世数
| 名
| 生没年
| 在職年
| 略歴
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1
| 亮賢
| 1611-1687
| 1681-1685
| 上野国甘楽郡小野村出身。俗姓は須藤。1611年(慶長16年)生。得成寺で出家。長谷寺に掛錫。得成寺住職、高崎大聖護国寺住職。卜占に通じ、桂昌院に天下を治める男子の懐妊を告げて、その通りになったので桂昌院の帰依を得た。1681年(天和1年)、桂昌院に招かれ護国寺の開山となった。1685年(貞享2年)春に隠居。1687年(貞享4年)3月7日死去。77歳。1691年(元禄4年)6月25日、権僧正追贈[14]。
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2
| 賢広
| 1637-1697
| 1685-1695
| 1637年(寛永14年)生[15]。1685年(貞享2年)春、護国寺住職[16]。12月香衣許可[17]。1689年(元禄2年)11月22日、江戸城三の丸で安鎮法を修す[18]。1691年(元禄4年)6月25日、権僧正[19]。1695年(元禄8年)10月21日、正僧正[20]。11月28日隠居[21]。1697年(元禄10年)5月3日死去[22]。
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3
| 快意
| ?-1724
| 1695-1707
| 弥勒寺11世。護持院12世。自坊は長谷寺梅心院。室生寺住職、弥勒寺住職を経て1695年(元禄8年)11月28日護国寺住職[23]。12月22日、権僧正。1697年(元禄10年)7月僧正。1705年(宝永2年)6月10日、仁和寺直院家となる[24]。1706年(宝永3年)12月11日、大僧正。1707年(宝永4年)2月25日、護持院住職。(略歴は護持院#組織を参照)
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4
| 亮貞
| 1648-1719
| 1707-1708
| 長谷寺化主15世。弥勒寺12世。長谷寺化主を経て1707年(宝永4年)2月27日に護国寺住職となり大僧正[25]。これは護持院隆光の権勢による人事で、亮貞は下位の寺院に下ることに抵抗していた。1708年(宝永5年)閏1月隠居[26]。(略歴は長谷寺#組織を参照)
|
5
| 尊祐
| 1645-1717
| 1708-1714
| 長谷寺化主16世。長谷寺化主を経て1708年(宝永5年)2月28日護国寺住職[27]。1709年(宝永6年)1月10日に将軍徳川綱吉が死去し以後幕府の庇護が弱まる。1714年(正徳4年)9月3日、幕府から「遠慮」を命じられる[28]。(略歴は長谷寺#組織を参照)
|
6
| 隆慶
| 1649-1719
| 1715-1719
| 長谷寺化主17世。護持院14世。弥勒寺13世。長谷寺化主を経て1715年(正徳5年)冬、護国寺住職[29]。1717年(享保2年)1月護持院焼失。2月9日、護持院が護国寺に移転し合併すると3月14日、護持院住職となり、護国寺も兼務する形となった。1719年(享保4年)2月、隠退。同年死去。(略歴は長谷寺#組織を参照)
|
7
| 兼澄
| ?-1748
| 1719-1722
| 護持院15世。上品蓮台寺16世。上品蓮台寺を経て1719年(享保4年)4月16日、護持院住職。護国寺住職を兼ねる[30]。1722年(享保7年)12月5日、護国寺住職を弥勒寺尚彦に譲る[31]。1724年(享保9年)11月6日、護持院住職を隠退。1748年(寛延1年)死去。
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8
| 尚彦
| 1666-1736
| 1722-1724
| 長谷寺化主20世。弥勒寺15世。弥勒寺を経て1722年(享保7年)12月5日、護国寺住職[32]。1724年(享保9年)長谷寺化主。(略歴は長谷寺#組織を参照)
|
9
| 恵海
| 1662-1745
| 1724-1724
| 長谷寺化主21世。護持院16世。根生院を経て1724年(享保9年)2月16日護国寺住職[33]。11月7日、護持院住職。権僧正。1730年(享保15年)長谷寺化主。(略歴は長谷寺#組織を参照)
|
10
| 主真
| ?-1735
| 1724-1730
| 護持院17世。近江・総持寺26世。総持寺を経て1724年(享保9年)12月、護国寺住職[34]。1730年(享保15年)3月30日、護持院住職[35]。
|
11
| 恵任
| 1665-1742
| 1730-1734
| 長谷寺22世。弥勒寺16世。宝仙寺29世。1665年(寛文5年)生。1678年(延宝6年)天満宝珠院で剃髪。1680年(延宝8年)8月、長谷寺西蔵院の頼雅に随従。1710年(宝永7年)5月、長谷寺喜多坊に住す。1715年(正徳5年)7月29日、宝仙寺住職[36]。1722年(享保7年)12月、弥勒寺住職[37]。1730年(享保15年)4月11日、護国寺住職[38]。1734年(享保19年)9月16日、長谷寺化主[39]。1740年(元文5年)9月14日、引退[40]。
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12
| 圭賢
| 1669-1749
| 1734-1740
| 長谷寺化主23世。護持院20世。1734年(享保19年)10月(5月とも)5日、護国寺住職[41]。1740年(元文5年)3月12日、護持院住職[42]。1740年(元文5年)9月14日、長谷寺化主[43]。(略歴は長谷寺#組織を参照)
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13
| 信恕
| 1682-1760
| 1740-1740
| 長谷寺化主24世。護持院21世。弥勒寺19世。1740年(元文5年)4月14日護国寺住職[44]。9月22日護持院住職[45]。1746年(延享3年)長谷寺化主。(略歴は長谷寺#組織を参照)
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14
| 宗纂
| ?-1744
| 1740?-1744
| 弥勒寺20世。長谷寺金蓮院[46]、松井田不動寺を経て1740年(元文5年)5月12日、弥勒寺住職[47]。護国寺就任の記録は確認できないが、信恕が護持院に転じた同年9月22日から光星が弥勒寺住職となった12月28日までの間に護国寺住職になったと推定できる。1744年(延享1年)1月25日、在職で死去[48]。
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15
| 光星
| 1689-1775
| ?-1750
| 弥勒寺21世。護持院23世。玉蔵院14世。1689年(元禄2年)生(享年より計算)。市ケ谷東円寺を経て1723年(享保8年)12月15日、玉蔵院住職。1740年(元文5年)12月28日、弥勒寺住職[49]。護国寺住職の就任年は不詳[50]。1750年(寛延3年)11月6日、護持院住職[51]。同年権僧正。1758年(宝暦8年)10月3日、護国寺は護持院の永兼帯となり護国寺住職に再任[52]。1765年(明和2年)3月5日、隠居[53]。1766年(明和3年)3月、隠居所として成満院を創建。1775年(安永4年)閏12月6日死去[54]。87歳[55]。
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16
| 能勝
| ?-1757
| 1750-1757
| 弥勒寺24世。宝仙寺34世。上総・東福寺住職[56]、宝仙寺を経て1748年(寛延1年)12月28日、弥勒寺住職。1751年(宝暦1年)1月19日、護国寺住職[57]。1757年(宝暦7年)5月27日死去[58]。能祥。賢真房。
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世数
| 名
| 生没年
| 在職年
| 略歴
|
24<17>
| 恵山
| ?-1772
| 1766-1772
| 中島金剛院を経て1764年(明和1年)9月6日、大護院住職[59]。1766年(明和3年)3月29日、護持院住職(護国寺兼務)[60]。1772年(安永1年)8月引退。10月10日死去[61]。
|
25<18>
| 有慶
| 1709-1775
| 1772-1773
| 長谷寺28世。1751年(宝暦1年)菅明院住職[62]。1758年(宝暦8年)10月16日、近江北野寺住職[63]。1766年(明和3年)12月24日、根生院住職[64]。1772年(安永1年)10月27日、護持院住職[65]。権僧正。1773年(安永2年)6月29日、長谷寺化主[66]。
|
26<19>
| 懐玄
| ?-1790
| 1773-1785
| 長谷寺31世。長谷寺月輪院を経て1760年(宝暦10年)11月4日、千葉妙見寺住職[67]。1767年(明和4年)弥勒寺住職。1773年(安永2年)8月24日護持院住職[68]。9月24日権僧正。1785年(天明5年)5月7日、長谷寺化主[69]。1786年(天明6年)4月28日、正僧正[70]。1790年(寛政2年)6月11日、近江総持寺訴訟一件につき寺社奉行から逼塞を命じられる。7月11日、逼塞赦免[71]。11月29日死去[72]。高算房。
|
27<20>
| 観算
| ?-1788
| 1785-1788
| 長谷寺慈心院を経て1770年(明和7年)4月16日、松井田不動寺住職[73]。1783年(天明3年)9月30日、根生院住職[74]。1785年(天明5年)6月19日、護持院住職[75]。1788年(天明8年)12月26日隠居。28日死去[76]。
|
28<21>
| 恵翁
| ?-1796
| 1789-1796
| 弥勒寺を経て1789年(寛政1年)3月4日、護持院住職[77]。4月19日権僧正。1796年(寛政8年)1月6日、正月年礼に際、江戸城中で急病を発して下城[78]。11日隠居。12日死去。
|
29<22>
| 儀貞
| 1732-1802
| 1796-1796
| 長谷寺33世。室生寺10世。長谷寺の雲井院、梅心院、室生寺、根生院を経て1796年(寛政8年)4月16日、護持院住職。権僧正。同年10月7日長谷寺化主。(略歴は室生寺#組織を参照)
|
30<23>
| 実自
| ?-1797
| 1796-1797
| 乙訓寺を経て1796年(寛政8年)7月30日、根生院住職[79]。11月12日、護持院住職[80]。1797年(寛政9年)1月28日死去[81]。
|
31<24>
| 信応
| ?-1800
| 1797-1800
| 弥勒寺33世。出身地・生年不詳。長谷寺で学ぶ。長谷寺本願院を経て1783年(天明3年)11月3日玉蔵院住職。1793年(寛政5年)5月26日、弥勒寺住職[82]。1797年(寛政9年)4月5日護持院住職[83]。5月1日権僧正。1800年(寛政12年)11月2日隠退[84]。同年12月29日死去。
|
32<25>
| 元栄
| ?-1802
| 1800-1802
| 長谷寺34世。長谷寺梅心院を経て1789年(寛政1年)2月近江総持寺住職。1797年(寛政9年)9月26日弥勒寺住職[85]。1800年(寛政12年)12月21日、護持院住職[86]。1802年(享和2年)5月10日長谷寺化主[87]。しかし入山を前に護持院で6月13日死去。
|
33<26>
| 盛尊
| ?-1804
| 1802-1803
| 長谷寺36世。千葉妙見寺を経て1801年(享和1年)3月10日弥勒寺住職[88]。1802年(享和2年)9月11日、護持院住職[89]。10月6日権僧正。1803年(享和3年)5月6日、長谷寺化主[90]。1804年(文化1年)5月9日死去。
|
34<27>
| 高隆
| 1737-1808
| ?-1804
| 長谷寺37世。長谷寺月輪院、1796年(寛政8年)武蔵・総持寺住職。1799年(寛政11年)、総持寺の什物・祠堂金の高隆の扱いをめぐって末寺が根生院に訴え、12月12日、根生院から長谷寺に通知する[91]。
1803年(享和3年)1月16日、弥勒寺住職[92]。同年7月11日護持院住職[93]。8月18日権僧正。1804年(文化1年)7月10日、長谷寺化主[94]。1808年(文化5年)7月15日死去[95]。
|
35<28>
| 賢慶
| ?-1811
| 1804-1811
| 佐渡出身。長谷寺菩提院を経て、1798年(寛政10年)2月17日近江総持寺住職[96]。、1803年(享和3年)10月10日、弥勒寺住職[97]。1804年(文化1年)9月7日護持院住職[98]。権僧正。1811年(文化8年)12月23日引退[99]。25日死去。
|
36<29>
| 通弁
| ?-1818
| 1812-1818
| 長谷寺慈眼院を経て1803年(享和3年)8月3日平須賀宝聖寺住職[100]。1812年(文化9年)5月10日護持院住職[101]。1818年(文政1年)8月4日引退[102]。6日死去。智蔵房。
|
37<30>
| 祐澄
| ?-1818
| 1818-1818
| 1805年(文化2年)6月4日、千葉妙見寺住職[103]。1812年(文化9年)9月30日、根生院住職[104]。1818年(文政1年)10月2日護持院[105]。11月8日権僧正。12月8日引退。9日死去。本浄房。
|
38<31>
| 令法
| ?-1827
| 1819-1826
| 長谷寺41世。岡寺真珠院を経て1819年(文政2年)6月18日、護持院住職。1826年(文政9年)4月2日長谷寺化主[106]。1827年(文政10年)10月30日死去[107]。権僧正。
|
39<32>
| 秀陽
| ?-1833
| 1826-1833
| 長谷寺慈眼院を経て1812年(文化9年)10月16日、千葉妙見寺住職[108]。1826年(文政9年)6月17日、護持院住職[109]。1832年(天保3年)2月29日、宝仙寺教任と薬王寺秀乗から寺内不取締を訴えられる[110]。5月10日、長谷寺から護持院へ使僧が派遣される。6月24日、長谷寺は護持院役者と護国寺院代を任命。1833年(天保4年)5月16日、正月献上の札など不都合につき護持院院代が寺社奉行所に召喚される。6月24日、引退。27日死去。勝憧房。
|
40<33>
| 栄性
| 1768-1837
| 1833-1837
| 根来寺中興4世。信濃国出身。1768年(明和5年)生。俗姓は浦沢。長谷寺で蓮阿に師事。1814年(文化11年)根来寺中興4世。根来寺蓮華院。1833年(天保4年)10月4日、護持院住職[111]。1837年(天保8年)10月27日、田端与楽寺に引退[112]。11月15日死去(10月13日とも)。70歳。著書『即身義決断』。
|
41<34>
| 真淳
| ?-1850
| 1838-1844
| 長谷寺金蓮院を経て1820年(文政3年)3月23日、宝仙寺住職[113]。1831年(天保2年)5月2日、根生院住職[114]。1837年(天保8年)9月、本山貸付金の督促を受ける。1838年(天保9年)1月19日護持院住職[115]。1844年(弘化1年)12月26日引退[116]。1850年(嘉永3年)10月13日死去[117]。翌年、高野山大塔再建のため500両を寄進(遺言によるものか)[118]。真諄。仙岳房。
|
42<35>
| 信恵
| 1776-1846
| 1845-1846
| 長谷寺46世。1792年(寛政4年)玉蔵院信応のもとで出家。長谷寺梅心院を経て1826年(文政9年)7月16日、三保谷広徳寺住職[119]。1838年(天保9年)4月20日、根生院住職[120]。1845年(弘化2年)3月18日、護持院住職[121]。5月8日権僧正。1846年(弘化3年)閏5月25日、長谷寺化主。7月24日、入山前に護持院で死去。信慧。悟心房。
|
43<36>
| 法信
| ?-1848
| 1846-1848
| 長谷寺月輪院を経て1830年(天保1年)10月6日松井田不動寺住職。1841年(天保12年)5月7日、弥勒寺住職[122]。1846年(弘化3年)8月6日護持院住職[123]。12日晋山。1848年(嘉永1年)8月10日死去[124]。
|
44<37>
| 長盛
| ?-1855
| 1848-1855
| 長谷寺慈心院を経て1831年(天保2年)2月8日、箕田龍珠院住職。12月16日、宝仙寺教任から長谷寺一臈の時の不正を訴えられる[125]。1847年(弘化4年)4月24日、根生院住職[126]。1848年(嘉永1年)11月6日、護持院住職[127]。1855年(安政2年)2月6日死去[128]。
|
45<38>
| 通済
| 1788-1872
| 1855-1856
| 長谷寺49世。長谷寺月輪院を経て1838年(天保9年)閏4月11日、三保谷広徳寺住職。1849年(嘉永2年)2月29日根生院住職[129]。1855年(安政2年)5月2日、護持院住職[130]。1856年(安政3年)12月29日、長谷寺化主[131]。翌年3月17日晋山。1862年(文久2年)12月19日、引退[132]。1872年(明治5年)10月18日死去[133]。最勝房
|
46<39>
| 宥観
| ?-1866
| 1857-1863
| 長谷寺50世。長谷寺雲井坊を経て1839年(天保10年)2月29日、千葉妙見寺住職。1852年(嘉永5年)2月23日、弥勒寺住職[134]。1857年(安政4年)5月12日、護持院住職[135]。1863年(文久3年)4月14日、長谷寺化主[136]。9月9日、転任の延期を出願。1866年(慶応2年)4月21日死去[137]。権僧正。宥歓。周宣房。
|
47<40>
| 快照
| 生没年不詳
| 1863-1866
| 市ケ谷薬王寺住職を経て1857年(安政4年)6月10日、弥勒寺住職[138]。1863年(文久3年)8月5日護持院住職[139]。10月9日権僧正。1866年(慶応2年)11月13日引退[140]。林暁房。
|
48<41>
| 実盈
| ?-1867
| 1867-1867
| 慈眼院を経て1843年(天保14年)5月26日、北野寺住職。1858年(安政5年)1月16日、大護院住職[141]。1867年(慶応3年)2月28日、護持院住職[142]。3月29日権僧正。5月8日死去。覚応房。
|
49<42>
| 隆盛
| 1801-1872
| 1867-1868
| 長谷寺52世。箕田龍珠院住職を経て1863年(文久3年)11月9日弥勒寺住職[143]。1867年(慶応3年)9月29日護持院住職[144]。11月24日権僧正。1868年(明治1年)2月21日、長谷寺化主[145]。7月4日、江戸4寺の触頭廃止などを達す[146]。9月29日晋山。6月5日、権僧正の宣旨[147]。1872年(明治5年)4月28日教導職権少教正。6月13日大教正。11月8日死去。精真房。
|
世数
| 名
| 生没年
| 在職年
| 略歴
|
43
| 直樹俊海
| 1801-1883
| 1869-1883
| 自坊は長谷寺慈眼院。武蔵国埼玉郡出身。俗姓は野中。1801年(享和1年)生。16歳で長谷寺に学ぶ。慈眼院に住す。1849年(嘉永2年)三保谷応徳寺住職。1867年(慶応3年)幕命で湯島根生院住職。1868年(明治1年)2月、護持院住職。1869年(明治2年)5月25日、護国寺住職[148]。大僧都。教導職権少教正。1883年(明治16年)6月7日死去。83歳。字は秀学。
|
44
| 高志大了
| 1834-1898
| 1883-1898
| 長谷寺化主55世。1883年(明治16年)8月護国寺貫首[149][150]。1891年(明治24年)1月22日長谷寺化主。1893年(明治26年)6月16日、根来寺座主。1898年(明治31年)8月25日死去。
|
45
| 高城義海
| 1836-1911
| 1898-1911
| 長谷寺化主61世。初代宗務長。自坊は松戸大乗院。1898年(明治31年)9月19日、護国寺住職[151]。1900年(明治33年)9月15日、豊山派の独立に際して初代宗務長に就任[152]。1902年(明治35年)4月22日、室生寺兼務住職を退任[153]。1903年(明治36年)2月21日、宗務長再任[154]。1911年(明治44年)3月31日、豊山派管長(長谷寺化主も?)。5月11日死去。護国寺境内に「義海和尚咸恩碑」がある。護国寺を管長兼務の寺とするように遺言を残したが守られず、しばら混乱を招いたという[155]。
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46
| 沢田秀元
| 1864-1914
| 1911-1914
| 自坊は自性院。1864年(元治1年)生。1906年(明治39年)1月19日[156](28日[157])から1910年(明治43年)3月15日[158](2月25日[159])まで豊山中学校校長。1911年(明治44年)護国寺住職[160]。1914年(大正3年)3月1日死去[161]。
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47
| 永見快賢
| 1856-1924
| 1914-?
| 栃木県豊田村出身。1856年(安政3年)生(1855年(安政2年)とも[162])。栃木県大宮村如意輪寺住職。1900年(明治33年)11月、菩提院結衆[163]。1903年(明治36年)3月23日、宗派課長[164]。1906年(明治39年)3月2日、宗派課長[165]。1907年(明治40年)9月9日、宝仙寺住職[166]。1910年(明治43年)9月集議[167]。1914年(大正3年)5月9日護国寺住職[168]。退職年は不詳。1919年(大正8年)4月5日、集議を辞任[169]。1924年(大正13年)10月31日死去[170]。
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48
| 早川快亮
| 1849-1923
| 1918-1921
| 長谷寺化主63世。1916年(大正5年)1月15日、豊山派管長・長谷寺化主。1916年(大正5年)12月10日、根来寺座主。1918年(大正7年)11月29日、護国寺の「臨時兼住職」となる[171]。1921年(大正10年)10月、護国寺兼住職を退任[172]。
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49
| 小野方良行
| 1852-1932
| 1921-1932
| 武蔵国忍城下出身。父は勝山藤五郎。1852年(嘉永5年)生。1860年(万延1年)愛宕円福寺興阿に師事。1863年(文久3年)檀林金剛院で寂如に師事。1866年(慶応2年)邑楽宝寿寺で得度。1869年(明治2年)9月、新里地蔵樹住職。12月、長谷寺に掛錫。1870年(明治3年)受法。1874年(明治7年)4月、教導職試補。10月、栃木県中教院入学。1876年(明治9年)2月、遍照寺住職。1877年(明治10年)12月、護国寺豊山東校に入学。1879年(明治12年)2月、訓導。4月、新義派大教院の教導周旋係。1880年(明治13年)5月、権少講義。1886年(明治19年)権少僧都。1896年(明治29年)権大僧都。1903年(明治36年)館林宗務支所長、五等司教、豊山理事。1906年(明治39年)権少僧正。1908年(明治41年)12月総持寺住職。1912年(大正1年)遍照寺住職に再任。邑楽仏教各宗協和会長。1916年(大正5年)7月、集議。1921年(大正10年)11月20日、護国寺住職[173]。12月1日初入山。1922年(大正11年)後七日御修法に奉仕。1924年(大正13年)薬王寺住職兼務。1925年(大正14年)9月24日、権大僧正。1928年(昭和3年)6月7日、青山会館での日本宗教大会に出席。1932年(昭和7年)8月14日死去[174]。号は阪川。著書『阪川存稿』[175]、年譜[176]
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50
| 佐々木教純
| 1875-1950
| 1932-1950
| 豊山派宗務長。1875年(明治8年)生。1932年(昭和7年)、護国寺貫首。11月13日晋山式[177]。1950年(昭和25年)10月16日死去。51世とも。
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51
| 岡本教海
| 1894-1969
| 1950-1969
| 奈良県吉野郡出身[]。1894年(明治27年)生[178]。新宿多聞院で出家。1918年(大正7年)豊山大学卒。篠山70連隊に入営。軍曹となり除隊。1921年(大正10年)10月志村長徳寺住職。1923年(大正12年)護国寺院代。執事長を経て1950年(昭和25年)10月護国寺貫首。音羽洋裁学院長。豊山学園理事。専修学林長。11月17日、晋山式。著書「私の修業時代」[179]。1969年(昭和44年)10月16日死去[180]。75歳。
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52
| 小林良弘
| 1902-1997
| 1969-1993
| 1902年(明治35年)生[181]。1922年(大正11年)茨城延命寺住職。1924年(大正13年)豊山大学卒。1950年(昭和25年)護国寺執事。執事長。1955年(昭和30年)茨城南円寺住職。1969年(昭和44年)護国寺貫首[182]。同年大僧正。1973年(昭和48年)集議[183]。1993年(平成5年)高齢のため退任[184]。1997年(平成9年)1月29日死去[185]。95歳。
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53
| 岡本永司
| 1927-2019
| 1993-2019
| 岡本教海の長男。1927年(昭和2年)生。1950年(昭和25年)大正大学文学部宗教学科卒。同年板橋長徳寺住職。1969年(昭和44年)護国寺執事。1993年(平成5年)護国寺貫首。10月大僧正。11月1日晋山式[186]。2019年(令和1年)10月28日死去。91歳。東京都第1号宗務支所長、東京都第1号宗務支所教区長、宗派宗会議長、総本山長谷寺顧問、豊山派宗機顧問、東京都仏教連合会会長など歴任。菩提院結衆。
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54
| 小林大康
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| 2020-
| 小林良弘の長男。南円寺住職。護国寺執事長を経て、2020年(令和2年)1月24日、護国寺貫首。
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