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通法寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年4月29日 (木)

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通法寺(つうほうじ)は、河内国古市郡(大阪府羽曳野市通法寺)にあった源氏ゆかりの真言宗寺院。本尊は阿弥陀如来。関東祈祷所。神仏分離で廃絶。壺井八幡宮別当。隆光旧跡。源頼信・源頼義・源義家の墓がある。山号は石丸山。

目次

歴史

源頼信が1043年(長久4年)9月5日、居館の南に菩提寺として創建。子の源頼義が仁海谷で千手観音を感得したのが契機ともいう。当初の本尊は千手観音だった。1048年(永承3年)9月1日、源頼信が死去。通法寺の山上の南西に葬られた。源頼義は仁海や源信に帰依。遺言で観音堂の下に葬られた。

1109年(天仁2年)8月、源義家五男の源義時が3代の霊を祀って壺井神社を創建した。壺井八幡宮の別当で、社僧が社務を行った。大伽藍を擁して寺院だったが荒廃した。

確実な史料初出は1279年(弘安2年)12月24日の「六波羅下文」(高木文書)で「河内国通法寺事」「伊予入道殿御建立之道場」とある。1279年(弘安2年)2月、定尊が「にんそう房」に通法寺執行職を譲った時の譲り状に「右大将家御教書いりの執行職分」とあり、鎌倉初期には存在していたことが推定される。執行のほかに別当職もあったが両者の関係は明らかでない。1286年(弘安9年)9月1日の「六波羅禁制」には「関東厳重之御祈祷所」とあり、鎌倉幕府が重視する祈祷所だったことがわかる。南北朝時代末には寺領の多くが押領され、衰退した。 時宗との関連もあり1514年(永正11年)9月3日、通法寺にて称愚が遊行上人22世意楽から法灯を受けて遊行上人23世となった。


1695年(元禄8年)、徳川光圀の故実調査に護持院隆光が通法寺の状況を上申し再興を請願。 1700年(元禄13年)11月、将軍徳川綱吉は源氏ゆかりの寺院として復興。長谷寺末となった。 寺領200石を寄進し源家三代墓を整備した。12月、常法談林所に定められた(長谷寺文書)。 1701年(元禄14年)9月、朝廷が「壺井権現」宣下、11月(12月)に正一位。

1749年(寛延2年)、壺井権現と壺井八幡宮の修復のため勧進。 1754年(宝暦4年)、通法寺修復料下賜。

1871年(明治4年)寺領上地。 1873年(明治6年)廃絶となった。 仏像は近くの専光寺に移された。

(日本歴史地名大系、国史大辞典、「河内国壺井通法寺に就いて」)

伽藍

  • 本堂:廃絶
  • 源頼義墓:本堂跡にある。死去当時は本堂の床下に遺骨を納めたという。
  • 源頼信墓:山中に塚がある
  • 源義家墓:山を削平した広い平地に大きな塚がある。
  • 歴代住職墓地:源義家墓の傍らに19基の墓碑(他に墓碑1基、古墓石群)がある。
  • 隆光墓:源頼義墓の傍らにある。

組織

歴代住職

  • 定尊
  • 代一丸
  • 乗海
  • 乗盛
  • 小法師丸
  • 実尊
  • 1戒円恵住()<>:中興。
  • 2恒山惟寅(?-1750)<>:1750年(寛延3年)2月6日死去。
  • 3菊淳敬義()<>:
  • 恵深妙瑞(1696-1764)<>:高野山円通寺9世。

資料

  • 「通法寺及壺井八幡宮文書」
  • 「河州通法寺略記」
  • 「通法寺縁起」
  • 「河内国通法寺由来記」[1]
  • 「河内国古市郡石丸山通法寺略縁起」[2]
  • 『古事類苑』「通法寺」
  • 「通法寺興廃記」:1744年(延享1年)。
  • 「通法寺記」:『縁起類聚』[3]
  • 「河内壺井通法寺図」:彰考館文庫
  • 「河内古市郡壺井宮略えんぎ」
  • 古賀克彦2006「河内国壺井通法寺に就いて」[4]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%80%9A%E6%B3%95%E5%AF%BA」より作成

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