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西来寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年8月6日 (日)
(伊勢・西来寺から転送)
西来寺(さいらいじ)は、三重県津市乙部(伊勢国安濃郡)にある真盛ゆかりの天台宗寺院。本尊は阿弥陀如来。天台真盛宗別格本山。
目次 |
歴史
- 1490年(延徳2年):真盛が津観音で90日の説法を行った時、請われて西来寺を創建したという。当初は小丹の塩屋というところにあった。
- 1498年(明応7年):明応の大地震で、小丹周辺は陥没したという。その後、安濃津に移り、のち釜屋町に移った。
- 1600年(慶長5年)8月24日:安濃津城の戦いで、東軍が西来寺を砦としたため、戦場となり焼失。
- 1601年(慶長6年):津藩藩主富田信高の計らいで現在地が与えられ、再建された。徳川家康の側室清雲院の帰依を得て方丈などが建てられた。
- 1945年(昭和20年)7月28日:空襲で伽藍焼失。のち再建。
- 1993年(平成5年):本堂再建。
(日本歴史地名大系ほか)
寛永寺両大師堂(元は寛永寺慈恵堂)に祀られている良源(元三大師)絵像は元は西来寺に伝来したものを天海が藤堂高虎に依頼して寛永寺に遷させたものという。
伽藍
子院
- 普門院
- 円解院
- 常照院
- 慈眼院
- 観樹院
- 東漸院
- 真浄院
- 霊鷲院:霊樹院とも
組織
住職
- 延暦寺派の僧侶が入寺することも多かった。
世数 | 僧名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 真盛 | 1443-1495 | ||
2 | 盛算 | ?-1494 | 1494年(明応3年)5月14日死去。 | |
3 | 盛品 | ?-1526 | 1526年(大永6年)9月12日死去。阿漕津に埋葬。盛品塚(西来寺塚)がある(阿漕塚の南300mにあるらしいが未確認)。 | |
4 | 光賢 | ?-1562 | 1526-1562 | 1526年(大永6年)入寺。1562年(永禄5年)5月25日死去。 |
5 | 真什 | 1562- | 1562年(永禄5年)入寺。 | |
6 | 真照 | ?-1597 | 1590-1594 | 西教寺10世。 |
7 | 真円 | ?-1598 | 1594-1597 | 西教寺11世。 |
8 | 盛什 | ?-1600 | 1597-1600 | 1597年(慶長2年)入寺。1600年(慶長5年)3月5日死去。 |
9 | 真如 | 1600- | 1600年(慶長5年)、下野国三津台より入寺。 | |
10 | 舜盛 | 1616- | 1616年(元和2年)関東より入寺。 | |
11 | 真道 | ?-1639 | 1639年(寛永16年)11月12日死去。 | |
12 | 真雄 | ?-1658 | 1658年(万治1年)4月8日死去。 | |
13 | 真透 | ?-1666 | 1658-1662 | 1658年(万治1年)入寺。1662年(寛文2年)2月隠退。1666年(寛文6年)5月1日死去。真秀とも。 |
真廊 | 1662-1668 | 1662年(寛文2年)、桑名仏眼院より入寺。1668年(寛文8年)、西来寺を寛永寺末に転派させようとして失敗し檀家や本山と不和となり隠退となる。除歴。 | ||
14 | 秀全 | ?-1684 | 1663?-1679 | 1663年(寛文3年)、近江善通寺より入寺。藤堂家の久居築城にともない、1679年(延宝7年)、西来寺の白楽院寮を久居に移して玉泉寺と称し、ここに隠退する。1683年(天和3年)7月2日死去。真全。 |
15 | 真也 | 1679-1684 | 1679年(延宝7年)、延暦寺西塔上乗院より転派転住。1684年(貞享1年)、久居玉泉寺に隠退。 | |
16 | 真鑑 | ?-1684 | 1684-1684 | 1684年(貞享1年)5月、二尊院から転住。8月14日死去。 |
17 | 真〓 | 1685-1691 | 1685年(貞享2年)、相可浄土寺より転住。1691年(元禄4年)4月30日、新家光明寺に隠退。〓は「王秀」。 | |
18 | 秀含 | 1691- | 1691年(元禄4年)8月24日、大清寺より入寺。 | |
19 | 真峰 | 1701-1707 | 1701年(元禄14年)11月、山田善光寺より入寺。1707年(宝永4年)4月、京都上善寺に隠退。 | |
20 | 真龍 | 1707- | 1707年(宝永4年)6月15日、来迎寺より入寺。 | |
21 | 真洲 | 1719-1737 | 1719年(享保4年)11月14日、敦賀真禅寺より入寺。1737年(元文2年)4月30日、半田高西寺に隠退。真州常任。 | |
22 | 真含 | ?-1743 | 1737-1743 | 1737年(元文2年)11月8日、越前粟生寺より入寺。1743年(寛保3年)8月15日死去。 |
23 | 真恒 | ?-1750 | 1745-1750 | 1745年(延享2年)3月、近江法蓮寺より入寺。1750年(寛延3年)6月11日死去。 |
24 | 真瑞 | 1750-1756 | 1750年(寛延3年)、近江善通寺より入寺。1756年(宝暦6年)7月6日、盛安寺に隠退。 | |
25 | 真荷 | ?-1762 | 1756-1761? | 1756年(宝暦6年)11月26日、延暦寺西塔薬王院より転派入寺。1761年(宝暦11年)までに隠退。1762年(宝暦12年)7月6日死去。 |
26 | 真陽 | 1763-1778 | 1763年(宝暦13年)4月26日、延暦寺東塔北谷慈光院より転派入寺。1778年(安永7年)10月15日、退任。 | |
27 | 真融 | 1779-1787 | 1779年(安永8年)11月28日、粟生寺より入寺。1787年(天明7年)5月、隠退。 | |
28 | 真愚 | ?-1793 | 1789-1793 | 1789年(寛政1年)11月14日、延暦寺西塔西谷無量院より入寺。1793年(寛政5年)12月8日死去。 |
29 | 真襄 | 1795- | 1795年(寛政7年)2月、野村西願寺より入寺。 | |
真諦 | 1798-1802 | 1798年(寛政10年)入寺。1802年(享和2年)7月、大仏御殿に帰庵。歴代に加えず。 | ||
30 | 真契 | 1802- | 1802年(享和2年)7月3日、延暦寺北谷栄泉院より入寺。 | |
31 | 真阿 | 1786-1859 | 1827- | 声明に通じた学僧。北野天満宮社僧光乗坊能桂の子。1786年(天明6年)10月25日生。魚山普賢院住職。坂本求法寺に隠棲。1827年(文政10年)、西来寺住職。著書に『魚山叢書』『北野文叢』『北野藁草』など多数。1859年(安政6年)8月27日死去。74歳。宗淵。能瑞。七回忌に上京・西方寺に衣を納めた碑が建てられた。 |
32 | 真吽 | 1849-1855 | 1849年(嘉永2年)入寺。1855年(安政2年)、魚山宝光院に帰住。1872年(明治5年)3月、西来寺に再住。 | |
33 | 真念 | 1857- | 1857年(安政4年)9月26日、近江法蓮寺より入寺。 | |
真吽 | 1872- | 再任。 | ||
34 | 小泉観海 | |||
35 | 真童 | 1818-1906 | 1879-1892 | 西教寺31世。元は山門派の僧侶で大光普照寺57世。金鑚広貫。隠退後、西来寺で死去。 |
36 | 真空 | 1893- | 1893年(明治26年)7月5日入寺。 | |
37 | 小泉円達 | 1901- | 1901年(明治34年)2月、入寺。 | |
38 | 真澄 | 1864-1952 | 1912-1924 | 辻井徳順。山門派の僧侶。自坊は観音正寺教林坊。1912年(大正1年)7月、入寺。(「早稲田大学図書館蔵教林文庫目録稿」[1]) |
39 | 真恂 | 1927- | 西教寺36世。西村冏念。1927年(昭和2年)8月、引接寺より入寺。1937年(昭和12年)管長。 | |
40 | 真慶 | 西教寺38世。蛭薙詮順。 | ||
41 | ||||
42 | ||||
43 | ||||
44 | 砂原円譲 | ?-2007 | 1986-2007 | 自坊は伊賀本願寺。宗務総長。(略歴は天台真盛宗#組織を参照) |
45 | 寺井良宣 | 1949- | 千野深光寺住職。叡山学院教授。天台真盛宗勧学。著書に『天台円頓戒思想の成立と展開』。 |