ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

真宗大谷派竹鼻別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年5月3日 (水)

竹鼻別院から転送)
移動: 案内, 検索

真宗大谷派竹鼻別院(しんしゅうおおたには・たけはな・べついん)は、岐阜県羽島市にある真宗大谷派別院親鸞木瀬の草庵を継承する。河野御坊。旧称は専福寺。(参考:同名寺院専福寺

歴史

嘉禎元年(1235)、親鸞が関東から上洛するときに滞在した木瀬の草庵が起源とされる。三河国矢作の柳堂で説教を聞いた尾張国葉栗郡門間庄の河野通勝が同郷の8人とともに帰依して木瀬に草庵を立てて親鸞を招いたという。通勝ら9人は各地に道場を開き、河野九門徒と呼ばれ、濃尾地方の真宗の発祥とされる。

文明2年(1470)、本願寺8代蓮如が尾張に下向し、洪水で流出した木瀬の草庵を復興した。のち専福寺と称し、河野御坊と呼ばれた。数度の移転を重ねており、天正4年(1576)には正木村にあったが、のち厚見郡上川手村に移転。加納にも分裂した寺院ができた。

石山合戦では専福寺住職忍語が戦死している。教如に従い東西分立では東本願寺に付いた。慶長9年(1604)、竹鼻下町に移転し、12年(1607)、本山の掛所となった。宝暦10年(1760)現在地に移転した。

50年かけて諸堂を立て、天保4年(1833)に本堂が完成したが、明治24年(1891)の濃尾地震で壊滅的な被害を受けた。大正11年(1922)に本堂、3年後に山門を再建した。棟梁は東本願寺を再建した伊藤平左衛門だった。

明治9年に竹鼻別院と改称したところ、従来の住職は輪番となり、自坊を失う形となった。取り消しを求めて本山に訴えたところ、別に専福寺を再興することとなった(現在、南に隣接する専福寺がそれと思われる)。

参考文献

  • 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%B4%BE%E7%AB%B9%E9%BC%BB%E5%88%A5%E9%99%A2」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール