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豊前・蒲生八幡宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年2月2日 (水)

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拝殿

蒲生八幡宮(かもう・はちまんぐう)は、福岡県北九州市小倉南区蒲生(豊前国企救郡)にある八幡信仰宗像信仰の神社。祭神は応神天皇神功皇后宗像三女神大山祇命・細川幽斎・細川忠興ほか4柱。県社。本殿は豊前国地域で現存最古の建築。本殿・幣殿・拝殿が独立して並ぶ豊前国地域に多い社殿配置の典型例とされる。蒲生八幡神社規矩八幡宮企救八幡宮高浜八幡宮蒲生宮

歴史

虹山(巣山)に宗像三女神が出現。紫池に多紀理比売命を祀り、虹山の頂上に多岐都比売命を祀り、紫池の北に市寸島比売命を祀った。紫池は豊前・大興善寺のあたりにあったという。このうち、虹山山頂の多岐都比売命は南香媛神(みなかひめのかみ)、南方公、姪御媛とも呼ばれたが、その後、応神天皇と神功皇后を合祀して蒲生八幡宮と称した。多紀理比売命(於婆姑比留売神ともいう)の社は中河原八幡宮(於婆宮)、市寸島比売命の社は厳島神社と称した。

壇ノ浦の戦いで三種の神器安徳天皇と共に沈んだ後、源頼朝は高浜浦の漁師の岩松与三に神器探索を命じた。岩松は蒲生八幡宮に祈願した後、海に入り、神鏡と勾玉を発見した。源頼朝は岩松に企救郡をまるごと与えるが、岩松はこの土地を蒲生八幡宮に寄進したという。

虹山城主規矩氏の崇敬を得て、応永年間には規矩親忠が社殿を造営。神宮寺として真言宗神宮院があった。 戦国時代には小倉城主小野田種尚が崇敬し、1522年(大永2年)神領を寄進した。天正年間、大友宗麟の兵火で焼失。この時、岩松与三の子孫の高浜の岩松弥兵衛(三郎兵衛)が高浜に遷座させて再建。現在の小倉井筒屋(福岡県北九州市小倉北区船場町1-1)のあたりという。規矩八幡宮(企救八幡宮)、高浜八幡宮と称した。小倉城主高橋鑑種が社殿を造営した。1587年(天正15年)、毛利勝信が小倉城主となり、神領20石を寄進。細川家が入国し、1602年(慶長7年)小倉藩主細川忠興が小倉城築城にともない、旧地に近い、現在の南方村中島山に遷座し、社殿を造営。再び蒲生八幡宮と号した。1632年(寛永9年)に小倉藩に入国した小笠原家も篤く崇敬し「府内五社」の一つとされた。 大宮司家として福岡家と高山家があったが福岡家は退転した。 1873年(明治6年)7月9日、郷社に列格。1923年(大正12年)8月8日、県社に昇格した。9月13日、神饌幣帛料供進神社に指定された。

現在の社殿は本殿が1768年(明和5年)、幣殿は1831年(天保2年)、拝殿は1907年(明治40年)頃の造営。

1867年(慶応3年)8月5日、佐野経彦(のち神理教教祖)らと境内に師の西田直養(1793-1865)を祭る幸彦社を創建。 1880年(明治13年)6月、豊前・長岡神社(祭神は細川幽斎・細川忠興)などを合祀したとみられる。 1909年(明治42年)4月、蒲生の貴布禰神社を、1910年(明治43年)4月、字古屋の貴布禰神社を合祀した。

(由緒書、日本歴史地名大系、神社明細帳、1931企救郡誌)

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