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百済寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市にある天台宗寺院。本尊は十一面観音。古代の天台別院。金剛輪寺・西明寺と共に湖東三山と呼ばれる。山号は釈迦山。(参考:同名寺院百済寺_(同名))
目次 |
歴史
- 592年(推古14年):聖徳太子が百済国龍雲寺を模して創建したと伝える。高麗の恵慈が呪願師を務め、百済の道欣が導師として落慶供養。
- 665年(天智4年):百済国の王子が来日して滞在・居住。そのため百済寺と称する(『淡海温故録』)。
- 1144年(天養元年):近江国愛知郡百済寺、天台別院となる(『東寺観智院文書年代記』『近江愛智郡志』)。
- 1183年(寿永2年):上洛する木曽義仲に兵糧米500石を供出し、押立5郷を寄進されたという(『源平盛衰記』)。
- 1192年(建久3年):「百済寺東谷住僧珎栄」が大般若経(滋賀県高島市安曇川町北船木の若宮神社所蔵『無量寿院大般若経』。1089年頃書写)を修復(巻第330奥書)。百済寺を記録する現存最古の史料。
- 1213年(建暦3年)2月:この時には延暦寺無動寺の末寺となっていた。「慈鎮所領譲状案」(『華頂要略』)で慈鎮から青蓮院朝仁親王に譲った末寺の中に記される。
- 1233年(天福元年):法性寺座主慈賢が逐電して百済寺に滞在(『明月記』)。
- 1234年(文暦元年):前天台座主良快、慈源に百済寺を譲る(「慈源所領注文」『華頂要略』)。
- 1274年(文永11年):火災。
- 延文年間(1356〜1361):源重のもとに犬上郡小野の「一万大菩薩」(近江・小野神社の関係か)が来現して三十番神の中に加えよと告げて奇瑞を示した。よって百済寺では三十番神に加えるという(『淡海温故録』)。
- 1395年(応永2年)9月22日:近江百済寺の僧侶の発願により京都の北野南馬場に仮屋2棟を建て10日間にわたり1100人の僧侶により一万部法華経の読誦会を厳修。北野経王堂の起源となる。[1][2]
- 1397年(応永4年)7月28日:救誉、重代相伝の「はくさい寺」(百済寺)先達直法房・辻房門弟引旦那職などを娘の楠御前に譲る(「旦那処分状」熊野那智大社文書)。
- 1479年(文明11年):上洛する者に「百済寺樽」を託す(『言国卿記』)。百済寺またはその周辺で醸造が行われていた。
- 1487年(長享元年)10月7日:第一次六角征伐で足利義尚が陣を置く(『後法興院記』)。
- 1492年(明応元年):第二次六角征伐で足利義材が伽藍を焼き払う(『大乗院寺社雑事記』)。
- 1498年(明応7年)8月6日:失火炎上。本堂・常行三昧堂・阿弥陀堂・太子殿・五重塔・一切経輪蔵などを失うが、本尊や坊舎は無事(「百済寺衆徒等申状」)。
- 1498年(明応7年)8月16日:本尊修復。
- 1503年(文亀3年)4月:伊庭貞隆の乱の兵火で焼失。本堂・五重塔・太子殿・常行堂・三所神殿・二階楼門・十禅師宝宮や坊舎、門前町、そして古記録も焼失(「百済寺文書」)。相次ぐ兵火でこの頃から、百済寺全体が城砦化していったと推定される。
- 1504年(永正元年)閏3月27日:伊庭貞隆、百済寺の寺領寺域を安堵(「伊庭貞隆安堵状」)。
- 1506年(永正3年):再興のための勧進が始まる。
- 1523年(大永3年):この年の記録によれば、住僧は東谷6坊に48人、南谷19坊に152人、西谷14坊に112人、北谷8坊に64人がいた。その他に衆徒が西谷に57人、東谷に55人、南谷に93人、北谷に56人いた。住僧が376人、衆徒が421人いた。
- 1536年(天文5年)7月23日:天文法華の乱に百済寺衆徒も参加し戦死者6人を出す[3]。供養塔建立。
- 1542年(天文11年)11月18日:火災。7日前から毎夜、本尊の観音が夢に現れて外に移せと告げ、自然木の観音像を切り離して移し難を逃れたという(『淡海温故録』)。
- 1549年(天文18年):後奈良天皇綸旨。座主尊鎮が勧進帳を作成。
- 1568年(永禄11年)9月12日:足利義昭を擁して上洛する織田信長、百済寺の諸権利を安堵(「織田信長朱印状」)。
- 1573年(天正1年)4月15日:織田信長が焼き払う。六角義治の鯰江城籠城を支援していたため。本尊などは奥之院と言われた大萩村の西ケ峰不動堂に避難。この焼き討ちの様子をルイスフロイスが書簡に記録。
- 1575年(天正3年)1月10日:千手坊、岩本坊、実相坊、光浄院の僧4人が百済寺に戻り、仮堂を建立。28日、西ケ峰不動堂から本尊を還座。
- 1575年(天正3年)2月21日:山王十禅師社を再建遷座。
- 1584年(天正12年)10月7日:近江佐和山の土屋秀政、百済寺本堂を再建。
- 1585年(天正13年)11月:豊臣秀吉家臣の田中吉政が百済寺に仏供灯明料として13石余を寄進。
- 1612年(慶長17年)5月3日:徳川家康、朱印地100石を安堵。
- 1617年(元和3年):井伊家が幕府から5万石の加増を受け、百済寺は彦根藩領となる。
- 1634年(寛永11年)8月17日:「山門三院執行探題」の天海、百済寺に法度を定める[4]。
- 1634年(寛永11年):領地の配分を巡り対立が起こり、千手坊仙重(仙住)が百済寺を去る。その後任に天海の弟子の亮算が送り込まれる。千手坊を喜見院と改称した。
- 1637年(寛永14年)5月26日:千手坊(喜見院)亮算・南院坊亮応・岩本坊円海が朝廷に言上し、明正天皇から再興の勅許を得る。
- 1648年(慶安元年)1月:南院坊亮応の死去により千手坊亮算が百済寺再建を継ぐ。
- 1650年(慶安3年)8月18日:現在の本堂落慶。園城寺勧学院の章海が導師を務めた。9月18日まで開帳(棟札[5])。
- 1650年(慶安3年)9月21日:亮算、14箇条の「定法度」を定める[6]。朱印地100石から千手坊、岩本坊、南院坊に20石ずつ配分する。
- 1659年(万治2年):井伊直滋が夷母谷に隠棲。
- 1661年(寛文元年)6月9日:井伊直滋、百済寺で死去。墓所が設けられる。
- 1662年(寛文2年)11月1日:亮算、年中行事を定める[7]。元三会、慈覚講、太子講、涅槃講、山王講、仏生会、伝教講、大師講。
- 1721年(享保6年)3月:この年の書上によれば東谷に6坊、僧13人。南谷に11坊、僧17人。西谷に8坊、僧12人。北谷に12坊、僧21人。合計は37宇、僧63人。(再興以前四谷衆徒并末寺庵書上)
- 1733年(享保18年)6月8日:井伊直滋廟、落慶法要。
- 1736年(元文元年)11月30日:喜見院焼失。翌年再建。
- 1865年(慶応元年):記録には本坊喜見院、龍華院、西谷に寛妙坊、北谷に源妙坊、赤門上に妙仙坊、その南に古条坊などがあった。
- 1940年(昭和15年):本坊喜見院を仁王門南側から移築。西ケ峰不動堂も新しい喜見院に移築。
- 1968年(昭和43年):本坊庭園を整備。
- 1986年(昭和61年):坊舎跡を調査。城砦もみつかる。275カ所の遺跡を発見[8]。
- 2000年(平成12年):弥勒菩薩半跏思惟像の石像を造立。
- 2013年(平成25年):弁天堂再建。
(日本歴史地名大系)
境内
- 阿弥陀堂
- 総門:赤門:慶安3年(1650年)再建。
- 井伊直滋墓
- 天文法華の乱供養塔:天文法華の乱に出兵した僧兵の供養塔という。
- 堂:不詳。
- 極楽橋
- 矢杉:杉の葉が矢となり、織田信長軍と戦ったという。
- ねずみ地蔵
- 弥勒石像
- 仁王門:慶安3年(1650年)再建。
- 鐘楼:
- 化け地蔵跡
- 弁天堂:2013年に再建
- 本堂:本尊は十一面観音。慶安3年(1650年)再建。
- 三所権現社:祭神は熊野三所権現
- 亮算墓
- 旧本堂跡
- 五重塔跡
- 常行三昧堂:廃絶
- 太子堂: 廃絶
- 経蔵: 廃絶
- 十禅師社: 廃絶
- 岩上神社:百済寺鎮守社。
- 日吉神社:百済寺鎮守社。総門前が御旅所となっている。
- 坂本神社:百済寺鎮守社。
- 大日堂
- 西ケ峰不動堂:奥之院
- 歴代住職墓地:共同墓地内
子院
- 喜見院:本尊は阿弥陀如来。本坊。旧千手坊。書院、不動堂などがある。昭和15年、仁王門下から移築。湯島天満宮別当の喜見院も参照。
- 龍華院:学頭。龍花院。
- 岩本坊:比叡山横川地蔵院を兼務していたという。尊海が中興
- 南院坊:
- 「百坊跡」:南側
- 「二百坊跡」:北側
- 「七百坊跡」:西側
- 引接寺:麓
東谷
- 南中坊
- 西光院
- 仏乗坊
- 慶蔵坊
- 浄光院
- 妙住坊
南谷
- 高山院
- 実和坊
- 乗蔵坊
- 大定坊
- 南院坊
- 増花坊
- 地蔵坊
- 杉本坊
- 円満院
- 花蔵院
- 大坊
- 千手坊
- 定蔵坊
- 千教坊
- 吉祥院
- 岩本坊
- 定住坊
- 南蔵坊
- 勝林坊
西谷
- 井上坊
- 橋本坊
- 明光坊
- 実勝坊
- 勝泉坊
- 是明坊
- 妙音坊
- 不動坊
- 新坊
- 一乗坊
- 法光坊
- 増光坊
- 桂本坊
- 光明院
北谷
- 西明寺
- 満蔵坊
- 城泉坊
- 正覚院
- 新蔵坊
- 蓮城坊
- 衆宝坊
- 場養坊
画像
資料
- 院坊跡図:[11]
- 百済寺一切経輪蔵建立勧進願文
- 1692「寺改帳」:由緒
- 1732「百済寺来由并古記目録」
- 『古事類苑』「百済寺」[12]
- 『本朝高僧伝』「江州百済寺沙門源重伝」[13]
- 寒川辰清編『近江国輿地志略』「百済寺」[14]
- 1929『近江愛智郡志』巻二[15]
- 1929『近江愛智郡志』巻三[16]
- 1929『近江愛智郡志』巻五「百済寺」[17]
- 川勝政太郎1950「近江百済寺の遺宝」『史迹と美術206』[18]
- 近江古美術大観刊行会編1956『近江古美術大観』第2集「唐草文磬(銅造)百済寺」[19]
- 近江古美術大観刊行会編1959『近江古美術大観』第8集「日吉山王曼荼羅(絹本著色)百済寺」[20]
- 宇野茂樹編1958『近江造像銘』第1「聖観音像明応七年・如意輪観音像明応八年」[21]
- 彦根市1960『彦根市史ー上』「彦根寺と百済寺」[22]
- 景山春樹1967『近江路ー史跡と古美術の旅』「金剛輪寺と百済寺」[23]
- 湖東三山会1978『近江湖東三山ー百済寺・金剛輪寺・西明寺』[24]
- 淡交社1980『古寺巡礼近江』6[25]
- 川上敏雄編1986『百済寺』[26]
- 川上敏雄編1987『百済寺城塞記』[27]
- 川上敏雄1990『百済寺』[28]
- 愛東町ふるさと読本編纂委員会編1986『山と川の歴史ーふるさと読本』[29]
- 2005『史跡百済寺境内保存活用計画』[30]
- 嶋田直人2006「百済寺遺跡(滋賀県東近江市)―近江湖東天台寺院の変遷―」『月刊文化財』