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粟田宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月12日 (金)
粟田宮は、平安京郊外にあった崇徳天皇を祀る霊社。藤原頼長も合祀。廃絶。崇徳院御影堂とは別。
目次 |
境内
現在の京都大学病院周辺にあったとみられる。
- 崇徳院廟:西大院ともいう
- 藤原頼長廟:東小院ともいう。
- 阿弥陀堂?:白河千体新阿弥陀堂?
歴史
- 1177年(治承1年)7月29日:朝廷、讃岐院の号を改め崇徳院の号を贈る。藤原頼長に贈位。
- 1183年(寿永2年)8月:後白河法皇、成勝寺の一画に神祠を建てることを発願。光長に命じた。しかし占いにより「太不快」との結果が出て中止。
- 1183年(寿永2年)12月29日:創建の場所を保元の乱の戦跡に変更され、この日造営開始。場所は諸説あるがすでに白河千体新阿弥陀堂があったとも。『師守記』1340年(興国1年/暦応3年)3月5日条に「春日北、川原東、御倉西」とある。
- 1184年(元暦1年)1月5日:藤原行隆は九条兼実に崇徳院の託宣を奉告。讃岐の陵墓のそばに一堂を建てて仏事を修すべしと託宣があったという。
- 1184年(元暦1年)4月15日:遷宮鎮座。院司は権大納言兼雅、奉行は範季、社司に卜部兼友が任命された。崇徳院廟と藤原頼長廟があり、崇徳院廟に兼雅が、藤原頼長廟に範季が宣命を奏上した。僧侶も置かれた。
- 1184年(元暦1年)4月26日:白河天皇陵、鳥羽天皇陵、待賢門院陵に奉告差遣。
- 1185年(文治1年)2月28日:平氏追討にあたり奉幣(師守記)
- 1191年(建久2年)閏12月:後白河院の病気のため、崇徳院と安徳天皇と平氏一門の菩提が議題に上がる(玉葉)
- 1191年(建久2年)閏12月24日:朝廷により官幣を奉じることを決定。頼長を加えるべきかどうか。奉幣使の資格、山陵使を立てるべきかなどが引き続き議論される。(玉葉)
- 1191年(建久2年)閏12月28日:崇徳院廟に官幣を立てることに決まったことを奉告するため安楽寿院の鳥羽天皇陵に山陵使が派遣された。(玉葉)
- 1191年(建久2年)閏12月29日:崇徳院廟に奉幣。上卿は権大納言隆忠、使は宰相中将公時。(玉葉)
- 1192年(建久3年)11月16日:初めての祭典。祭使の清科重宗が宣命を奏上した。「粟田宮」の号を贈り、また忌日の8月26日を祭日にすることを奉告した。師守記
- 1193年(建久4年):祭日は8月中酉に変更される。
- 1219年:後鳥羽院の病気平癒祈願が行われ、その褒賞として阿闍梨2口が置かれた
組織
俗別当
- 卜部兼友
- 卜部兼清
- 卜部兼氏
- 卜部兼佐
- 卜部兼景
- 卜部兼顕
- 卜部兼尚
- 卜部兼継
- 卜部兼種
- 卜部兼卿
- 卜部兼古
- 卜部兼名
- 卜部兼郷
検校
- 慈円(1155-1225)<>:天台座主。青蓮院3世。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。初代粟田宮検校。1219年以前に就任。
- 尊助親王(1217-1290)<>:天台座主。青蓮院8世。土御門天皇皇子。1257年に「崇徳院御影堂」の「検校」となる。粟田宮検校の明記はないが参考までに掲載。
- 尊円親王(1298-1356)<>:天台座主。青蓮院17世。伏見天皇皇子。1336年12月、検校在職。1339年8月6日、「崇徳院御影堂並粟田宮検校」となる。
- 尊道親王(1332-1403)<>:天台座主。青蓮院18世。後伏見天皇皇子。1364年12月19日、継承か。以後青蓮院門跡が粟田宮検校と崇徳院御影堂検校を兼務したようだ。
別当
「僧別当」ともいう。青蓮院院家法輪院が代々兼務したともいう。 玄長()<>:初代別当。崇徳天皇側近の教長の子。 慈賢()<>:天台座主。源頼兼の子。1222年、慈円により命じられる。 良禅()<>:推定。1256年の「崇徳院御影堂領目録」が残る。 尊玄()<>:公敏の子。洞院公賢の養子。1364年12月26日、別当。尊道の検校就任に合わせた人事。