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禊教上野派

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年2月3日 (金)

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禊教上野派は、かつて東京都台東区上野に本部を置いていた禊教教団。正式名称は、禊教。便宜上、「禊教上野派」と表記する。

目次

歴史

  • 1849年(嘉永2年)2月18日:井上正鉄三宅島で死去。
  • 1872年(明治5年)8月22日:教部省、吐菩加美講設立を公認。
  • 1873年(明治6年):身禊講社設立。
  • 1874年(明治7年):惟神教会にも所属。
  • 1876年(明治9年)3月:惟神教会禊社設立。
  • 1877年(明治10年):禊教社設立。
  • 1878年(明治11年):井上正鉄の遺骸を三宅島から改葬。
  • 1879年(明治12年)8月18日:坂田鉄安ら、井上神社創立許可申請を東京府に提出。
  • 1879年(明治12年):創立許可申請の直後に坂田鉄安派は禊教社に離脱を通告。惟神教会の専属となる。
  • 1879年(明治12年)12月12日:井上神社創立許可。
  • 1880年(明治13年)4月:井上神社を創建。無格社となる。
  • 1882年(明治15年)3月24日:坂田鉄安、神道本局より「神道禊教長」に任じられる。
  • 1882年(明治15年)5月15日:大社教に転属して、この日、「禊社派名公称願」を内務省に提出。
  • 1882年(明治15年)6月15日:「神道禊派」を名乗る許可を得た。神道本局に所属。
  • 1883年(明治16年)1月:坂田鉄安、宮中で明治天皇に拝賀。翌年も。
  • 1890年(明治23年)3月18日:坂田鉄安死去。
  • 1893年(明治26年)6月:内務省に独立を請願。
  • 1894年(明治27年)4月21日:総理大臣に独立認可を上程
  • 1894年(明治27年)5月18日:上奏
  • 1894年(明治27年)10月20日:内務省、分離独立と管長設置を認めた。
  • 1899年(明治32年)4月12日:井上神社で50年祭
  • 1910年(明治43年)5月24日:財団法人禊教維持財団設立
  • 1932年(昭和7年):禊教同門会設立
  • 1941年(昭和16年)3月15日:宗教団体法に基づく教規改正。管長を坂田家の世襲と明記。
  • 1945年(昭和20年)2月25日:東京大空襲
  • 1945年(昭和20年)3月9日:東京大空襲。禊教本院焼失。被災を免れた井上神社を仮本院とする。
  • 1946年(昭和21年)頃:井上神社、神社本庁に所属。
  • 1947年(昭和22年)8月:井上神社奉賛会設立。
  • 1949年(昭和24年)4月12日:井上正鉄100年祭。細やかに執行。
  • 1952年(昭和27年)2月頃:宗教法人法による宗教法人
  • 1974年(昭和49年)11月27日:未明、井上神社、不審火で焼失。
  • 1975年(昭和50年):神社跡で教団創立100年祭。
  • 1982年(昭和57年):本院および神社の移転復興計画を変更。
  • 1982年(昭和57年)10月:「禊教本院大教会」の法人を解散。
  • 1986年(昭和61年)9月:身曾岐神社(井上神社)遷座祭。神社本庁から離脱。
  • 1986年(昭和61年)2月:坂田安弘、「禊教真派」(神道禊教)を設立し、分裂。
  • 1992年(平成4年)5月:「禊教真派」(神道禊教)、包括宗教法人として認証。
  • 2001年(平成13年)11月:禊教真派(神道禊教)、日本橋に移転。
  • 2002年(平成14年)7月:禊教真派、「神道禊教」と改称。

(「「禊教本院」の展開」[1]ほか)

歴代管長

歴代 名前 生没年 在職年 略歴
坂田鉄安 1820-1890 井上正鉄の弟子。保木間村名主の坂田正安の子。1820年(文政3年)生。1841年(天保12年)、父と共に井上正鉄に入門。1846年(弘化3年)頃、島流しになった正鉄から産霊の伝を受ける。1858年(安政5年)山城に伝道。1862年(文久2年)3月、寺社奉行から召喚され、4月に所払となる。5月、父と共に白川家の御内人となる。1872年(明治5年)8月、吐菩加美講を設立。9月、教導職試補。1876年(明治9年)3月、惟神教会禊社長。1880年(明治13年)4月、井上神社を創建。1882年(明治15年)6月、神道事務局に所属しながら「神道禊派」を名乗る許可を得た。1890年(明治23年)3月18日死去。「かねやす」。(新宗教教団人物事典)
1 坂田安治 1848-1900 1894-1900 坂田鉄安の子。1848年(嘉永1年)生。1859年(安政6年)、12歳で元服し、保木間村名主。1864年(元治1年)禊修行。1872年(明治5年)官吏となり印旛県、群馬県、熊谷県に勤務。1875年(明治8年)退職して、教導職試補。1876年(明治9年)権訓導。1882年(明治15年)までに中講義。1894年(明治27年)管長。1900年(明治33年)4月13日、布教先の会津で死去(官報[2])。53歳。(「「禊教本院」の展開」)
2 乾久三郎 ?-1912 1900-1912 坂田鉄安の弟子。伊勢分院主管。1900年(明治33年)8月9日、管長就任を内務省が認可(官報[3])。1912年(大正1年)6月1日死去(官報[4])。
3 柴真住 ?-1923 1913-1923 坂田鉄安の弟子。栃木分院。1912年(大正1年)7月16日、内務省から管長事務取扱に命じられる(官報[5])。1913年(大正2年)4月26日、管長就任を内務省が認可(官報[6])。1923年(大正12年)9月30日、栃木分院で死去([7]、官報[8])。
4 坂田実 1893-1956 1923-1956 坂田安治の長男。1893年(明治26年)生。1916年(大正5年)、国学院大学国文科卒[9]。1923年(大正12年)12月7日、管長就任を文部省が認可(官報[10])。井上神社社掌[11]。1956年(昭和31年)12月11日死去[12]。「みのる」
5 坂田安儀 1934-2022 1957-2022 坂田実の長男。1934年(昭和9年)生。1957年(昭和32年)、東北大学文学部宗教学科卒[13]。同年、禊教管長・井上神社宮司に就任(祝詞[14])。1967年(昭和42年)4月4日、日本宗教連盟理事長[15]世界宗教者平和会議日本委員会事務総長。1974年(昭和49年)井上神社焼失事件。1982年(昭和57年)本部を世田谷に移転。1986年(昭和61年)身曾岐神社宮司。2022年(令和4年)1月5日死去。87歳。「やすよし」。

(教派神道連合会ウェブサイト[16][17]

総監

  • 野中猪三郎()<?-1934>:1934年(昭和9年)まで禊教総監。下野・大神神社社司か。陸軍少佐。
  • 笠原幡多雄(1880-1939)<1934->:茨城県出身。1880年(明治13年)生。1904年(明治37年)国学院大学卒。皇典講究所講師。1915年(大正4年)禊教大阪教会に赴任[18]。1924年(大正13年)禊教大教正。1934年(昭和9年)、禊教総監。会津の諏訪神社の神職だったという[19]。1939年(昭和14年)2月9日死去[20]。60歳。著書『明治大帝史』。
  • 坂田和亮()<>:

教会

[21] [22]

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%A6%8A%E6%95%99%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%B4%BE」より作成

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