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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

讃岐・吉祥院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年8月15日 (土)

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吉祥院は讃岐国塩飽本島笠島(香川県丸亀市塩飽本島町笠島)にあった天台修験寺院。修験道本山派五流尊瀧院末の有力寺院。五流尊瀧院関連旧跡。(参考:同名寺院吉祥院

歴史

1705年に五流報恩院から分かれて成立したという(『再訂増補岡山藩山伏留』)。宝永年間に塩飽島勝知院に長床吉祥院の名跡を与えたものともいう(尊瀧院系図)。 霞(檀那場)は、塩飽七島と、松山を除く備中国を五流尊瀧院や五流伝法院(備中国浅口郡を霞としていた)から受け継いだ(『長床縁由興廃伝』) 1725年頃、吉祥院玄仙が『修験本当偽邪弁論』を記す。 先達に昇進した時に讃岐・正覚院末の光厳寺の寺地を借りた(「山伏吉祥院之事」『塩飽島諸事覚』[1])。現在も光厳寺山という山が町の南にあるのでその辺りか。 1736年の聖護院の葛城修行次第では32寺のうちに他の児島五流寺院6寺と共に加えられており、本山派の有力寺院となっていた。 廃絶時期は不明。 (岡野浩二2019「備前国児島の五流修験」『中世地方寺院の交流と表象』 ほか)

組織

歴代住職

  • 玄栄()<>:1160年(永暦1年)、後白河院の熊野先達を務めたという(『新熊野権現御伝記』)。
  • 玄仙()<>:1704年(宝永1年)8月入峰、新先達。1705年(宝永2年)宿老。『修験本当偽邪弁論』を著す。
  • 玄真()<>:1713年(正徳3年)初入峰。1731年(享保16年)8月、宿老として入峰。南明院とも。
  • 玄由()<>:1768年(明和5年)11月18日、木蘭色衣免許。
  • 玄信()<>:1816年(文化13年)8月、入峰、新先達、四度。1830年(天保1年)8月、宿老として入峰。
  • 周興()<>:五流尊瀧院の一族(尊瀧院系図)。1838年(天保9年)8月、入峰、初度。1849年(嘉永2年)2月25日、宿老御免。
  • 隆長()<1866->:1866年(慶応2年)7月26日、住職。
  • 隆興()<>:五流尊瀧院34世。1867年(慶応3年)以降に吉祥院を兼務。

(『修験道聖護院史要覧』)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%AE%83%E5%B2%90%E3%83%BB%E5%90%89%E7%A5%A5%E9%99%A2」より作成

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