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隆光旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年10月12日 (木)

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隆光(1649-1724)は、江戸時代の真言宗新義派僧侶。大和国出身。将軍徳川綱吉に近づき、権勢をふるう。新義真言宗僧録司。筑波山知足院護持院覚鑁興教大師の諡号宣下を実現。初め隆長と名乗る。字は栄春。俗姓は河辺。「隆光僧正日記」「護持院日記」などが伝わる。

年譜

隆光年譜
月日 年齢 事項
1649年(慶安2年) 2月8日 1 大和国超昇寺村に誕生。父は河辺重次。
1650年(慶安3年) 2
1651年(慶安4年) 4月20日 3 <3代将軍徳川家光死去。8月18日、徳川家綱が4代将軍に就任。>
1652年(承応1年) 4
1653年(承応2年) 5
1654年(承応3年) 6
1655年(明暦1年) 7
1656年(明暦2年) 8 生母死去。
1657年(明暦3年) 9
1658年(万治1年) 10 唐招提寺に入る。朝意に師事して受戒。
1659年(万治2年) 11
1660年(万治3年) 12
1661年(寛文1年) 13 長谷寺に移る(前年とも)。亮汰(のち長谷寺化主11世)に師事。
1662年(寛文2年) 14
1663年(寛文3年) 15 各地に遊学。
1664年(寛文4年) 16 長谷寺に戻り、冬報恩講論義の問者役を務める。
1665年(寛文5年) 17
1666年(寛文6年) 18 京都で儒学者立庭に師事し詩書、春秋、老荘を学ぶ。
1667年(寛文7年) 19 高野山に学ぶ。宥尊(宥専?)に灌頂を受ける。
1668年(寛文8年) 20 興福寺で盛源に唯識を学ぶ。ついで法隆寺で倶舎を学ぶ。
1669年(寛文9年) 21
1670年(寛文10年) 22
1671年(寛文11年) 23 再び長谷寺に戻り、講筵を始める。
1672年(寛文12年) 24
1673年(延宝1年) 25
1674年(延宝2年) 26
1675年(延宝3年) 27
1676年(延宝4年) 28
1677年(延宝5年) 29
1678年(延宝6年) 30
1679年(延宝7年) 31
1680年(延宝8年) 5月8日 32 <4代将軍徳川家綱死去。>
1680年(延宝8年) 8月21日 徳川綱吉、第5代将軍に就任。桂昌院も江戸城に移る>
1681年(天和1年) 33 <桂昌院の帰依で徳川綱吉は亮賢を開山として護国寺を創建。>
1682年(天和2年) 34 醍醐寺に行き、釈迦文院宥雅から事相を伝授される。
1683年(天和3年) 閏5月28日 35 <徳川綱吉の長男の徳松が5歳で死去>
1684年(貞享1年) 12月 36 長谷寺慈心院住職。卓玄の化主晋山にともなう人事。
1684年(貞享1年) 法華経を講じる
1685年(貞享2年) 37
1686年(貞享3年) 3月 38 江戸・知足院住職となる。護国寺亮賢の推薦という。
1686年(貞享3年) 12月1日 権僧正。
1687年(貞享4年) 1月 39 将軍徳川綱吉、子供、病人、牛馬を捨てることを厳しく禁じる(生類憐れみの令の一つでこの頃から厳罰化する)
1688年(元禄1年) 2月15日 40 幕府、知足院の大造営を決める
1688年(元禄1年) 9月5日 隆光の班次を「別異」とする。
1688年(元禄1年) 10月29日 駿河台に屋敷が与えられた(のちの成満院)。
1688年(元禄1年) 11月4日 知足院の大造営が終わる。知足院東照宮の遷座祭が幕府により行われる。
1688年(元禄1年) 11月18日 将軍徳川綱吉が初めて知足院に参詣。
1689年(元禄2年) 41
1690年(元禄3年) 2月15日 42 桂昌院が初めて知足院に参詣
1690年(元禄3年) 12月26日 隆光のとりなしで覚鑁東山天皇から興教大師号下賜が実現。
1691年(元禄4年) 43 隆光のとりなしで鷲宮神社と別当大乗院を復興。
1691年(元禄4年) 6月18日 智積院化主・長谷寺化主と同時に僧正に昇進する。
1691年(元禄4年) 釈迦文院宥雅から伝法灌頂。一流伝授。
1691年(元禄4年) 12月 覚鑁遠忌で伝法大会を営む
1692年(元禄5年) 44 隆光のとりなしで幕府は唐招提寺に修造料、6月、江戸・弥勒寺江戸・真福寺に封戸、江戸・円福寺に三昧料を下す。
1693年(元禄6年) 2月 45 隆光のとりなしで東大寺大勧進の公慶が徳川綱吉に謁見。前年に再建が実現した大仏造立のお礼か。
1693年(元禄6年) 7月26日 乙訓寺を与えられる。臨済宗南禅寺末から真言宗に復帰。1695年(元禄8年)桂昌院の寄進で伽藍復興。
1694年(元禄7年) 46 隆光のとりなしで室生寺を長谷寺末とする。6月に住職任命権が興福寺側から長谷寺側、実質的には隆光の手にわたり、10月に住職空印が退任し、1695年(元禄8年)2月に長谷寺梅心院の快意が就任する。桂昌院の寄進で伽藍復興。1698年(元禄11年)に幕命で正式に興福寺末から護国寺末となる。
1694年(元禄7年) 高野山の尊海から中院一流伝授・瑜伽灌頂。
1695年(元禄8年) 9月18日 47 知足院を護持院と改称。院家、新義僧録大僧正となる。新義派で初の大僧正。
1696年(元禄9年) 48
1697年(元禄10年) 1月 49 今後、1月修正会、5月仁王講、9月最勝講を行うことを許可される。翌年から実施。
1697年(元禄10年) 4月30日 隆光の兄の河辺正成、将軍徳川綱吉に召し出され旗本となる
1697年(元禄10年) 8月4日 護国寺伽藍落慶。隆光が大曼荼羅供を営む。
1697年(元禄10年) 8月28日 護持院に五智堂建立。落慶法要
1697年(元禄10年) 隆光のとりなしで幕府、全国寺社の検知を免除する。
1697年(元禄10年) 隆光のとりなしで幕府、越後の弥彦神社社司に命じて本地堂・真言院を復興させ、社領を割いて寺に与える。
1698年(元禄11年) 50
1698年(元禄11年) 隆光のとりなしで唐招提寺の伽藍を修造。唐招提寺戒壇院を復興。
1699年(元禄12年) 51 隆光のとりなしで桂昌院の寄進により南都新薬師寺を修造。
1700年(元禄13年) 8月 52 将軍の命で桂昌院守護仏の弁財天像を拝領し洲崎吉祥寺(増福院)を創建。洲崎弁財天(洲崎神社)の別当。1702年(元禄15年)とも
1700年(元禄13年) 11月 隆光のとりなしで、水戸藩主徳川光圀の寄進で河内通法寺を復興する。1695年(元禄8年)から始まり、この年完成(『河州通法寺略記』『河内古市郡壺井宮略えんぎ』)。同年、常法談所となる(長谷寺文書)
1701年(元禄14年) 4月4日 53 桂昌院の隅田川お船遊びに快意と共に随行。
1701年(元禄14年) 5月6日 桂昌院の王子権現王子稲荷参詣に随行。
1701年(元禄14年) 9月 嵯峨清凉寺の江戸出開帳で、三の丸御殿で清凉寺住職堯鎮と共に隆光・快意が宿直
1701年(元禄14年) 病気にかかり、幕府から医者が派遣される。
1702年(元禄15年) 54 隆光の取りなしで高尾山薬王院を常法談林所に復帰させる。
1702年(元禄15年) 隆光の取りなしで筑波山神社常陸・中禅寺(知足院の本院)を復興。
1702年(元禄15年) 熱田神宮神宮寺を復興。
1703年(元禄16年) 55
1704年(宝永1年) 56
1705年(宝永2年) 6月 57 護持院を修造
1705年(宝永2年) 6月22日 <将軍徳川綱吉生母の桂昌院が死去。79歳>
1705年(宝永2年) 8月 長谷寺乙訓寺に封戸を寄進。
1705年(宝永2年) 9月 筑波山に参詣
1705年(宝永2年) 12月13日 甥の隆性が清水寺成就院に入り、勅許上人号を得る。
1706年(宝永3年) 58
1707年(宝永4年) 2月 59 根来寺伽藍修造を願い出て許可される。
1707年(宝永4年) 2月 護国寺に転じるのに長谷寺化主15世の亮貞が難色を示し、隆光と対立する。
1707年(宝永4年) 2月25日 護持院住職を快意に譲り、駿河台の成満院に移る。引き続き後見役として権勢を振るう。
1707年(宝永4年) 隆光の取りなしで桂昌院の信仰を得て成田山新勝寺が弥勒寺末から大覚寺門跡直末となり、常法談林所となる。
1708年(宝永5年) 60 将軍徳川綱吉が成満院参詣。
1708年(宝永5年) 『聖無動経慈怒抄』を記す。
1709年(宝永6年) 1月10日 61 <徳川綱吉死去。>
1月22日 綱吉の棺が寛永寺に入る。隆光が供奉する。
1709年(宝永6年) 8月6日 追放。成満院を快意に譲り、大和国に帰ることとなる。筑波山への隠退も模索するが許可されず。
8月23日 江戸を出発。
9月7日 大和に到着し、超昇寺に入る。翌日から唐招提寺東大寺春日大社新薬師寺大和・称名寺興福院秋篠寺西大寺などを巡拝(興福寺は?)。
9月18日 長谷寺参詣。21日には室生寺参詣。23日超昇寺に戻る。
9月30日 上京。宇治で平等院興聖寺などにより清水寺成就院に宿泊。翌日から醍醐寺延暦寺園城寺八坂神社知恩院南禅寺禅林寺真正極楽寺金戒光明寺吉田神社知恩寺妙心寺仁和寺嵯峨清凉寺愛宕神社天龍寺松尾大社乙訓寺山崎観音寺、八幡(離宮八幡宮石清水八幡宮?)、東寺遍照心院などに参詣(智積院は公用が入り中止。大覚寺はなし?)。京都御所も拝見。
10月8日 京都から大阪に到着。大阪天満宮法案寺に参詣。翌日から四天王寺住吉大社、堺妙国寺、河内の通法寺叡福寺、大和に入り当麻寺朝護孫子寺龍田大社など参詣。12日、超昇寺に戻る。
12月 隆光の弟の孫の栄純が弟子となり、超昇寺をつぐ。権大僧都。上人号を賜う。
1710年(宝永7年) 62
1711年(正徳1年) 63
1712年(正徳2年) 64
1713年(正徳3年) 65
1714年(正徳4年) 66
1715年(正徳5年) 67
1716年(享保1年) 68
1717年(享保2年) 1月20日 69 <大火で護持院焼失。のち護国寺に併合され新義僧録は廃絶。>
1718年(享保3年) 70
1719年(享保4年) 71
1720年(享保5年) 72
1721年(享保6年) 73
1722年(享保7年) 74
1723年(享保8年) 75
1724年(享保9年) 6月7日 76 超昇寺で死去。76歳。

一覧


洲崎神社に記念碑がある

画像

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