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江戸・護持院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年2月6日 (土)

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護持院(ごじいん)は、江戸にあった真言宗新義派僧録を務めた徳川家ゆかりの寺院。本尊は不動明王筑波知足院の別院が起源。当初は知足院と称したが、のち護持院と改称した。元禄寺とも。元号寺真言宗新義派江戸触頭(江戸四カ寺)の一つだったが、根生院に譲った。隆光の旧跡。のち焼失して護国寺の子院となった。明治に護国寺に合併。山号は筑波山、元禄山。(参考:同名寺院知足院護持院

目次

歴史

江戸知足院の成立

『知足院由緒并来歴』によると、徳川家康は筑波山は江戸の東北にあたり重視していた。1600年(慶長5年)、家康が長谷寺に祈願した時に願意を成就させた宥俊を取り立て筑波山の知足院を与え朱印地500石を寄進し、祈願所とした。1609年(慶長14年)、弟子の光誉が住職を継いだ。1610年(慶長15年)、光誉は江戸の白銀町(岩井町ともいう)に寺地を与えられ、護摩堂と坊舎を建立。江戸に常駐して江戸城の鎮護の祈願を命じられた。光誉は1614年(慶長19年)と1615年(元和1年)の大坂の陣にも供奉して祈祷した。年代ははっきりしないが、1613年(慶長18年)以前に江戸触頭となったとされる(新義真言宗教団の宗教行政)。1615年(元和1年)以降、城内の安鎮祈祷を命じられ、座敷ごとに札を収めたという。1626年(寛永3年)、徳川家光が造営(江戸名所図会)。1639年(寛永16年)4月7日、幕府は護摩堂造営の費用として1300両を与えた()。1674年(延宝2年)、徳川家綱が伽藍整備()。1674年(延宝2年)から1680年(延宝8年)にかけて3回焼失し、そのたびに幕府によって再建された。1682年(天和2年)12月にも火災で焼失した。1684年(貞享1年)、徳川綱吉は知足院に天下安全の祈祷をさせることとし、周囲が市街地として発展して町家に囲まれるようになり類焼の恐れもあるため、湯島天満宮の後ろに移転させた。のちの根生院の地。

隆光の活躍と大造営

1686年(貞享3年)隆光徳川綱吉の帰依を受け、知足院住職となる。 12月1日、隆光、権僧正。 1688年(元禄1年)2月15日、伽藍造営のため一旦、天樹院邸跡が寺地となるが28日、神田橋外に変更。明石藩主松平直明が造営を担当する。 9月5日、隆光の班次を「別異」とする。11月4日、造営が終わり大伽藍が完成する。東照宮も建て同日戌刻(午後7時~9時)、遷座祭を行う。7日、周辺の邸宅を収公して他所に移転させた。11月18日、知足院東照宮に将軍徳川綱吉が参詣し奉幣。同日、元禄寺の号を与えられたという(天享吾妻鑑)。 10月29日には駿河台に屋敷が与えられた(のちの成満院)。

造営完成直後の11月5日、湯島の旧地を根生院に与えた。前後して根生院は知足院の後を継承して真言宗新義派の江戸触頭となっており、知足院の下、真福寺円福寺弥勒寺根生院智積院長谷寺の両末寺を監督するという体制ができた。

綱吉はたびたび知足院を訪れるが、1689年(元禄2年)閏1月25日には論義を聴聞し、1690年(元禄3年)2月18日には500石加増し1000石となる。 1691年(元禄4年)閏8月22日、幕府、知足院を無本寺とする。 1691年(元禄4年)6月18日、権僧正隆光、智積院・長谷寺と共に正僧正となり、2本山と同格に近い扱いとなる。 1695年(元禄8年)1月25日、綱吉が参詣し500石加増で寺領1500石となる。 9月18日、綱吉が参詣し知足院を護持院と改称し、真言新義僧録院家とし、隆光を大僧正とする(甘露叢)。新義派の僧が大僧正になった初例という(国史大辞典)。 色衣許可を管轄した。 絶頂の中、隆光は1707年(宝永4年)2月25日、護持院を退任し、弟子の快意に譲った。

隆光失脚と護国寺への合併

1709年(宝永6年)1月10日、最大の庇護者である徳川綱吉が死去。隆光は失脚し、8月6日、隠居所の成満院を快意に譲り、大和国に帰郷した。同日護持院は智積院11世の覚眼が継承する。護持院住職は智山豊山の僧が交代で就任することとされた。

1717年(享保2年)1月20日、大火で護持院焼失。 2月9日、護持院を護国寺に合併。 3月14日、護国寺をもって護持院とし、観音堂を護国寺とする。以後、護持院住職が護国寺を兼務することとする。覚眼は退任し、護国寺隆慶が就任する。以後、幕府による修復は取りやめ、両寺あわせて寺領2700石によって伽藍修復もまかなうことと定めた。これには筑波山の知足院も含まれた。また無本寺の扱いは隆慶の退任をもって終えることとされた。 同日、新義僧録停止。今後、色衣許可は仁和寺門跡大覚寺門跡の許可を必要とすることになる。 1724年(享保9年)11月7日、幕府、護持院住職は智山豊山の両派ではなく豊山派から任命することと決める。 1722年(享保7年)12月に一時別立した時もあったが護国寺と護持院は一体となって幕末まで続き、1868年(明治1年)廃絶。 寺地伽藍などは護国寺に併合された。

伽藍

  • 本堂:本尊は不動明王。当初は釈迦如来だったがのちに不動明王となる(江戸名所図会)。造営直後には釈迦堂とも呼ばれている。護持堂とも。
  • 護持院東照宮
  • 千手堂:観音堂
  • 聖天堂:
  • 護摩堂:
  • 大師堂:祖師堂。美濃国大野郡実相院から奉遷した空海自刻の像を祀ったという。
  • 灌頂堂:
  • 五智堂:1697年(元禄10年)7月9日建立(実紀)。
  • 鐘楼堂:
  • 二天門:
  • 書院:
  • 御札座敷:将軍の座所に置く御札を調進する場所だろうか。1710年(宝永7年)春に撤去。

子院

  • 日輪院:役者
  • 月輪院:役者
  • 寿命院:
  • 寿命院:
  • 福寿院:
  • 大聖院:
  • 光明院:
  • 成満院:駿河台にあった。隆光の隠居所。

末寺

  • 東福院:四谷
  • 愛染院:四谷か
  • 長延寺:三田
  • 円法寺:市谷
  • 長福寺:西ケ原
  • 薬王院:落合
  • 延命院:浅草
  • 地蔵院:浅草
  • 医王院:尾張国熱田
  • 不動院:尾張国熱田
  • 愛染院:尾張国熱田

組織

住職

  • 富田学純『新義真言宗史』[1]
  • 住職は権僧正となるを例とした。
世数 生没年 在職年 略歴
1 宥俊 ?-1609 ?-1609 中興1世。長谷寺梅心院の出身。1609年(慶長14年)3月死去。
2 光誉 ?-1624 1609-1624 自坊は長谷寺梅心院(西蔵院とも)。但馬国出身。生年不明。母は徳川秀忠の乳母のおにしという。宥俊の弟子。東寺醍醐寺で学ぶ。おにしの紹介で崇伝と密接な関係を築き、幕府の寺社行政の一旦を担った。特に1616年(元和2年)以降は大きな役割を果たしたという。1610年(慶長15年)、江戸に知足院を建立。1613年(慶長18年)6月17日、駿府で義演から三宝院流を相伝する。1614年(慶長19年)と1615年(元和1年)の大阪の陣に供奉した。1614年(慶長19年)12月16日には本陣で家康に謁見している。1624年(寛永1年)12月19日死去。1625年(寛永2年)4月、仁和寺宮覚深法親王から贈僧正。墓は筑波山にあり五輪塔がある。
3 栄増
4 信全 ?-1652 上品蓮台寺6世。1652年(承応1年)4月死去。
5 賢暁
6 覚永
7 恵円
8 俊盛 1612-1680 1669- 長谷寺10世。1669年(寛文9年)知足院住職。
9 尊如 1622-1684 長谷寺12世。
10 慧賢 1680年(延宝8年)以前に就任。
11 隆光 1649-1724 1686-1707 護持院中興。1686年(貞享3年)知足院住職。1707年(宝永4年)2月25日、護持院を退任。駿河台の成満院に隠退。1709年(宝永6年)8月6日、徳川綱吉の死去で失脚。江戸を去る。
12 快意 ?-1724 1707-1709 自坊は長谷寺梅心院。大和国出身。生年不詳。俗姓は岡村。13歳で金蓮院頼意に師事。快寿のもとで剃髪。1686年(貞享3年)梅心院に住す。1695年(元禄8年)2月、室生寺住職。同年7月、江戸・弥勒寺住職。同年11月、護国寺住職。12月22日、権僧正。1697年(元禄10年)7月僧正。1706年(宝永3年)12月、大僧正。1707年(宝永4年)2月25日、護持院住職。1709年(宝永6年)8月4日、成満院住職。1713年(正徳3年)大和に戻り、法喜寺(法起寺?)に隠退。1724年(享保9年)7月9日死去。俊典。
13 覚眼 1643-1725 1709-1717 江戸・円福寺智積院11世を経て1709年(宝永6年)8月4日、護持院住職。1717年(享保2年)1月の大火で市谷円蔵寺に隠退。護国寺への合併につき1717年(享保2年)3月14日退任。
14 隆慶 1649-1719 1717-1719 江戸・弥勒寺大護院を経て1708年(宝永5年)長谷寺17世に晋山。1715年(正徳5年)護国寺住職。1717年(享保2年)2月9日、護持院が護国寺に移転し合併すると3月14日、護持院住職となり、護国寺も兼務する形となった。1719年(享保4年)2月、隠退。8月6日死去。
15 兼澄 ?-1748 1719-1724 上品蓮台寺16世。出身地・生年不詳。1719年(享保4年)4月、護持院住職。1724年(享保9年)11月隠退。1748年(寛延1年)12月16日死去。
16 恵海 1662-1745 1724?- 長谷寺21世。1720年(享保5年)3月14日、根生院住職。1724年(享保9年)2月16日護国寺住職。ついで護持院住職。権僧正。1730年(享保15年)長谷寺化主。
17 主真 ?-1735 1730- 出身地・生年不詳。長谷寺で学ぶ。近江・総持寺住職。1730年(享保15年)護持院住職。1735年(享保20年)閏3月14日死去。昌春。
18 覚音 近江総持寺を経て護持院住職。
19 龍岳
20 圭賢 1669-1749 ?-1740 長谷寺23世。1734年(享保19年)5月5日、護国寺住職。ついで護持院住職。1740年(元文5年)在職。同年権僧正。
21 信恕 1682-1760 1740- 長谷寺24世。1740年(元文5年)9月21日護持院住職(仏家)。1746年(延享3年)長谷寺化主。
22 憲清 ?-1749 ?-1749 1749年(寛延2年)4月11日死去。その死後、後任をめぐって騒動となる。
23 光星 1750- 1750年(寛延3年)11月、護持院住職。同年権僧正。
24 恵山 大護院住職。1766年(明和3年)在職。以下末代まで護国寺兼務。
25 有慶 1709-1775 1772-1773 長谷寺28世。1766年(明和3年)12月24日、根生院住職。1772年(安永1年)10月27日、護持院住職。権僧正。1773年(安永2年)6月29日、長谷寺化主。
26 懐玄 ?-1790 1773- 長谷寺31世。1767年(明和4年)弥勒寺住職。1773年(安永2年)護持院住職。1785年(天明5年)長谷寺化主。1790年(寛政2年)死去。
27 観算
28 恵翁
29 儀貞 1732-1802 ?-1796 長谷寺33世。1796年(寛政8年)10月7日長谷寺化主に転任。
30 実自 1796- 1796年(寛政8年)護持院住職。
31 信応 ?-1800 1797-1800 弥勒寺33世。出身地・生年不詳。長谷寺で学ぶ。玉蔵院、弥勒寺を経て1797年(寛政9年)4月5日護持院住職。1800年(寛政12年)10月2日隠退。同年12月29日死去。
32 元栄 ?-1802 1800-1802 長谷寺34世。1789年(寛政1年)近江総持寺、1797年(寛政9年)弥勒寺、1800年(寛政12年)護持院を経て1802年(享和2年)長谷寺化主。しかし入山を前に護持院で死去。
33 盛尊 ?-1804 1802-1803 長谷寺36世。千葉妙見寺、1801年(享和1年)3月弥勒寺、1802年(享和2年)9月護持院住職。10月権僧正。1803年(享和3年)長谷寺化主。1804年(文化1年)死去。
34 高隆 1737-1808 ?-1804 長谷寺37世。長谷寺月輪院、1796年(寛政8年)武蔵・総持寺、1803年(享和3年)1月弥勒寺、同年7月護持院を経て1804年(文化1年)長谷寺化主。
35 賢慶 1804- 佐渡出身。近江総持寺、1803年(享和3年)9月弥勒寺住職を経て1804年(文化1年)9月7日護持院住職。
36 通弁
37 祐澄 1818- 根生院を経て1818年(文政1年)10月2日護持院
38 令法 ?-1827 1819- 長谷寺41世。岡寺真珠院、1819年(文政2年)護持院を経て1826年(文政9年)長谷寺化主。
39 秀陽
40 栄性 1768-1837 1833-1837 信濃国出身。1768年(明和5年)生。俗姓は浦沢。長谷寺で蓮阿に師事。1814年(文化11年)根来寺中興4世。1833年(天保4年)10月4日、護持院住職に就任(仏家)。1837年(天保8年)10月13日死去。70歳。著書『即身義決断』。
41 真淳
42 信恵 1776-1846 1845-1846 長谷寺46世。1826年(文政9年)三保谷弘徳寺、1838年(天保9年)根生院、1845年(弘化2年)護持院、1846年(弘化3年)長谷寺化主。同年死去。
43 法信 1846- 弥勒寺を経て1846年(弘化3年)護持院。
44 長盛
45 通済 1788-1872 長谷寺49世。三保谷弘徳寺、1849年(嘉永2年)根生院、護持院、1850年(嘉永3年)長谷寺化主。
46 宥観 ?-1866 長谷寺50世。1860年(万延1年)在職。「宥歓」。
47 快照 弥勒寺を経て護持院
48 実盈 1867- 大護院を経て1867年(慶応3年)護持院。
49 隆盛 1801-1872 長谷寺52世。1868年(明治1年)長谷寺化主。

資料

  • 「知足院御普請御手伝日記」:明石藩
  • 「知足院由緒并来歴」[2]
  • 「筑波山流記」:1590年(天正18年)4月
  • 「密宗血脈集」:室町時代の住持の名がある
  • 「常陸国筑波山縁起」:隆光
  • 「常陸国筑波山縁起」:甚仙。雑司谷神齢居右
  • 「護国寺文書」:
  • 「筑波山知足院改護持院世代記」:豊山全書5
  • 「筑波山知足院縁由」[3]:豊山伝通記
  • 「護持院由緒書」:長谷寺文書
  • 「護持院由緒覚」:護持院日記1765年(明和2年)9月24日条
  • 「筑波山護持院代々之事」:雑司谷神齢居右
  • 「筑波山護持院年中行事付臨時雑記」
  • 「護持院日記抄」[4]
  • 「護持院護国寺」[5]:明治初年の地図
  • 『東京市史稿』「護持院護国寺」[6]
  • 守山聖眞1935「根生院周海と弥勒寺栄慶の護持院後董の争に就て」『密教論叢』
  • 林亮勝1968「護持院隆光について」『仏教史研究』3
  • 林亮勝1991「菩提寺と祈祷寺」『儒仏道三教思想論攷』
  • 林亮勝1998「護持院隆光:将軍政治と祈祷僧の役割」『大正大学研究論叢』6
  • 林亮勝・坂本正仁1988『護国寺史』
  • 坂本正仁1970「『護国寺日記』について」『豊山学報』14・15合併号
  • 坂本正仁1974「将軍家祈祷寺としての護国寺について」『豊山教学大会紀要』2
  • 坂本正仁1974「真言宗新義派護持院僧録について:特に隆光代を中心として」『仏教史研究』8
  • 坂本正仁1976「護持院の護国寺兼帯:享保~宝暦期真言宗新義派の一側面」『豊山教学大会紀要』4
  • 坂本正仁1976「近世初期の知足院」[7]
  • 坂本正仁1976「護持院縁起世代記の検討」『豊山学報』21
  • 坂本正仁1977「近世御祈祷寺の様相:特に護持院を中心に」『仏教と儀礼』
  • 坂本正仁1981「近世初期真言宗新義派と知足院光誉」『大乗仏教から密教へ』
  • 坂本正仁2008「護国寺所蔵『護国寺日記』『護持院日記』について」『社寺史料研究』
  • 坂本正仁・櫛田良道2007「筑波山護持院「年中行事付臨時雑記」:将軍家祈祷の実態(上)」『豊山学報』50
  • 坂本正仁・櫛田良道2008「筑波山護持院「年中行事付臨時雑記」:将軍家祈祷の実態(中)」『豊山学報』51
  • 坂本正仁・櫛田良道2009「筑波山護持院「年中行事付臨時雑記」:将軍家祈祷の実態(下)」『豊山学報』52
  • 玉橋隆寛1973「将軍綱吉の死去と隆光」『豊山教学大会紀要』1
  • 玉橋隆寛1973「享保期における新義真言宗について:特に護持院焼亡による再編を中心に」『豊山学報』17・18合併号
  • 櫛田良道2006「享保期以降の護持院における将軍家祈祷:護国寺所蔵「御祈祷標目」を素材として」『大正大学大学院研究論集』30
  • 櫛田良道2010「近世における将軍家祈祷寺の研究:護持院を中心として」(要旨)[8]
  • 櫛田良道2010「近世後期における将軍家祈祷寺:護持院の山内機構を中心に」[9]
  • 櫛田良道2010「近世における将軍家祈祷寺:護持院と寛永寺の職掌に関する一考察」『密教学研究』42
  • 櫛田良道2010「護持院と覚樹王院:近世後期における将軍家祈祷寺をめぐって」『鴨台史学』10
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%BB%E8%AD%B7%E6%8C%81%E9%99%A2」より作成

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