[[木曽義仲]]に兵糧米500石を供出し、押立5郷を寄進されたという(『源平盛衰記』)。
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*1192年(建久3年):「百済寺東谷住僧珎栄」が大般若経(滋賀県高島市安曇川町北船木の若宮神社所蔵『無量寿院大般若経』。1089年頃書写)を修復(巻第330奥書)。百済寺を記録する現存最古の史料。
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*1213年(建暦3年)2月:この時には[[延暦寺]][[無動寺]]の末寺となっていた。「慈鎮所領譲状案」(『華頂要略』)で慈鎮から[[青蓮院]]朝仁親王に譲った末寺の中に記される。
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*1233年(天福元年):[[法性寺]]座主慈賢が逐電して百済寺に滞在(『明月記』)。
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*1234年(文暦元年):前天台座主良快、慈源に百済寺を譲る(「慈源所領注文」『華頂要略』)。
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*1274年(文永11年):火災。
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*延文年間(1356〜1361):源重のもとに犬上郡小野の「一万大菩薩」([[近江・小野神社]]の関係か)が来現して[[三十番神]]の中に加えよと告げて奇瑞を示した。よって百済寺では三十番神に加えるという(『淡海温故録』)。
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*1395年(応永2年)9月22日:近江[[百済寺]]の僧侶の発願により京都の北野南馬場に仮屋2棟を建て10日間にわたり1100人の僧侶により一万部法華経の読誦会を厳修。[[北野経王堂]]の起源となる。[https://dl.ndl.go.jp/pid/4414863/1/38][http://hdl.handle.net/11266/5667]
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*1397年(応永4年)7月28日:救誉、重代相伝の「はくさい寺」(百済寺)先達直法房・辻房門弟引旦那職などを娘の楠御前に譲る(「旦那処分状」熊野那智大社文書)。
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*1479年(文明11年):上洛する者に「百済寺樽」を託す(『言国卿記』)。百済寺またはその周辺で醸造が行われていた。
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*1487年(長享元年)10月7日:第一次六角征伐で足利義尚が陣を置く(『後法興院記』)。
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*1492年(明応元年):第二次六角征伐で足利義材が伽藍を焼き払う(『大乗院寺社雑事記』)。
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*1498年(明応7年)8月6日:失火炎上。本堂・常行三昧堂・阿弥陀堂・太子殿・五重塔・一切経輪蔵などを失うが、本尊や坊舎は無事(「百済寺衆徒等申状」)。
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*1498年(明応7年)8月16日:本尊修復。
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*1503年(文亀3年)4月:伊庭貞隆の乱の兵火で焼失。本堂・五重塔・太子殿・常行堂・三所神殿・二階楼門・十禅師宝宮や坊舎、門前町、そして古記録も焼失(「百済寺文書」)。相次ぐ兵火でこの頃から、百済寺全体が城砦化していったと推定される。
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*1504年(永正元年)閏3月27日:伊庭貞隆、百済寺の寺領寺域を安堵(「伊庭貞隆安堵状」)。
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*1506年(永正3年):再興のための勧進が始まる。
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*1523年(大永3年):この年の記録によれば、住僧は東谷6坊に48人、南谷19坊に152人、西谷14坊に112人、北谷8坊に64人がいた。その他に衆徒が西谷に57人、東谷に55人、南谷に93人、北谷に56人いた。住僧が376人、衆徒が421人いた。
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*1536年(天文5年)7月23日:天文法華の乱に百済寺衆徒も参加し戦死者6人を出す[https://dl.ndl.go.jp/pid/13133280/1/14]。供養塔建立。
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*1542年(天文11年)11月18日:火災。7日前から毎夜、本尊の観音が夢に現れて外に移せと告げ、自然木の観音像を切り離して移し難を逃れたという(『淡海温故録』)。
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*1549年(天文18年):[[後奈良天皇]]綸旨。座主尊鎮が勧進帳を作成。
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*1568年(永禄11年)9月12日:[[足利義昭]]を擁して上洛する[[織田信長]]、百済寺の諸権利を安堵(「織田信長朱印状」)。
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*1573年(天正1年)4月15日:織田信長が焼き払う。六角義治の鯰江城籠城を支援していたため。本尊などは奥之院と言われた大萩村の西ケ峰不動堂に避難。この焼き討ちの様子をルイスフロイスが書簡に記録。
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*1575年(天正3年)1月10日:千手坊、岩本坊、実相坊、光浄院の僧4人が百済寺に戻り、仮堂を建立。28日、西ケ峰不動堂から本尊を還座。
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*1575年(天正3年)2月21日:山王十禅師社を再建遷座。
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*1584年(天正12年)10月7日:近江佐和山の土屋秀政、百済寺本堂を再建。
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*1585年(天正13年)11月:[[豊臣秀吉]]家臣の田中吉政が百済寺に仏供灯明料として13石余を寄進。
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*1612年(慶長17年)5月3日:[[徳川家康]]、朱印地100石を安堵。
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*1617年(元和3年):[[井伊家]]が幕府から5万石の加増を受け、百済寺は彦根藩領となる。
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*1634年(寛永11年)8月17日:「山門三院執行探題」の[[天海]]、百済寺に法度を定める[https://dl.ndl.go.jp/pid/1240338/1/146]。
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*1634年(寛永11年):領地の配分を巡り対立が起こり、千手坊仙重(仙住)が百済寺を去る。その後任に天海の弟子の亮算が送り込まれる。千手坊を喜見院と改称した。
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*1637年(寛永14年)5月26日:千手坊(喜見院)亮算・南院坊亮応・岩本坊円海が朝廷に言上し、[[明正天皇]]から再興の勅許を得る。
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*1648年(慶安元年)1月:南院坊亮応の死去により千手坊亮算が百済寺再建を継ぐ。
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*1650年(慶安3年)8月18日:現在の本堂落慶。[[園城寺勧学院]]の章海が導師を務めた。9月18日まで開帳(棟札[https://dl.ndl.go.jp/pid/1240338/1/148])。
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*1650年(慶安3年)9月21日:亮算、14箇条の「定法度」を定める[https://dl.ndl.go.jp/pid/1240338/1/149]。朱印地100石から千手坊、岩本坊、南院坊に20石ずつ配分する。
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*1659年(万治2年):井伊直滋が夷母谷に隠棲。
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*1661年(寛文元年)6月9日:井伊直滋、百済寺で死去。墓所が設けられる。
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*1662年(寛文2年)11月1日:亮算、年中行事を定める[https://dl.ndl.go.jp/pid/1240338/1/150]。元三会、慈覚講、太子講、涅槃講、山王講、仏生会、伝教講、大師講。
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*1721年(享保6年)3月:この年の書上によれば東谷に6坊、僧13人。南谷に11坊、僧17人。西谷に8坊、僧12人。北谷に12坊、僧21人。合計は37宇、僧63人。(再興以前四谷衆徒并末寺庵書上)
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*1733年(享保18年)6月8日:井伊直滋廟、落慶法要。
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*1736年(元文元年)11月30日:喜見院焼失。翌年再建。
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*1865年(慶応元年):記録には本坊喜見院、龍華院、西谷に寛妙坊、北谷に源妙坊、赤門上に妙仙坊、その南に古条坊などがあった。
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*1940年(昭和15年):本坊喜見院を仁王門南側から移築。西ケ峰不動堂も新しい喜見院に移築。
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*1968年(昭和43年):本坊庭園を整備。
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*1986年(昭和61年):坊舎跡を調査。城砦もみつかる。275カ所の遺跡を発見[https://dl.ndl.go.jp/pid/13133280/1/11]。
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*2000年(平成12年):弥勒菩薩半跏思惟像の石像を造立。
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*2013年(平成25年):弁天堂再建。
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元亀4年(1573)、[[織田信長]]が焼き払った。
 
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天正12年(1584)再建。[[徳川家康]]が寺領100石を寄進。
 
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慶安5年(1652)、現在の本堂が建てられた。
 
(日本歴史地名大系)
(日本歴史地名大系)
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*旧本堂跡
*旧本堂跡
*五重塔跡
*五重塔跡
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*奥の院:不動堂があった(喜見院に移築)。
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*常行三昧堂:廃絶
*常行三昧堂:廃絶
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*経蔵: 廃絶
*経蔵: 廃絶
*十禅師社: 廃絶
*十禅師社: 廃絶
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 +
*岩上神社:百済寺鎮守社。
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*日吉神社:百済寺鎮守社。総門前が御旅所となっている。
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*坂本神社:百済寺鎮守社。
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*大日堂
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*西ケ峰不動堂:奥之院
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*歴代住職墓地:共同墓地内
==子院==
==子院==
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*喜見院:本尊は阿弥陀如来。本坊。旧千手坊。書院、不動堂などがある。昭和15年、仁王門下から移築。
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[[ファイル:百済寺・3本堂-06.jpg|thumb|500px|喜見院跡 ]]
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[[ファイル:百済寺・2喜見院-11.jpg|thumb|500px|現在の喜見院 ]]
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*喜見院:本尊は[[阿弥陀如来]]。本坊。旧千手坊。書院、不動堂などがある。昭和15年、仁王門下から移築。[[湯島天満宮]]別当の[[喜見院]]も参照。
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*龍華院:学頭。龍花院。
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*岩本坊:比叡山横川地蔵院を兼務していたという。尊海が中興
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*南院坊:
*「百坊跡」:南側
*「百坊跡」:南側
*「二百坊跡」:北側
*「二百坊跡」:北側
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*引接寺:麓
*引接寺:麓
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===東谷===
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かつての坊舎の一覧[https://dl.ndl.go.jp/pid/1240338/1/175][https://dl.ndl.go.jp/pid/13133280/1/14]
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*南中坊
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*西光院
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*仏乗坊
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*慶蔵坊
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*浄光院
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*妙住坊
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===南谷===
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*高山院
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*実和坊
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*乗蔵坊
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*大定坊
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*南院坊
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*増花坊
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*地蔵坊
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*杉本坊
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*円満院
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*花蔵院
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*大坊
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*千手坊
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*定蔵坊
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*千教坊
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*吉祥院
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*岩本坊
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*定住坊
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*南蔵坊
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*勝林坊
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===西谷===
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*井上坊
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*橋本坊
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*明光坊
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*実勝坊
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*勝泉坊
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*是明坊
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*妙音坊
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*不動坊
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*新坊
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*一乗坊
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*法光坊
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*増光坊
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*桂本坊
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*光明院
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===北谷===
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*西明寺
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*満蔵坊
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*城泉坊
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*正覚院
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*新蔵坊
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*蓮城坊
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*衆宝坊
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*場養坊
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==資料==
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*院坊跡図:[https://dl.ndl.go.jp/pid/13202169/1/6]
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*百済寺一切経輪蔵建立勧進願文
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*1692「寺改帳」:由緒
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*1732「百済寺来由并古記目録」
 +
 +
*『古事類苑』「百済寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/897774/1/61]
 +
*『本朝高僧伝』「江州百済寺沙門源重伝」[https://dl.ndl.go.jp/pid/1089700/1/44]
 +
*寒川辰清編『近江国輿地志略』「百済寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/952767/1/91]
 +
*1929『近江愛智郡志』巻二[https://dl.ndl.go.jp/pid/3440143/1/188]
 +
*1929『近江愛智郡志』巻三[https://dl.ndl.go.jp/pid/3440145/1/269]
 +
*1929『近江愛智郡志』巻五「百済寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/1240338/1/125]
 +
*川勝政太郎1950「近江百済寺の遺宝」『史迹と美術206』[https://dl.ndl.go.jp/pid/6067089/1/15]
 +
*近江古美術大観刊行会編1956『近江古美術大観』第2集「唐草文磬(銅造)百済寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2491394/1/5]
 +
*近江古美術大観刊行会編1959『近江古美術大観』第8集「日吉山王曼荼羅(絹本著色)百済寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2491400/1/37]
 +
*宇野茂樹編1958『近江造像銘』第1「聖観音像明応七年・如意輪観音像明応八年」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2487626/1/78]
 +
*彦根市1960『彦根市史ー上』「彦根寺と百済寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/3014135/1/118]
 +
*景山春樹1967『近江路ー史跡と古美術の旅』「金剛輪寺と百済寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2985203/1/91]
 +
*1975『湖東三山地域学術調査報告書』[https://dl.ndl.go.jp/pid/12592166/]
 +
*湖東三山会1978『近江湖東三山ー百済寺・金剛輪寺・西明寺』[https://dl.ndl.go.jp/pid/12238814]
 +
*淡交社1980『古寺巡礼近江』6[https://dl.ndl.go.jp/pid/12223087]
 +
*川上敏雄編1986『百済寺』[https://dl.ndl.go.jp/pid/13202169]
 +
*川上敏雄編1987『百済寺城塞記』[https://dl.ndl.go.jp/pid/13133280]
 +
*川上敏雄1990『百済寺』[https://dl.ndl.go.jp/pid/13204450]
 +
*愛東町ふるさと読本編纂委員会編1986『山と川の歴史ーふるさと読本』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9571672]
 +
*2005『史跡百済寺境内保存活用計画』[http://doi.org/10.24484/sitereports.142817]
 +
*嶋田直人2006「百済寺遺跡(滋賀県東近江市)―近江湖東天台寺院の変遷―」『月刊文化財』
[[category:滋賀県]]
[[category:滋賀県]]

2026年2月28日 (土) 時点における最新版

百済寺・3本堂-16.jpg

百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市百済寺町(近江国愛知郡)にある聖徳太子ゆかりの天台宗寺院。本尊は十一面観音。古代の天台別院金剛輪寺西明寺と共に湖東三山と呼ばれる。山号は釈迦山。(参考:同名寺院百済寺_(同名)

目次

歴史

百済寺・2喜見院-14.jpg
  • 592年(推古14年):聖徳太子が百済国龍雲寺を模して創建したと伝える。高麗の恵慈が呪願師を務め、百済の道欣が導師として落慶供養。
  • 665年(天智4年):百済国の王子が来日して滞在・居住。そのため百済寺と称する(『淡海温故録』)。
  • 1144年(天養元年):近江国愛知郡百済寺、天台別院となる(『東寺観智院文書年代記』『近江愛智郡志』)。
  • 1183年(寿永2年):上洛する木曽義仲に兵糧米500石を供出し、押立5郷を寄進されたという(『源平盛衰記』)。
  • 1192年(建久3年):「百済寺東谷住僧珎栄」が大般若経(滋賀県高島市安曇川町北船木の若宮神社所蔵『無量寿院大般若経』。1089年頃書写)を修復(巻第330奥書)。百済寺を記録する現存最古の史料。
  • 1213年(建暦3年)2月:この時には延暦寺無動寺の末寺となっていた。「慈鎮所領譲状案」(『華頂要略』)で慈鎮から青蓮院朝仁親王に譲った末寺の中に記される。
  • 1233年(天福元年):法性寺座主慈賢が逐電して百済寺に滞在(『明月記』)。
  • 1234年(文暦元年):前天台座主良快、慈源に百済寺を譲る(「慈源所領注文」『華頂要略』)。
  • 1274年(文永11年):火災。
  • 延文年間(1356〜1361):源重のもとに犬上郡小野の「一万大菩薩」(近江・小野神社の関係か)が来現して三十番神の中に加えよと告げて奇瑞を示した。よって百済寺では三十番神に加えるという(『淡海温故録』)。
  • 1395年(応永2年)9月22日:近江百済寺の僧侶の発願により京都の北野南馬場に仮屋2棟を建て10日間にわたり1100人の僧侶により一万部法華経の読誦会を厳修。北野経王堂の起源となる。[1][2]
  • 1397年(応永4年)7月28日:救誉、重代相伝の「はくさい寺」(百済寺)先達直法房・辻房門弟引旦那職などを娘の楠御前に譲る(「旦那処分状」熊野那智大社文書)。
  • 1479年(文明11年):上洛する者に「百済寺樽」を託す(『言国卿記』)。百済寺またはその周辺で醸造が行われていた。
  • 1487年(長享元年)10月7日:第一次六角征伐で足利義尚が陣を置く(『後法興院記』)。
  • 1492年(明応元年):第二次六角征伐で足利義材が伽藍を焼き払う(『大乗院寺社雑事記』)。
  • 1498年(明応7年)8月6日:失火炎上。本堂・常行三昧堂・阿弥陀堂・太子殿・五重塔・一切経輪蔵などを失うが、本尊や坊舎は無事(「百済寺衆徒等申状」)。
  • 1498年(明応7年)8月16日:本尊修復。
  • 1503年(文亀3年)4月:伊庭貞隆の乱の兵火で焼失。本堂・五重塔・太子殿・常行堂・三所神殿・二階楼門・十禅師宝宮や坊舎、門前町、そして古記録も焼失(「百済寺文書」)。相次ぐ兵火でこの頃から、百済寺全体が城砦化していったと推定される。
  • 1504年(永正元年)閏3月27日:伊庭貞隆、百済寺の寺領寺域を安堵(「伊庭貞隆安堵状」)。
  • 1506年(永正3年):再興のための勧進が始まる。
  • 1523年(大永3年):この年の記録によれば、住僧は東谷6坊に48人、南谷19坊に152人、西谷14坊に112人、北谷8坊に64人がいた。その他に衆徒が西谷に57人、東谷に55人、南谷に93人、北谷に56人いた。住僧が376人、衆徒が421人いた。
  • 1536年(天文5年)7月23日:天文法華の乱に百済寺衆徒も参加し戦死者6人を出す[3]。供養塔建立。
  • 1542年(天文11年)11月18日:火災。7日前から毎夜、本尊の観音が夢に現れて外に移せと告げ、自然木の観音像を切り離して移し難を逃れたという(『淡海温故録』)。
  • 1549年(天文18年):後奈良天皇綸旨。座主尊鎮が勧進帳を作成。
  • 1568年(永禄11年)9月12日:足利義昭を擁して上洛する織田信長、百済寺の諸権利を安堵(「織田信長朱印状」)。
  • 1573年(天正1年)4月15日:織田信長が焼き払う。六角義治の鯰江城籠城を支援していたため。本尊などは奥之院と言われた大萩村の西ケ峰不動堂に避難。この焼き討ちの様子をルイスフロイスが書簡に記録。
  • 1575年(天正3年)1月10日:千手坊、岩本坊、実相坊、光浄院の僧4人が百済寺に戻り、仮堂を建立。28日、西ケ峰不動堂から本尊を還座。
  • 1575年(天正3年)2月21日:山王十禅師社を再建遷座。
  • 1584年(天正12年)10月7日:近江佐和山の土屋秀政、百済寺本堂を再建。
  • 1585年(天正13年)11月:豊臣秀吉家臣の田中吉政が百済寺に仏供灯明料として13石余を寄進。
  • 1612年(慶長17年)5月3日:徳川家康、朱印地100石を安堵。
  • 1617年(元和3年):井伊家が幕府から5万石の加増を受け、百済寺は彦根藩領となる。
  • 1634年(寛永11年)8月17日:「山門三院執行探題」の天海、百済寺に法度を定める[4]
  • 1634年(寛永11年):領地の配分を巡り対立が起こり、千手坊仙重(仙住)が百済寺を去る。その後任に天海の弟子の亮算が送り込まれる。千手坊を喜見院と改称した。
  • 1637年(寛永14年)5月26日:千手坊(喜見院)亮算・南院坊亮応・岩本坊円海が朝廷に言上し、明正天皇から再興の勅許を得る。
  • 1648年(慶安元年)1月:南院坊亮応の死去により千手坊亮算が百済寺再建を継ぐ。
  • 1650年(慶安3年)8月18日:現在の本堂落慶。園城寺勧学院の章海が導師を務めた。9月18日まで開帳(棟札[5])。
  • 1650年(慶安3年)9月21日:亮算、14箇条の「定法度」を定める[6]。朱印地100石から千手坊、岩本坊、南院坊に20石ずつ配分する。
  • 1659年(万治2年):井伊直滋が夷母谷に隠棲。
  • 1661年(寛文元年)6月9日:井伊直滋、百済寺で死去。墓所が設けられる。
  • 1662年(寛文2年)11月1日:亮算、年中行事を定める[7]。元三会、慈覚講、太子講、涅槃講、山王講、仏生会、伝教講、大師講。
  • 1721年(享保6年)3月:この年の書上によれば東谷に6坊、僧13人。南谷に11坊、僧17人。西谷に8坊、僧12人。北谷に12坊、僧21人。合計は37宇、僧63人。(再興以前四谷衆徒并末寺庵書上)
  • 1733年(享保18年)6月8日:井伊直滋廟、落慶法要。
  • 1736年(元文元年)11月30日:喜見院焼失。翌年再建。
  • 1865年(慶応元年):記録には本坊喜見院、龍華院、西谷に寛妙坊、北谷に源妙坊、赤門上に妙仙坊、その南に古条坊などがあった。
  • 1940年(昭和15年):本坊喜見院を仁王門南側から移築。西ケ峰不動堂も新しい喜見院に移築。
  • 1968年(昭和43年):本坊庭園を整備。
  • 1986年(昭和61年):坊舎跡を調査。城砦もみつかる。275カ所の遺跡を発見[8]
  • 2000年(平成12年):弥勒菩薩半跏思惟像の石像を造立。
  • 2013年(平成25年):弁天堂再建。

(日本歴史地名大系)

境内

  • 阿弥陀堂
  • 総門:赤門:慶安3年(1650年)再建。
  • 井伊直滋墓
  • 天文法華の乱供養塔:天文法華の乱に出兵した僧兵の供養塔という。
  • 堂:不詳。
  • 極楽橋
  • 矢杉:杉の葉が矢となり、織田信長軍と戦ったという。
  • ねずみ地蔵
  • 弥勒石像
  • 仁王門:慶安3年(1650年)再建。
  • 鐘楼:
  • 化け地蔵跡
  • 弁天堂:2013年に再建
  • 本堂:本尊は十一面観音。慶安3年(1650年)再建。
  • 三所権現社:祭神は熊野三所権現
  • 亮算墓
  • 旧本堂跡
  • 五重塔跡


  • 常行三昧堂:廃絶
  • 太子堂: 廃絶
  • 経蔵: 廃絶
  • 十禅師社: 廃絶
  • 岩上神社:百済寺鎮守社。
  • 日吉神社:百済寺鎮守社。総門前が御旅所となっている。
  • 坂本神社:百済寺鎮守社。
  • 大日堂
  • 西ケ峰不動堂:奥之院
  • 歴代住職墓地:共同墓地内

子院

喜見院跡
現在の喜見院
  • 喜見院:本尊は阿弥陀如来。本坊。旧千手坊。書院、不動堂などがある。昭和15年、仁王門下から移築。湯島天満宮別当の喜見院も参照。
  • 龍華院:学頭。龍花院。
  • 岩本坊:比叡山横川地蔵院を兼務していたという。尊海が中興
  • 南院坊:
  • 「百坊跡」:南側
  • 「二百坊跡」:北側
  • 「七百坊跡」:西側
  • 引接寺:麓

東谷

かつての坊舎の一覧[9][10]

  • 南中坊
  • 西光院
  • 仏乗坊
  • 慶蔵坊
  • 浄光院
  • 妙住坊

南谷

  • 高山院
  • 実和坊
  • 乗蔵坊
  • 大定坊
  • 南院坊
  • 増花坊
  • 地蔵坊
  • 杉本坊
  • 円満院
  • 花蔵院
  • 大坊
  • 千手坊
  • 定蔵坊
  • 千教坊
  • 吉祥院
  • 岩本坊
  • 定住坊
  • 南蔵坊
  • 勝林坊

西谷

  • 井上坊
  • 橋本坊
  • 明光坊
  • 実勝坊
  • 勝泉坊
  • 是明坊
  • 妙音坊
  • 不動坊
  • 新坊
  • 一乗坊
  • 法光坊
  • 増光坊
  • 桂本坊
  • 光明院

北谷

  • 西明寺
  • 満蔵坊
  • 城泉坊
  • 正覚院
  • 新蔵坊
  • 蓮城坊
  • 衆宝坊
  • 場養坊

画像

資料

  • 院坊跡図:[11]
  • 百済寺一切経輪蔵建立勧進願文
  • 1692「寺改帳」:由緒
  • 1732「百済寺来由并古記目録」
  • 『古事類苑』「百済寺」[12]
  • 『本朝高僧伝』「江州百済寺沙門源重伝」[13]
  • 寒川辰清編『近江国輿地志略』「百済寺」[14]
  • 1929『近江愛智郡志』巻二[15]
  • 1929『近江愛智郡志』巻三[16]
  • 1929『近江愛智郡志』巻五「百済寺」[17]
  • 川勝政太郎1950「近江百済寺の遺宝」『史迹と美術206』[18]
  • 近江古美術大観刊行会編1956『近江古美術大観』第2集「唐草文磬(銅造)百済寺」[19]
  • 近江古美術大観刊行会編1959『近江古美術大観』第8集「日吉山王曼荼羅(絹本著色)百済寺」[20]
  • 宇野茂樹編1958『近江造像銘』第1「聖観音像明応七年・如意輪観音像明応八年」[21]
  • 彦根市1960『彦根市史ー上』「彦根寺と百済寺」[22]
  • 景山春樹1967『近江路ー史跡と古美術の旅』「金剛輪寺と百済寺」[23]
  • 1975『湖東三山地域学術調査報告書』[24]
  • 湖東三山会1978『近江湖東三山ー百済寺・金剛輪寺・西明寺』[25]
  • 淡交社1980『古寺巡礼近江』6[26]
  • 川上敏雄編1986『百済寺』[27]
  • 川上敏雄編1987『百済寺城塞記』[28]
  • 川上敏雄1990『百済寺』[29]
  • 愛東町ふるさと読本編纂委員会編1986『山と川の歴史ーふるさと読本』[30]
  • 2005『史跡百済寺境内保存活用計画』[31]
  • 嶋田直人2006「百済寺遺跡(滋賀県東近江市)―近江湖東天台寺院の変遷―」『月刊文化財』
https://shinden.boo.jp/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E5%AF%BA」より作成

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