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三千院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月7日 (日)
(三千院門跡から転送)
三千院(さんぜんいん)は、京都府京都市左京区の大原にある、天台宗の門跡寺院。本尊は薬師如来。妙法院門跡、青蓮院門跡と共に比叡山三門跡の一つ。天台宗延暦寺派門跡寺。最澄が、東塔南谷の梨の大木の下に仮堂を建てたのが起源と伝えるが定かではない。のち東坂本梶井里に里坊が建てられたという。里坊は京都内を転々とした。大原寺などを管轄下に置くことになり、政所を現地に設置。明治以後、大原政所に里坊が移転合併した。明治以前は円融院(円融房)、梶井殿などと呼ばれた。梨本房、円徳院。梶井門跡。宮中の御懺法講を司り、天台声明を管轄した。大原の鎮守として江文神社がある。勝林院に梶井宮北墓地と梶井宮東墓地がある。魚山。
目次 |
歴史
- 788年:最澄、延暦寺の東塔南谷に梨の大樹の下に一堂を立てて薬師如来を祭る
- 860年:承雲、比叡山麓の坂本梶井里に移す。
- 1086年6月16日:白河天皇中宮藤原賢子の菩提寺として造営。坂本の里坊はこの時に始まるとも。
- 1130年:最雲法親王が入寺。宮門跡の起源。(元永年間とも)
- 1156年:最雲法親王が天台座主となり、大原に別当代を置く。大原を管轄下に置いた始まりだという。
- 後白河法皇:御懴法講を始める。
- 1250年:船岡山東麓の「犂鼻」(からすきがはな)に移転。持仏堂を自性金剛院と号す。
- ?:尊雲法親王(護良親王)が入寺。
- 1368年(応安1年):後伏見天皇33年忌から定式となる。清涼殿または仙洞御所で行った。
- 1467年:応仁の乱で焼失(却濁発心略記)
- 1476年(文明8年)頃:後花園天皇7回忌御懴法講を大原で行う。
- 1698年3月:慈胤法親王、御車道広小路(京都府京都市上京区梶井町)に屋敷地を入手(天台座主記)
- 1701年1月6日:坊舎が竣工して門主が入る(天台座主記)
- 1868年(明治1年)閏4月:昌仁法親王、還俗して梶井宮守脩親王となる。
- 1868年(明治1年)8月17日:大学寮代を旧梶井宮に移転。
- 1868年(明治1年)9月16日:漢学所を旧梶井宮に開く
- 1870年:梶井宮家、梨本宮家と改称
- 1871年(明治4年):門跡廃止。宮内省から年金966円80銭2厘
- 1896年(明治29年):往生極楽院、境外仏堂から境内に編入し本堂とする
- 1898年(明治31年)1月11日:英照皇太后1周忌に仮宸殿で御懴法講。宮内省より参向
伽藍・子院・関連旧跡
- 往生極楽院:現在の本堂。本尊は阿弥陀三尊像。観音菩薩と勢至菩薩は「大和坐り」で知られる。円融蔵に天井画の復元壁画が展示されている。
- 宸殿:本尊は薬師如来。西の間に阿弥陀如来と歴代法親王の位牌を祀る。東の間に玉座があり、下村観山の障壁画があり、虹の間ともいう。後白河法皇が始めた法華御懺法を行う場。宸殿という名ではあるものの、書院建築ではない。宸殿前の庭園を有清園という。
- 客殿:平安時代建立の龍禅院を継承するという。大原寺の政所だった。豊臣秀吉が京都御所修復の余材で修築されたという。片隅に角大師の小像を祀る。庭園を聚碧園といい、江戸時代の茶人の金森宗和の作という。
- 円融房:会館。二階建。
- 円融蔵:宝物館。2006年(平成18年)開館。
- 金色不動堂:本尊は秘仏金色不動。平安時代の不動明王像で、円珍作という。不動堂は1989年(平成1年)の建立。採灯護摩を行う広場がある。
- 観音堂:本尊は観音菩薩。無数の小観音像が奉納されている。
- 石仏:
- 宇賀神弁財天:
- 鎮守社:
- 大観心院:院家
- 梶井宮東墓地:勝林院の北の聖谷墓地内にある。
- 梶井宮北墓地:勝林院の東にある。
- 三千院門主墓地:勝林院の北の聖谷墓地内にある。
- 梶井宮里坊:京都府京都市上京区梶井町。現在の京都府立医科大学のあたりか。廃絶。梶井天満宮があったという。
- 梶井水:滋賀県大津市。発祥地にある井戸。枯れている。
画像
組織
歴代住職
歴代 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 最澄 | 767-822 | ||
2 | 円仁 | 794-864 | ||
3 | 承雲 | 生没年不詳 | ||
4 | 延雄 | |||
5 | 尊意 | 866-940) | ||
6 | 安応 | |||
7 | 尋叡 | |||
8 | 明快 | 985-1070 | 梨本流の祖。天台座主。法成寺別当。恵心院検校。 | |
9 | 良真 | 1022-1096 | 天台座主。円融房と称す。 | |
10 | 仁覚 | 1045-1102 | 天台座主。 | |
11 | 仁豪 | ?-1121 | 天台座主。1121年(保安2年)10月4日死去。 | |
12 | 仁実 | 1091-1131 | 天台座主。 | |
13 | 最雲法親王 | 1104-1162 | 堀河天皇皇子。天台宗の法親王の始め。天台座主。法性寺座主。 | |
14 | 最忠 | |||
15 | 公雲 | |||
16 | 明雲 | 1115-1183 | 天台座主に2度就任。法住寺合戦の流れ矢で死去。 | |
17 | 顕真 | 1131-1192 | 天台座主。大原問答を実施。 | |
18 | 承仁法親王 | 1169-1197 | 後白河天皇皇子。天台座主。 | |
19 | 承円 | 1180-1236 | 天台座主。日吉大社にしばしば参籠。 | |
20 | 尊快法親王 | 1204-1246 | 後鳥羽天皇皇子。天台座主。 | |
21 | 尊覚法親王 | 1215-1264 | 順徳天皇皇子。天台座主。 | |
22 | 最仁法親王 | 1231-1295 | 土御門天皇皇子。天台座主。 | |
23 | 澄覚法親王 | 1219-1289 | 雅成親王王子。後鳥羽天皇の孫。皇孫が親王になった初例。天台座主。六条宮。菩提院宮。 | |
24 | 最助法親王 | 1253-1293 | 後嵯峨天皇皇子。天台座主。四天王寺別当。 | |
25 | 覚雲法親王 | 1272-1323 | 亀山天皇皇子。天台座主。菩提院。 | |
26 | 叡雲法親王 | 生没年不詳 | 亀山天皇皇子。 | |
27 | 恒雲法親王 | 「桓雲」とも。 | ||
28 | 尊忠 | ?-1280 | 忠成王王子。順徳天皇の皇孫。 | |
29 | 承覚法親王 | 1294-? | 後宇多天皇皇子。天台座主。寿量院宮。西林院宮。 | |
30 | 承鎮法親王 | 生没年不詳 | 彦仁王の王子。順徳天皇の孫。天台座主。 | |
31 | 尊雲法親王 (護良親王) | 1308-1335 | 後醍醐天皇皇子。南朝の代表的な皇族。天台座主。鎌倉宮祭神。大塔宮。墓所は護良親王墓。 | |
32 | 尊胤法親王 | 1306-1359 | 後伏見天皇皇子。天台座主。四天王寺別当。 | |
33 | 承胤法親王 | 1317-1377 | 後伏見天皇皇子。光聚院宮。天台座主。四天王寺別当。 | |
34 | 恒鎮法親王 | ?-1372 | 恒明親王王子。天台座主。 | |
35 | 覚叡法親王 | 1361-1377 | 後光厳天皇皇子。 | |
36 | 明承法親王 | 1367-1396 | 後光厳天皇皇子。天台座主。 | |
37 | 義承 | 1406-1467 | 足利義満の子。天台座主。准三后。 | |
38 | 義尭 | |||
39 | 尭胤法親王 | 1458-1520 | 貞常親王王子。天台座主。 | |
40 | 彦胤法親王 | 1509-1540 | 後柏原天皇皇子。 | |
41 | 応胤法親王 | 1531-1598 | 伏見宮貞敦親王王子。天台座主。 | |
42 | 承快法親王 | 1591-1609 | 後陽成天皇皇子。実性院。墓地は梶井宮東墓地。 | |
43 | 最胤法親王 | 1565-1639 | 伏見宮邦輔親王王子。勝林院本堂裏に最胤親王墓がある。 | |
45 | 慈胤法親王 | 1617-1699 | 後陽成天皇皇子。天台座主。墓所は梶井宮北墓地。 | |
46 | 盛胤法親王 | 1651-1680 | 後水尾天皇皇子。天台座主。墓地は梶井宮東墓地。(「最昭法親王」) | |
47 | 道仁法親王 | 1689-1733 | 伏見宮貞致親王王子。天台座主。墓所は梶井宮北墓地。 | |
48 | 叡仁法親王 | 1730-1753 | 有栖川宮職仁親王王子。墓所は梶井宮北墓地。 | |
49 | 常仁法親王 | 1751-1772 | 有栖川宮職仁親王王子。天台座主。墓所は梶井宮北墓地。 | |
50 | 承真法親王 | 1786-1841 | 有栖川宮織仁親王王子。天台座主。墓地は梶井宮東墓地。 | |
51 | 昌仁法親王 (梨本宮守脩親王) | 1819-1881 | 円満院門跡。天台座主。梨本宮家を創設。墓所は泉山陵墓地。 | |
52 | 良海 | |||
53 | 村田寂順 | 1838-1905 | 天台座主238世。鰐淵寺住職。善光寺大勧進89世。妙法院門跡43世。天台座主238世。(略歴は妙法院門跡#組織を参照) | |
54 | 梅谷孝成 | 1845-1914 | 1888- | 天台座主240世。田中弥右衛門の長男。明治21年、三千院門跡。明治34年、天台座主240世。三千院門主墓地。(「さばえの偉人一覧表」[1]) |
55 | 梅谷孝永 | 1863-1945 | 天台座主247世。三千院門跡55世。妙法院門跡45世。三千院門主墓地に無縫塔と小さな墓碑の二つがある。(略歴は妙法院門跡#組織を参照) | |
56 | 塚原大応 | 1863-1931 | ?-1927 | のち四天王寺住職。(略歴は四天王寺#組織を参照) |
57 | 堀恵慶 | ?-1939 | ?-1939 | 自坊は延暦寺戒光院。大原念仏寺を復興。1936年(昭和11年)9月21日、探題。1939年(昭和14年)10月27日死去。三千院門主墓地。 |
58 | 平野観応 | 1940- | 自坊は延暦寺大智院。1940年(昭和15年)2月8日、三千院門跡門主に就任。1940年(昭和15年)5月18日望擬講。三千院門主墓地。 | |
59 | 水谷教章 | 1897-1976 | 1950-1976 | 愛知県出身。1897年(明治30年)生。宗会議員。宗会議長。1950年(昭和25年)三千院門跡門主に就任。1976年(昭和51年)11月2日死去[2]。三千院門主墓地。 |
60 | 神原玄祐 | 1894-1995 | 1978-1980 | 宗務総長。三千院門主60世。大興善寺住職96世。佐賀出身。1894年(明治27年)12月10日生。地蔵院住職の角玄恕の次男。金乗院住職の神原玄啓の弟子となり名前を継ぐ。1978年(昭和53年)三千院門跡門主。1980年(昭和55年)12月退任。1995年(平成7年)死去。三千院門主墓地。 |
61 | 森定慈紹 | 1910-1988 | 1981-1988 | 1910年(明治43年)生。延暦寺華蔵院住職。1981年(昭和56年)7月25日、三千院門跡門主に就任。1988年(昭和63年)死去。三千院門主墓地。 |
62 | 小堀光詮 | 1922-2013 | 1988-2013 | 栃木県日光市出身。1922年(大正11年)生。1930年(昭和5年)佐野大聖寺に両親と共に居住。1944年(昭和19年)延暦寺に入寺。比叡山専修院卒。1947年(昭和22年)延暦寺星光院住職。1971年(昭和46年)延暦寺副執行。1982年(昭和57年)延暦寺執行。1988年(昭和63年)三千院門跡門主に就任。2001年(平成13年)探題。平成25年(2013)6月21日死去。91歳。三千院門主墓地。 |
63 | 堀沢祖門 | 1929- | 2013-2020 | 自坊は延暦寺泰門庵。新潟県小千谷市出身。1929年(昭和4年)生。京都大学経済学部中退。叡南祖賢に師事。比叡山十二年籠山行を戦後初めて満行。2000年(平成12年)、叡山学院長。2002年(平成14年)戸津説法説法師。2013年(平成25年)から2020年(令和2年)10月まで三千院門跡門主就任。宗機顧問会会長。62世? |
64 | 小堀光実 | 1953- | 2021-2028予定 | 自坊は延暦寺寂光院。延暦寺執行。2021年(令和3年)11月1日、三千院門主。 |
『日本仏家人名辞書』など
執事長
- 大島亮準(-2012)<>:1983年(昭和58年)頃在職。自坊は大原念仏寺。立命館大学に勤務。古都税紛争で活躍。2012年(平成24年)4月24日死去。近畿宗教連盟理事長。
- 大島亮幸(1949-)<>:2009年(平成21年)在職。自坊は大原念仏寺。1949年(昭和24年)生。
- 多紀穎忍()<>:自坊は大原浄蓮華院。2017年(平成29年)在職。
- 穴穂行仁(1973-)<-2023>:自坊は亀岡穴穂寺。1994年(平成6年)龍谷大学卒。大学院修了。2017年(平成29年)7月から2023年(令和5年)9月まで三千院執事長。2023年(令和5年)10月、京都教区宗務所長。
- 若林節哉(1966-)<2023->:自坊は福知山市高正寺。1966年生。四天王寺国際仏教大学卒。2015年(平成27年)から京都教区宗務所長。2023年(令和5年)10月1日から三千院執事長。