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仁和寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年4月15日 (金)

仁和寺門跡から転送)
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仁和寺中心部(国土地理院空中写真より)

仁和寺(にんなじ)は京都府京都市右京区にある真言宗本山寺院。本尊は阿弥陀如来真言宗御室派総本山。皇室ゆかりの門跡寺院の筆頭を自認する。官寺二十五大寺の一つ。元号寺光孝天皇の発願で始まり、宇多天皇が完成させ、出家した宇多法皇の御所となった。初期は天台宗だった時期もある。覚性法親王が任命されて以降、仏教界の最高職とされた総法務を務める慣例があった。かつては現在より遥かに広い寺地に多くの子院や伽藍があり、四円寺などがあった。光孝天皇陵宇多天皇陵御室陵墓参考地仁和寺宮墓地も近くにある。御室流華道の総司庁が置かれている。山号は大内山西山御願寺御室御所御室とも呼ばれる。 仁和寺関連旧跡も参照。

目次

歴史

伽藍

仁和寺周辺(国土地理院空中写真より)
現在の双ケ丘・妙心寺・龍安寺一帯が仁和寺の領地だった。(国土地理院空中写真より)
仁和寺本坊(国土地理院空中写真より)
  • 金堂:本尊は阿弥陀三尊。他に四天王像、梵天像、光孝天皇像などを祀る。現在の金堂は、慶長年間造営の紫宸殿を移築改造して仏堂としたもの。1641年3月頃に移築され、1646年11月1日に真光院から阿弥陀三尊を遷座。1647年2月7日、開眼法要が営まれた。
  • 御影堂:本尊は空海宇多法皇、性信親王。現在の堂は慶長年間造営の清涼殿の一部を移築して寛永年間に建てた。
  • 九所明神:祭神は本殿の八幡三神、左殿の賀茂上下明神、日吉、武答、稲荷、右殿の松尾、平野、小日吉、木野島。1212年以前の創建。現在の社殿は寛永年間の造営。
  • 五重塔:本尊は大日如来など。1644年の建立。
  • 観音堂:本尊は千手観音不動明王降三世明王を脇侍とする。二十八部衆も祀る。
  • 経蔵:本尊は釈迦如来など。
  • 鐘楼
  • 令和阿弥陀堂
  • 大黒堂
  • 水掛不動:
  • 仁王門:二王門とも。
  • 霊明殿:本尊は薬師如来。1911年の建立。設計は亀岡末吉。
  • 宸殿:
  • 御室八十八カ所霊場:四国霊場の写し。
  • 済信塚:済信を偲ぶ塚。
  • 金剛華菩薩:1981年造立。
  • 福王子神社
  • 花園今宮神社
  • 念誦堂:1887年の火災で焼失した御殿に付属。

組織

住職

  • 総法務を兼務した。
  • 住職の号として「門跡」を用いる(門跡は寺を指すこともある)。
  • 「仁和寺歴代譜」[1]、『望月仏教大辞典』、「仁和寺」『諸門跡承伝系図』[2]ほか。
仁和寺門跡の歴代門跡一覧(前近代)
世数 生没年 在職年 略歴
1 宇多法皇 867-931 899-931 第59代天皇。光孝天皇第三皇子。母は班子女王。884年(元慶8年)臣籍降下して源定省と称したが、887年(仁和3年)に皇族に復帰し、皇太子となり、即位。菅原道真を重用した。父の遺志を継いで888年(仁和4年)仁和寺を造営。897年(寛平9年)に醍醐天皇に譲位。899年(昌泰2年)出家して法皇となり、仁和寺1世となる。空理と称し、のち金剛覚と称した。931年(承平1年)7月19日、仁和寺で崩御。仁和寺の裏山に宇多天皇陵がある。亭子院帝、寛平法皇とも呼ばれる。
(寛空) 884-972 884年(元慶8年)生。952年(天暦6年)8月14日、仁和寺別当。972年(天禄3年)2月6日死去。89歳。
(寛朝) 916-998 916年(延喜16年)生。967年(康保4年)6月16日、仁和寺別当。998年(長徳4年)死去。
(済信) 954-1030 954年(天暦8年)生。仁和寺北院に入る。1030年(長元3年)死去。
2 性信法親王 1005-1085 三条天皇の第四皇子。1005年(寛弘2年)生。1011年(寛弘8年)10月5日、親王宣下をうけ師明親王。1018年(寛仁2年)8月27日、仁和寺済信に師事。8月29日、喜多院で出家。東大寺で受戒。1023年(治安3年)3月7日、仁和寺観音院で済信から伝法灌頂。1025年(万寿2年)灌頂阿闍梨。天皇・皇族・貴族のため孔雀経法・薬師法を修す。弘法大師の後身と称された。1068年(治暦4年)2月、後冷泉天皇病気平癒祈願。牛車宣旨。1059年(康平2年)7月9日、高野山に登り、灌頂院建立を発願し、護摩800日を修す。高野山光台院に参籠したという。1077年(承暦1年)12月18日、法勝寺の落慶供養の導師を務め、法勝寺検校となる。円宗寺長吏も兼ねた。1083年(永保3年)2月、二品(出家後の叙品の初例)。1084年(応徳1年)鳳瑞町の西光院を開いたという。1085年(応徳2年)9月27日死去。81歳。遺骨は高野山北院御廟に葬られた(墓は現存せず。高野山納骨の初期の事例)。大御室と号す。弟子に長信、寛助、済暹らがいる。著書『護摩私記』『灌頂所用目録』『大御室御記』『不動略次第』『大御室芸習御記』『長和親王御記』など。厳密には入道親王。
3 覚行法親王 1075-1105 1085-1105 白河天皇の第三皇子。出家後に親王宣下を得た「法親王」の初例。1075年(承保2年)生。俗名は覚念。1083年(永保3年)性信法親王に師事。1085年(応徳2年)2月19日、北院で出家。3月7日受戒。性信法親王の死去を受け、10月、仁和寺寺務。1092年(寛治6年)3月11日、一身阿闍梨。19日、観音院で伝法灌頂。1098年(承徳2年)2月15日、円宗寺・法勝寺両寺検校。1099年(康和1年)1月3日親王宣下。1102年(康和4年)5月23日、三品。8月7日二品。7月21日、尊勝寺の落慶の証誠を務め、尊勝寺長吏となる。1104年(長治1年)3月24日、尊勝寺灌頂初度大阿闍梨。1105年(長治2年)11月18日、北院で死去。31歳。九品寺に入寺したとされ、同寺に墓地(治定墓)がある。中御室と号す。摂津国今津の福応神社を祈願所としたという。
4 覚法法親王 1091-1153 1105-1153 白河天皇の第四皇子。1091年(寛治5年)生。1103年(康和5年)8月兄の覚行法親王に師事。1104年(長治1年)7月11日、仁和寺成就院で出家。当初の法名は真行で、のち行真と称し、さらに覚法と改名した。10月24日受戒。1105年(長治2年)12月、仁和寺寺務。1109年(天仁2年)4月29日、仁和寺観音院で伝法灌頂。同日、一身阿闍梨となる。1112年(天永3年)12月22日、親王宣下。1127年(大治2年)1月12日、二品。1130年(大治5年)10月25日、法金剛院供養大阿闍梨。1137年(保延3年)10月15日、安楽寿院供養導師。1139年(保延5年)5月、仁和寺観音院を御願寺とし、東寺に准じて灌頂会を開くこととする。1124年(天治1年)以来、しばしば高野山に参詣した。高野山光台院を創建したともいう。1153年(仁平3年)12月6日死去。63歳。遺言で高野山勝蓮花院で葬儀が行われた。高野山本中院谷、高野山総持院の裏に墓地がある。高野御室と号す。
5 覚性法親王 1129-1169 1153-1169 初代総法務鳥羽天皇の第五皇子。1129年(大治4年)生。母は待賢門院。同年親王宣下。俗名は本仁親王。1135年(保延1年)3月27日、仁和寺北院に入室。1140年(保延6年)6月22日出家。信法と称す。10月2日受戒。1145年(久安1年)8月、待賢門院から法金剛院を継承。1147年(久安3年)4月1日、一身阿闍梨。4月10日、伝法灌頂。1153年(仁平3年)12月、仁和寺寺務。同年閏12月、高野山を初めて参詣。箕面山瀧安寺に籠もったこともある。1158年(保元3年)3月1日、二品。1167年(仁安2年)12月13日、総法務となり、「綱所」を賜った(総法務は後世の称とも)。この頃、泉殿を御所とし、のち紫金台寺となった。1169年(嘉応1年)2月22日、紫金台寺で八万四千基の泥塔供養。1169年(嘉応1年)12月11日、紫金台寺で死去。41歳。性信親王の高野山北院御廟に葬る。厳密には入道親王。紫金台寺御室と号す。一時、二条天皇を弟子とした。平経正の墓とされる神戸の琵琶塚には親王から拝領した琵琶が埋葬されているという。
6 守覚法親王 1150-1202 1169-1198 後白河天皇の第二皇子。1150年(久安6年)生。俗名は守性親王。1160年(永暦1年)2月17日、仁和寺北院で覚性親王を師に出家。10月5日受戒。1168年(仁安3年)3月27日、一身阿闍梨。4月12日、覚性から伝法灌頂。1169年(嘉応1年)12月、仁和寺寺務。1170年(嘉応2年)4月14日、仁和寺・円宗寺円融寺円教寺検校となる。勝光明院法金剛院別当となる。同年閏4月28日、親王宣下。1171年(承安1年)3月23日、閑院で愛染明王法を修す。1172年(承安2年)1月18日、六勝寺長吏。1173年(承安3年)10月21日、最勝光院検校。1176年(安元2年)二品。1176年(安元2年)5月1日、初めて高野山を参詣。1178年(治承2年)六波羅亭で孔雀明王経法を修し、後の安徳天皇が誕生する。1182年(寿永1年)観音院で結縁灌頂を行い、後白河法皇・八条院が臨席する。1184年(元暦1年)、道法法親王に伝法灌頂。1186年(文治2年)10月5日、東寺から仁和寺に『三十帖冊子』が移された。広沢流と小野流を統合した。1195年(建久6年)2月24日、総法務。1198年(建久9年)8月27日、道法法親王に仁和寺を譲る。1202年(建仁2年)8月25日死去。仁和寺光明寿院を廟所としたという。喜多院御室、北院御室と号す。著書『北院御室日次記』『北院御室御集』『野月鈔』『沢見鈔』『野鈔』『右記』『左記』など多数。
7 道法法親王 1166-1214 1198-1214 後白河天皇の第八皇子。1166年(仁安1年)生。1174年(承安4年)10月1日、守覚法親王に入室。1179年(治承3年)4月16日、北院で出家。最初の法名は尊性。10月10日受戒。1184年(元暦1年)4月6日、高野山参詣。同年11月2日、一身阿闍梨。11月5日、観音院で守覚法親王から伝法灌頂。1185年(文治1年)1月13日親王宣下。同年12月12日、六勝寺検校。1198年(建久9年)8月5日、仁和寺寺務(守覚法親王が譲った日付とずれている)。1201年(建仁1年)、牛車宣旨。1203年(建仁3年)1月8日、総法務、賜綱所。2月15日、最勝光院検校。1205年(元久2年)宣陽門院、七条院の出家の戒師を務める。1208年(承元2年)2月9日、最勝四天王院検校。1214年(建保2年)11月21日死去。49歳。北院御廟に葬る。後高野御室と号す。
8 道助法親王 1196-1249 1214-1231 後鳥羽天皇第二皇子。1196年(建久7年)生。1199年(正治1年)親王宣下。長仁親王。1206年(建永1年)10月17日、仁和寺北院で道法法親王を師として出家。1212年(建暦2年)12月2日、一身阿闍梨。6日、道法法親王から伝法灌頂。1213年(建保1年)4月26日、六勝寺検校。道法法親王の死去により1214年(建保2年)11月、仁和寺寺務。1219年(承久1年)1月30日、綱所を賜る。2月9日、総法務。1221年(承久3年)7月8日、後鳥羽上皇の戒師を務めた。同月、高野山を初めて参詣。1224年(元仁1年)12月4日、北山堂(西園寺)供養の導師を務めた。1228年(安貞2年)歓喜寿院を継承。1230年(寛喜2年)8月3日、高野山に参詣。高野山光台院を開いたと伝える(中興とも)。1231年(寛喜3年)2月、仁和寺寺務を道深法親王に譲り、3月14日、高野山に隠居。佐佐婆神社を祈願所としたという。1249年(建長1年)1月16日、高野山で死去(15日とも)。54歳。高野山に墓地(光台院の裏)。光台院多宝塔は元禄年間に親王の供養のために建てられたもの(藤田美術館に移築?)。光台院御室、鳴滝御室と号す。著書『決集』『道助親王百首』『道助親王五十首』。厳密には入道親王。
9 道深法親王 1206-1249 1231-1249 守貞親王(後高倉院)の第二王子。1206年(建永1年)生。1216年(建保4年)12月16日、仁和寺北院に入室し、すぐに出家。19日受戒。東南院に住む。1220年(承久2年)10月24日、一身阿闍梨。1221年(承久3年)、父の守貞親王が天皇を経ずに太上天皇となり、院政を敷く。同年10月13日、親王宣下。同年閏10月17日、高野山に初めて参詣。1227年(安貞1年)12月3日から1234年(文暦1年)4月まで広隆寺別当。1230年(寛喜2年)12月9日、仁和寺観音院で道助親王から伝法灌頂。1231年(寛喜3年)3月、仁和寺寺務。同日、綱所を賜う。9月17日、総法務。同日、六勝寺検校。1249年(建長1年)7月28日死去。44歳。金剛定院御室と号す。厳密には入道親王。
(尊覚法親王) 1215-1264 三千院門跡順徳天皇の皇子。1215年(建保3年)生。1220年(承久2年)12月10日、仁和寺道助法親王に入室。1227年(安貞1年)出家。1228年(安貞2年)三千院門跡。1249年(建長1年)天台座主。1264年(文永1年)10月27日死去。50歳。
10 法助 1227-1284 1249-1258 九条道家の五男。僧侶の准三宮の初例。1227年(安貞1年)生。1238年(暦仁1年)4月10日、道深親王に入室。6月23日、喜多院で出家。12月10日、東大寺戒壇院で受戒。1239年(延応1年)7月26日一身阿闍梨となり、翌日准三宮となる。同年、後鳥羽天皇が隠岐で崩御すると親王が霊代を作って佐佐婆神社に合祀したという。1243年(寛元1年)12月6日、仁和寺観音院で道深親王から伝法灌頂。1249年(建長1年)8月、仁和寺寺務。1258年(正嘉2年)、乙訓郡の開田院に隠居。1284年(弘安7年)11月21日死去。58歳。開田准后、開田御室と号す。
11 性助法親王 1247-1282 1258-1282 後嵯峨天皇の第六皇子。1247年(宝治1年)生。1251年(建長3年)1月21日、親王宣下。俗名は省仁親王。同年、2月26日、仁和寺に入室。1257年(正嘉1年)10月13日、仁和寺法助に師事して出家。29日、綱所を賜う。12月2日、受戒。12月29日、総法務。1258年(正嘉2年)1月15日、六勝寺検校。12月29日、総法務。同月、仁和寺寺務。1263年(弘長3年)4月10日、高野山参詣。同年12月13日、仁和寺観音院で法助から伝法灌頂。1274年(文永11年)二品。1282年(弘安5年)12月19日死去。36歳。後中御室、甘露王院宮と号す。厳密には入道親王。
12 性仁法親王 1267-1304 1282-1295 後深草天皇の第四皇子。1267年(文永4年)生。1271年(文永8年)親王宣下。俗名は満仁親王。1278年(弘安1年)7月13日、仁和寺大聖院に入り、すぐに出家。1279年(弘安2年)2月3日、東大寺戒壇院で受戒。同年11月21日、六勝寺検校。1282年(弘安5年)12月、仁和寺寺務。1283年(弘安6年)12月3日、一身阿闍梨。20日、仁和寺観音院で法助から伝法灌頂。1286年(弘安9年)12月、綱所を賜う。12月18日、総法務。1288年(正応1年)12月、二品。1295年(永仁3年)、寺務を譲る。神護寺に住し神護寺翫玉院を創建。1304年(嘉元2年)4月6日、一品。同年8月10日死去。38歳。神護寺に墓地。高雄御室、高尾御室と号す。厳密には入道親王。
13 深性法親王 1275-1299 1295-1299 後深草天皇の第六皇子。1275年(建治1年)生。1287年(弘安10年)8月22日、仁和寺大聖院に入室。24日、性仁親王につき北院で出家。1288年(正応1年)親王宣下。1289年(正応2年)2月28日受戒。1293年(永仁1年)二品。1294年(永仁2年)11月6日、一身阿闍梨。24日、仁和寺観音院で性仁親王から伝法灌頂。1295年(永仁3年)3月17日、六勝寺検校。同月、仁和寺寺務。1297年(永仁5年)10月、綱所を賜う(総法務か)。1299年(正安1年)6月7日死去。25歳。尊勝院御室と号す。
禅助 1247-1330 仁和寺別当。東寺長者。東寺座主。仁和寺真光院3世。
14 寛性法親王 1289-1346 1302-1326 伏見天皇の第三皇子。1289年(正応2年)生。1298年(永仁6年)6月16日、仁和寺大聖院に入る。1300年(正安2年)1月29日、親王宣下。俗名は惟永親王。同年4月22日、仁和寺北院で性仁親王のもとで出家。1301年(正安3年)11月29日受戒。1302年(乾元1年)仁和寺寺務を継ぐ。1305年(嘉元3年)2月25日、一身阿闍梨。26日、仁和寺観音院で禅助から伝法灌頂。5月9日総法務・六勝寺検校。同日、綱所を賜う。1311年(応長1年)二品。1326年(嘉暦1年)仁和寺寺務を譲る。1338年(延元3年/暦応1年)一品。1346年(正平1年/貞和2年)9月30日死去。58歳。常瑜伽院御室、恵命院と号す。厳密には入道親王。
15 法守法親王 1308-1391 1327-? 後伏見天皇の第三皇子。1308年(延慶1年)生。1314年(正和3年)3月27日、仁和寺大聖院に入る。1320年(元応2年)12月1日親王宣下。俗名は寧永親王。1321年(元亨1年)3月19日、大聖院で寛性親王を戒師に出家。1326年(嘉暦1年)3月9日、大聖院経蔵で禅助から伝法灌頂。1327年(嘉暦2年)仁和寺寺務。同年12月、二品。1336年(延元1年/建武3年)10月29日、光厳上皇の命で法勝寺円堂の寺務職。1337年(延元2年/建武4年)3月17日、綱所を賜う。同日、六勝寺検校。1379年(天授5年/康暦1年)一品。1391年(元中8年/明徳2年)9月19日死去。84歳。 北山に葬られた(墓は現存せず)。禅河院御室と号す。厳密には入道親王。
法仁法親王 1325-1352 後醍醐天皇の皇子。1325年(正中2年)生。1334年(建武1年)3月28日、大聖院に入る。同年、親王宣下。俗名は躬良親王。1338年(延元3年/暦応1年)12月28日、仁和寺大聖院で出家。1350年(正平5年/観応1年)6月19日、法守親王から伝法灌頂。1351年(正平6年/観応2年)二品。同年、綱所を賜う。同日、六勝寺検校。1352年(正平7年/文和1年)10月25日死去。28歳。厳密には入道親王。(『望月仏教大辞典』に欠)
源性法親王(源照法親王) 1327-1353 花園天皇の第三皇子。1327年(嘉暦2年)生。1337年(延元2年/建武4年)親王宣下。俗名は業永親王。1343年(興国4年/康永2年)3月18日、仁和寺に入室し、すぐに法守親王について出家。1353年(正平8年/文和2年)1月29日死去。27歳。厳密には入道親王。(『望月仏教大辞典』に欠)
尊朝法親王 1344-1378 光厳天皇皇子。1344年(興国5年/康永3年)生。1355年(正平10年/文和4年)8月、親王宣下。俗名は尊敦親王。21日、仁和寺の寛性親王に入室。すぐに出家。法名は最初、恵仁と称す。1362年(正平17年/貞治1年)12月10日、法守法親王から伝法灌頂。1378年(天授4年/永和4年)8月16日死去。35歳。大聖院御室と号す。厳密には入道親王。(『望月仏教大辞典』に欠)
16 永助法親王 1362-1437 ?-1429 後光厳天皇の第五皇子。1362年(正平17年/貞治1年)生。母は崇賢門院。1372年(文中1年/応安5年)親王宣下。俗名は煕永親王。1373年(文中2年/応安6年)12月28日、大聖院に入室し、出家。法名ははじめ空助。1378年(天授4年/永和4年)12月12日、大聖院御所焼失。12月25日、仁和寺大聖院(菩提院とも)で法守親王から伝法灌頂。至徳年間(1384-1387)、二品。1399年(応永6年)9月15日、相国寺七重大塔供養の呪願師を務める。1406年(応永13年)1月28日、相応院宮を本坊とする。1412年(応永19年)一品。1429年(永享1年)6月6日、寺務を譲る。1431年(永享3年)3月24日、後小松上皇の戒師を務めた。1437年(永享9年)2月10日死去。76歳。北山の法守親王御堂のそばに葬ったという(現存せず)。後常瑜伽院御室と号す。厳密には入道親王。日記に『永助法親王記』。
(法尊) 1396-1418 足利義満の子。1396年(応永3年)生。1409年(応永16年)11月7日、永助法親王を戒師に入室得度。法高と称す。同日、大僧正。1412年(応永19年)4月16日、准三宮。1413年(応永20年)4月22日、永助親王から伝法灌頂。1418年(応永25年)2月15日死去。23歳。法金剛院に埋葬。法尊准后、梵光院と号す。(『望月仏教大辞典』に欠)
17 承道法親王 1408-1453 1429-1453 木寺宮5代世平王の王子。後二条天皇五世孫。後小松天皇の猶子。1408年(応永15年)生。1419年(応永26年)7月26日、仁和寺に入室し即出家。同年12月23日、親王宣下。1424年(応永31年)10月28日、菩提院で永助親王から伝法灌頂。1427年(応永34年)二品。1429年(永享1年)6月6日、仁和寺寺務。1453年(享徳2年)9月10日死去。46歳。同日一品。法金剛院御室と号す。
(禅信) 1400-1467 仁和寺真光院6世。東寺長者。
18 静覚法親王 1442-1503 1453-? 木寺宮邦康親王の王子。承道法親王の甥。後花園上皇の猶子。1442年(嘉吉2年)生。1453年(享徳2年)8月18日親王宣下。俗名は師煕親王。同年12月21日、禅信を戒師として出家。はじめ法深、のち弘覚と称す。1457年(長禄1年)12月13日、仁和寺真光院の禅信から伝法灌頂。のち仁和寺門跡。1503年(文亀3年)7月15日死去。62歳。後光台院御室と号す。厳密には入道親王。
(尊海) 1472-1543 仁和寺真光院8世。石山寺座主。
(道永法親王) ?-1535 上乗院門跡伏見宮貞常親王の王子。貞成親王(後崇光院)の孫。後土御門天皇猶子。1472年(文明4年)8月4日、親王宣下。高平親王。1475年(文明7年)仁和寺に入る。のち上乗院に移る。広隆寺49世。1516年(永正13年)12月19日、尊海から伝法灌頂。1535年(天文4年)1月21日死去。道什法親王。
19 覚道法親王 1500-1527 1510-1527 後柏原天皇の第三皇子。1500年(明応9年)生。1510年(永正7年)2月13日、仁和寺真光院に入る。12月26日、尊海に師事して出家。1511年(永正8年)3月26日、親王宣下。1516年(永正13年)12月17日、法金剛院観音殿で尊海から伝法灌頂。総法務か。1518年(永正15年)4月4日、延暦寺根本中堂の落慶供養の呪願師を務める。同年、親王の執奏で浄土真宗毫摂寺勅願寺とする。1519年(永正16年)二品。1527年(大永7年)10月23日、庭田第で死去。28歳。後禅河院御室、後法金剛院御室と号す。
20 任助法親王 1525-1584 1539-1584 伏見宮貞敦親王の第四王子。後奈良天皇猶子。1525年(大永5年)生。1539年(天文8年)親王宣下。俗名は煕明親王。同年12月25日、仁和寺真光院に入室し、尊海を戒師として出家。1542年(天文11年)4月12日、真光院で尊海から伝法灌頂。1554年(天文23年)二品。1572年(元亀3年)一品。1584年(天正12年)11月29日、宮島大聖院で客死。60歳。厳島御室と号す。厳密には入道親王。宮島港(赤崎)に墓(治定墓)。安芸・円明寺にも宝篋印塔(治定外墓)がある。安芸・極楽寺にも位牌が現存。
(守理法親王) 1558-? 伏見宮邦輔親王の王子。1558年(永禄1年)生。1564年(永禄7年)12月14日、親王宣下。師秀親王。1565年(永禄8年)1月29日、正親町天皇の猶子となり、仁和寺に入り、任助親王に入室。1584年(天正12年)8月10日、大和・紀伊に赴き、貝塚本願寺に滞在する。1587年(天正15年)6月12日、清涼殿で修法。まもなく仁和寺を辞去する。厳密には入道親王。
(承快法親王) 1591-1609 三千院門跡42世。後陽成天皇の第二皇子。1591年(天正19年)生。幼称は二宮。俗名は幸勝親王とも章勝親王ともいうが不詳。1598年(慶長3年)12月29日、仁和寺に入室。1601年(慶長6年)3月5日、三千院最胤法親王に入室。1609年(慶長14年)12月20日死去。19歳。七条殿、実性院と号す。
21 覚深法親王 1588-1648 1601-1648 後陽成天皇の第一皇子。1588年(天正16年)生。1594年(文禄3年)4月親王宣下。俗名は良仁親王。豊臣秀吉の後ろ盾で皇太子に目されていたが、秀吉の死後、後陽成天皇は第三皇子を後継者とし、親王は天皇の命により1601年(慶長6年)3月5日、仁和寺真光院に入り、27日、慧命院亮淳のもとで得度。1610年(慶長15年)9月25日、真光院寝殿で晋海から伝法灌頂。1614年(慶長19年)7月、一品。1618年(元和4年)8月4日、江戸城で将軍徳川秀忠と対面。同年高野山に初めて参詣。1620年(元和6年)11月、神護寺法度。1633年(寛永10年)4月21日、所司代板倉重宗の請で筑波山中禅寺の額を揮毫。9月22日、高山寺参詣。1634年(寛永11年)3月21日、空海800年忌。同年7月24日、幕府から伽藍復興の許可。1646年(正保3年)落慶法要。1648年(慶安1年)閏1月21日死去。61歳。法金剛院の仁和寺宮墓地。後南御室と号す。厳密には入道親王。
22 性承法親王 1637-1678 1648?-1678 後水尾天皇の第六皇子。1637年(寛永14年)生。幼称は豊宮。1647年(正保4年)9月15日、親王宣下。俗名は周敦親王。27日、覚深親王に師事し、仁和寺で得度。1656年(明暦2年)3月5日、二品。1657年(明暦3年)2月12日、一身阿闍梨。2月26日、仁和寺菩提院の信遍から伝法灌頂。1678年(延宝6年)2月29日死去。42歳。直前の27日に一品。仁和寺宮墓地。後大御室と号す。厳密には入道親王。
23 寛隆法親王 1672-1707 1683-1707 霊元天皇皇子。1672年(寛文12年)生。1677年(延宝5年)5月7日、性承親王の付弟となる。1683年(天和3年)親王宣下。俗名は師永親王。1683年(天和3年)8月17日、仁和寺真乗院の孝源のもとで得度。1689年(元禄2年)二品。1692年(元禄5年)2月29日、一身阿闍梨。同年3月12日、孝源より伝法灌頂。1693年(元禄6年)、東寺両界曼荼羅の複写が完成し、開眼供養の導師を務めた。1695年(元禄8年)2月18日、関東下向し、将軍徳川綱吉に即身義を講ず。1707年(宝永4年)9月16日死去。36歳。同日一品。仁和寺宮墓地。厳密には入道親王。寛澄法親王、寛蓮法親王、覚助法親王、覚観法親王、覚寛法親王、覚恕法親王とも。後金剛定院御室と号す。
24 守恕法親王 1706-1729 1718-1729 京極宮(桂宮)文仁親王の第二王子。霊元天皇皇孫。霊元天皇猶子。1706年(宝永3年)生。幼称は稲宮。1718年(享保3年)6月28日、親王宣下。周典親王。同年7月4日、仁和寺に入り得度。1726年(享保11年)3月6日一身阿闍梨。13日、真乗院孝宥から伝法灌頂。12月15日、二品。1729年(享保14年)4月9日死去(24日とも)。24歳。直前の7日に一品。仁和寺宮墓地。後光明寿院御室と号す。厳密には入道親王。
25 慈仁法親王 1723-1735 1734-1735 中御門天皇第四皇子。1723年(享保8年)生。幼称は四宮。1724年(享保9年)5月2日、天台宗曼殊院門跡に入るが、1729年(享保14年)閏9月21日、仁和寺門跡に移る。1732年(享保17年)3月28日、親王宣下。俗名は良視親王。1734年(享保19年)1月22日、真乗院孝宥を師として入室得度。1735年(享保20年)8月8日死去(7日とも)。13歳。直前の6日に一品。仁和寺宮墓地。宝荘厳院御室と号す。厳密には入道親王。
26 遵仁法親王 1736-1747 1747-1747 中御門天皇第六皇子。1736年(元文1年)生。幼称は政宮。1743年(寛保3年)12月1日、親王宣下。俗名は寛全親王。1747年(延享4年)2月27日、尊寿院隆幸を戒師として入室受戒。同年4月21日死去。12歳。29日一品。仁和寺宮墓地。三摩耶心院御室と号す。厳密には入道親王。
27 覚仁法親王 1732-1754 1748-1754 有栖川宮職仁親王王子。霊元天皇皇孫。1732年(享保17年)生。幼称は菅宮。1737年(元文2年)2月3日、三宝院門跡を相続。1747年(延享4年)10月25日、桜町上皇の養子となり、仁和寺付弟となる。12月15日、親王宣下。敬典親王。1748年(寛延1年)2月16日、尊寿院隆幸を戒師として入室得度。閏10月2日、二品。1752年(宝暦2年)3月24日、、尊寿院隆幸から伝法灌頂。一身阿闍梨。1754年(宝暦4年)9月21日死去。23歳。同日一品。仁和寺宮墓地。金剛心院御室と号す。厳密には入道親王。
28 深仁法親王 1759-1807 1768-1807 閑院宮典仁親王(追尊慶光天皇)王子。東山天皇皇曽孫。1759年(宝暦9年)生。幼称は俊宮。1760年(宝暦10年)8月28日、桃園天皇猶子となり、9月26日、仁和寺を相続。1763年(宝暦13年)10月4日、親王宣下。守典親王。1768年(明和5年)3月9日、真乗院宥證を戒師として入寺得度。1769年(明和6年)2月27日、二品。1772年(安永1年)12月18日、一品。1775年(安永4年)2月18日、一身阿闍梨。3月10日、真乗院宥證より伝法灌頂。1807年(文化4年)7月21日死去。49歳。仁和寺宮墓地。後喜多院御室と号す。厳密には入道親王。
(鏗宮) 1776-1777 1776年(安永5年)生。1777年(安永6年)2月27日、仁和寺深仁法親王の付弟となる。4月2日死去。2歳。仁和寺宮墓地。薩婆若院と号す。
(喜久宮) 1797-1801 閑院宮義仁親王の王子。1797年(寛政9年)生。11月17日(6月5日とも)、仁和寺深仁法親王の付弟となる。幼称は厚宮。1799年(寛政11年)6月1日、喜久宮と改称。1801年(享和1年)10月18日死去。5歳。仁和寺宮墓地。幾久宮とも。歓喜光院と号す。
29 済仁法親王 1797-1847 1809-1847 有栖川宮織仁親王の第十一王子。霊元天皇皇曽孫。光格天皇養子。1797年(寛政9年)生。幼称は誠宮。1801年(享和1年)5月20日(7日とも)、勧修寺門跡を相続するが、1807年(文化4年)8月12日(9月25日とも)、仁和寺に移り、深仁法親王の死後の付弟となる。1808年(文化5年)3月22日、光格天皇養子となり、1809年(文化6年)6月20日、親王宣下。修道親王。同年9月25日、真光院禅證を戒師に入室得度。1810年(文化7年)12月2日、一品。1813年(文化10年)3月10日、一身阿闍梨。26日、真光院禅證から伝法灌頂。1827年(文政10年)閏3月5日、宇多法皇900年御忌の導師を務める。1831年(天保2年)石山寺参詣。1836年(天保7年)8月26日、光孝天皇950年御忌。1844年(弘化1年)10月、高野山参詣。1845年(弘化2年)8月、江戸参府。1846年(弘化3年)高野山に納める仁孝天皇の尊牌を揮毫。1847年(弘化4年)12月24日(19日とも)死去。51歳。仁和寺宮墓地。不壊身院御室と号す。厳密には入道親王。
30 純仁法親王(小松宮彰仁親王1846-1903 1848-1867 小松宮初代。伏見宮邦家親王の第八王子。1846年(弘化3年)生。幼称は豊宮。1848年(嘉永1年)1月27日、仁和寺の済仁親王の死後の付弟となる。4月5日、仁孝天皇猶子。4月22日、相続。1858年(安政5年)3月27日、親王宣下。嘉彰親王。同年9月25日、孝恕を戒師として仁和寺に入室得度。純仁と称す。1859年(安政6年)12月17日、一品。1865年(慶応1年)3月27日、孝恕より伝法灌頂。1867年(慶応3年)12月9日、勅命で還俗して仁和寺宮を立て、嘉彰親王に復す。議定に就任。1868年(明治1年)1月、軍事総裁。外国事務総裁、海陸軍務総督、兵部卿、会津征討総督を歴任。1870年(明治3年)1月、東伏見宮家と改称。同年、英国留学。1874年(明治7年)陸軍少将。1881年(明治14年)2月、維新の功績により世襲親王家とされ、1882年(明治15年)12月、小松宮家と改称し、彰仁親王と改める。1890年(明治23年)陸軍大将。日清戦争で征清大総督。1898年(明治31年)元帥。1902年(明治35年)天皇名代として英国王戴冠式に出席。1903年(明治36年)2月18日死去。58歳。国葬。豊島岡墓地の小松宮墓地。仁和寺宮墓地に髪塔。楞厳定院御室と号す。厳密には入道親王。
仁和寺門跡の歴代門跡一覧(近現代)
世数 生没年 在職年 略歴
31 冷泉照道 ?-1879 1869-1879 子院皆明寺住職。1868年(明治1年)、菩提院寺務総職。1869年(明治2年)就任。在職中、1879年(明治12年)4月10日、法金剛院で死去。自在心院と号す。
(佐伯旭雅) 1828-1891 泉涌寺長老。1879年(明治12年)4月11日事務取扱。
32 冷泉玄誉 ?-1890 1879-1890 1879年(明治12年)6月22日就任。在職中、1890年(明治23年)4月2日死去。東寺長者。
33 別所栄厳 1814-1900 1884-1899 1884年(明治17年)7月4日就任。1899年(明治32年)退任。東寺長者。無能勝院と号す。
34 渡辺雲照 1827-1909 1899-1900 1899年(明治32年)7月12日就任。1900年(明治33年)退任。
35 泉智等 1849-1928 1900-1906 俗姓は花桝。1900年(明治33年)8月9日就任。1906年(明治39年)4月11日退任。
36 土宜法龍 1854-1923 1906-1920 1906年(明治39年)7月21日就任。1920年(大正9年)6月3日退任。東寺長者。
37 浦上隆応 1856-1926 1920-1926 和泉国出身。1856年(安政3年)生。1870年(明治3年)、高野山金蔵院通応に師事し得度。高幢龍暢に伝法灌頂を受ける。1873年(明治6年)報恩院流を受け、一流伝授。以降、様々な法流の伝授を受けた。高野山大学林、東寺総黌で教える。目白僧園でも訓育する。高野山円通寺住職、横浜東福寺住職、無量寿院門首を歴任。1920年(大正9年)10月仁和寺門跡・宗派管長に就任。1925年(大正14年)、高野・御室・大覚寺の三派合同で管長を退任。門跡在職中、1926年(昭和1年)11月10日死去。般若心院と号す。著書に『真言宗綱要』『般若心経帰一録』など。
38 石堂恵猛 ?-1943 1927-1943 中山寺長老。南都大安寺を復興。1927年(昭和2年)2月19日仁和寺門跡に就任。在職中、1943年(昭和18年)8月27日死去。著書に『皇室と真言宗』。
39 岡本慈航 ?-1957 1943-1957 1943年(昭和18年)12月8日就任?。在職中、1957年(昭和32年)9月7日死去。
40 花桝智勝 ?-1967 1955-1967 自坊は大阪三津寺。1955年(昭和30年)6月24日就任。在職中、1967年(昭和42年)6月5日死去。
41 森諦円 1901-1990 1967-1977 自坊は香川覚城院。香川県出身。1901年(明治34年)5月27日生。覚城院に入る。真言宗京都大学(種智院大学)卒業。従軍僧。種智院大学長。1967年(昭和42年)7月26日就任。1977年(昭和52年)7月25日退任。1990年(平成2年)7月30日死去。
42 小田慈舟 1890-1978 1977-1978 密教学者。広島県比婆郡西城町出身。1890年(明治23年)3月27日生。1902年(明治35年)城福寺の林哲深に師事。1909年(明治42年)神護寺で伝法灌頂を受ける。1916年(大正5年)真言宗連合京都大学卒業。1938年(昭和13年)高野山大学教授。1949年(昭和24年)種智院大学教授。比和町教育長、広島宗務支所長、仁和会理事、『密教大辞典』編纂主任、『真言宗全書』校正主任など歴任。1968年(昭和43年)密教学芸賞受賞。1977年(昭和52年)7月26日仁和寺門跡に就任。1978年(昭和53年)4月、宗派管長に就任。在職中、1978年(昭和53年)4月28日死去。88歳。著作『十巻章講説』『小田慈舟講伝録』。
43 立部瑞祐 1911-1999 1978-1983 自坊は福岡鎮国寺。佐賀県出身。1911年(明治44年)生。1978年(昭和53年)6月11日就任。1983年(昭和58年)6月22日退任。1999年(平成11年)死去。
44 小林隆仁 ?-1997 1983-1988 自坊は岡山円尾寺。1983年(昭和58年)6月23日就任。1988年(昭和63年)6月22日退任。1997年(平成9年)4月3日死去。
45 松村祐澄 ?-2008 1988-1993 自坊は香川千光寺。1988年(昭和63年)6月23日就任。1993年(平成5年)6月22日退任。2008年(平成20年)死去。
46 吉田裕信 1929-1998 1993-1998 自坊は広島大聖院。広島県出身。1929年(昭和4年)12月8日生。1939年(昭和14年)大聖院で出家。1949年(昭和24年)京都専門学校卒業。1952年(昭和27年)龍谷大学卒業。1963年(昭和38年)大聖院座主。1986年(昭和61年)から1990年(平成2年)宗務総長・仁和寺執行長。1993年(平成5年)6月23日就任。1998年(平成10年)6月22日退任。同年12月3日死去。70歳。
47 堀智範 1919-2014 1998-2003 自坊は天野山金剛寺。1919年(大正8年)3月28日生。1998年(平成10年)6月23日、仁和寺門跡・宗派管長に就任。2003年(平成15年)6月22日門跡管長を退任。仁和寺最高顧問。2014年(平成26年)8月23日死去。95歳。
48 佐藤令宜 1933- 2003-2008 自坊は徳島箸蔵寺。三重県鈴鹿市府南寺の出身。1933年(昭和8年)生。1948年(昭和23年)、高野山天徳院で金山穆韶を戒師に得度。1956年(昭和31年)、仁和寺で花枡智勝から受法。住職。1980年(昭和55年)宗派教学部長。1998年(平成10年)本山執行長・宗派宗務総長。2003年(平成15年)6月23日就任。2005年(平成17年)全日本仏教会副会長。2006年(平成18年)、後七日御修法の大阿を務め、真言宗長者に就任。2008年(平成20年)6月22日、仁和寺門跡に退任。
49 南揚道 1931-2020 2008-2013 自坊は和泉・慈眼院。大阪府出身。1931年(昭和6年)10月24日生。1954年(昭和29年)広島大学文学部哲学科卒。1978年(昭和53年)慈眼院住職(2008年(平成20年)まで)。仁和密教学院講師、大阪宗務支所長、宗会議員、護持財団評議員・理事、仁和伝法所 伝法阿闍梨など歴任。2002年(平成14年)と2006年(平成18年)に後七日御修法の大行事を務めた。2008年(平成20年)6月23日就任。2011年(平成23年)後七日御修法の大阿を務め、真言宗長者に就任。2013年(平成25年)6月22日退任。仁和寺最高顧問。2020年(令和2年)1月13日死去。88歳。
50 立部祐道 1940- 2013-2018 自坊は福岡鎮国寺。1940年(昭和15年)生。広島県尾道市出身。立部瑞祐の子。1956年(昭和31年)、中学2年の時、河内・延命寺で得度。1964年(昭和39年)、龍谷大学文学部史学科卒業。大学では仏教学者の二葉憲香に学ぶ。同大の社会科学研究会に所属し、学生運動に参加。鎮国寺住職。宗会議員。1998年(平成10年)、本山執行長・宗派宗務総長を14年務めた。2013年(平成25年)6月23日、仁和寺門跡・宗派管長に就任。2014年(平成26年)1月、後七日御修法の大阿を務め、真言宗長者に就任。2018年(平成30年)仁和寺門跡を退任。仁和寺最高顧問。著書に『ただ一心に咲く』。
51 瀬川大秀 1947- 2018-2023予定 自坊は愛媛王至森寺。1947年(昭和22年)生。愛媛県出身。1963年(昭和38年)得度。1969年(昭和44年)高野山大学文学部密教学科卒。1972年(昭和47年)王至森寺住職。真言宗御室派愛媛宗務支所長、宗会議員など歴任。2008年(平成20年)権大僧正。2010年(平成22年)5月、本山執行長・宗派宗務総長に就任(2期8年在職)。2018年(平成30年)6月23日、仁和寺門跡・宗派管長に就任(任期5年)。2020年(令和2年)1月、後七日御修法の大阿を務め、真言宗長者に就任。著書に『令和に守り伝えたい仁和寺の祈り』。

別当

住職とは別に別当がいたらしい。

  • 1幽仙()<-890->:天台宗
  • 観賢(854-925)<900->:聖宝の弟子。東寺長者。金剛峰寺座主。朝廷から空海に弘法大師号下賜を実現させたことが有名。京都・般若寺を復興。般若寺僧正。
  • 寛空(884-972)<952->:宇多法皇から伝法灌頂を受けた。上品蓮台寺を創建。香隆寺を再興。884年(元慶8年)生。952年(天暦6年)8月14日、仁和寺別当。972年(天禄3年)2月6日死去。89歳。
  • 寛朝(916-998)<967->:宇多天皇の孫。遍照寺を創建。広沢流の開祖。916年(延喜16年)生。967年(康保4年)6月16日、仁和寺別当。998年(長徳4年)死去。
  • 済信()<>:998年(長徳4年)時点で仁和寺別当。1001年(長保3年)退任。
  • 覚縁()<>:1001年(長保3年)仁和寺別当。
  • 延尋
  • 源覚
  • 深清()<1005->:1005年(寛弘2年)6月27日、仁和寺別当。
  • 雅慶(926-1012)<>:宇多天皇の孫。寛朝の弟。1004年(寛弘1年)3月4日、仁和寺別当。
  • 尋清()<-1015->:
  • 信覚(1011-1084)<1074->:藤原公季の子。
  • 覚意()<1099->:1099年(康和1年)12月30日、仁和寺別当。
  • 寛助(1057-1125)<1099->:1099年(康和1年)12月30日、仁和寺別当。1118年(元永1年)12月17日、仁和寺別当。1107年(嘉承2年)仁和寺・円教寺別当。
  • 寛遍()<1163->:1163年(長寛1年)7月、仁和寺・円教寺別当。
  • 禎喜()<1170->:1170年(嘉応2年)3月8日、仁和寺・円教寺別当。
  • 寛暁(1103-1159)<>:堀河天皇皇子。仁和寺華蔵院。
  • 定遍(1133-1185)<>:
  • 道尊(1175-1228)<1207->:以仁王王子。蓮華光院初代。安井流の開祖。1207年(承元1年)12月9日、仁和寺別当。
  • 道融()<1278->:1278年(弘安1年)6月27日、仁和寺別当。
  • 奝助(1217-1290)<1281->:1281年(弘安4年)閏7月25日、仁和寺別当。
  • 禅助(1247-1330)<1311->:仁和寺真光院3世。内大臣源通成(中院通成)の子。東寺長者。1247年(宝治1年)生。1265年(文永2年)秘密荘厳院で法助から伝法灌頂。1286年(弘安9年)4月23日、権法務。1292年(正応5年)1月6日、東寺長者。1293年(永仁1年)8月21日、大僧正。1294年(永仁2年)2月8日、東寺長者・法務。3月護持僧。7月2日、高野山からの訴えで大僧正と東寺長者を辞任。1307年(徳治2年)7月、後宇多上皇出家の戒師。12月8日、東寺長者・法務。1308年(延慶1年)1月26日、東寺で後宇多法皇に伝法灌頂を伝え、3月20日に東寺長者を解かれるが3月23日に初代の東寺座主に就任する。1311年(応長1年)5月27日、仁和寺別当。同年神護寺別当。1318年(文保2年)後醍醐天皇護持僧。1319年(元応1年)9月13日から翌年7月まで東寺長者・法務。大伝法院座主20世・22世・28世。1330年(元徳2年)2月11日死去。84歳。
  • 成助()<>:仁和寺真光院4世。

執行長

もとは寺務長といった。のち執行長と改称。真言宗御室派宗務総長を兼任。

参考文献

  • 『仁和寺諸堂記』:群書類従[3]
  • 『仁和寺御伝』:宮内省図書寮本[4]。覚深法親王~純仁法親王。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA」より作成

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