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敦賀・八幡神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年5月5日 (日)

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八幡神社(はちまん・じんじゃ)は、福井県敦賀市三島町(越前国敦賀郡)にある八幡信仰の神社。気比神宮関連旧跡で、応神天皇が皇子時代に敦賀行啓したときの行在所跡。祭神は「誉田別尊、五十日足彦命」である(『福井県神社誌』)。官社論社。県社築地八幡宮正八幡宮とも称す。

歴史

『古事記』によると、応神天皇が皇子時代に武内宿禰に伴われて、敦賀を訪れて気比大神を拝した。このとき、神託を受けて気比大神と名前を交換したという。一方、『日本書紀』「神功皇后紀」には神功皇后13年2月8日にやはり武内宿禰に伴われて、笥飯大神(気比大神)を拝したとあり、また『日本書紀』「応神天皇紀」に笥飯大神(気比大神)の参拝のとき、大神と名前を交換して、大神を「去来紗別神」といい、太子(応神天皇)を「誉田別尊」と名付けたという。この敦賀行啓のときの行在所跡に建てられたのが当社であるという。創建年代は不詳。

『延喜式』神名帳にある越前国敦賀郡「石田神社」の論社でもあり、石田神社は704年(慶雲1年)の創建とされる。780年(宝亀11年)に光仁天皇の勅を受けて藤原永手が社殿造営し、両神を祀ったという。

元寇の時に朝廷より異国降伏の祈願があった。1556年(弘治2年)、朝倉義景が社殿造営し、翌年、疋田景継が阿弥陀如来を奉納した。1570年(元亀1年)には織田朝倉の合戦により罹災、1598年(慶長3年)に京極忠高が修復した。江戸時代には福井藩の崇敬を得た。1871年(明治4年)、小浜藩によって「藩社」に列格された(おそらく国の制度を誤解して藩独自で定めたもので、無効になったと思われる)。1875年(明治8年)10月10日に郷社に列格され、1908年(明治41年)4月26日に神饌幣帛料供進神社となり、1937年(昭和12年)8月12日に県社に昇格した。

参考文献

『福井県神社誌』

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%95%A6%E8%B3%80%E3%83%BB%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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