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空海旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年5月27日 (水)
(弘法大師から転送)
空海(くうかい)(774-835)は、日本真言宗の開祖。東寺や高野山金剛峰寺を創建した。讃岐出身の佐伯氏。現在も高野山奥之院で生きながら祈り続けているとされる。真魚、弘法大師。 命日法要を正御影供、生誕祭を青葉まつりと呼ぶ。
目次 |
略歴
略年譜
年 | 月日 | 年齢 | 事項 |
---|---|---|---|
774年(宝亀5年) | 6月15日 | 1 | 讃岐国多度郡屏風浦に郡司佐伯田公の三男として生まれる。母は、阿刀真足娘の玉依御前(阿古屋御前)。幼名は真魚(まお)。現在の善通寺の地というのが一般的な説だが、海岸寺(多度津町)にも伝承がある。誕生日の6月15日は不空の命日でもあり、後に彼の生まれ変わりとも言われる。 |
775年(宝亀6年) | 2 | ||
776年(宝亀7年) | 3 | ||
777年(宝亀8年) | 4 | ||
778年(宝亀9年) | 5 | ||
779年(宝亀10年) | 6 | ||
780年(宝亀11年) | 7 | ||
781年(天応1年) | 4月3日 | 8 | (桓武天皇即位) |
782年(延暦1年) | 9 | ||
783年(延暦2年) | 10 | ||
784年(延暦3年) | 11月11日 | 11 | (長岡京遷都) |
785年(延暦4年) | 12 | 讃岐の国学に入学。 | |
786年(延暦5年) | 13 | ||
787年(延暦6年) | 14 | ||
788年(延暦7年) | 15 | 平城京に叔父阿刀大足(桓武天皇皇子伊予親王の侍講)と共に上京した。 | |
789年(延暦8年) | 16 | ||
790年(延暦9年) | 17 | ||
791年(延暦10年) | 18 | 大学寮に入学した。長岡京は造営中であり、完成しておらず、南都に暮らしたと思われる。佐伯氏の氏寺佐伯院に寄宿したと考えられている。一族の期待を背負っての入学だったが、しかし、入ったばかりの大学を中退。「エリート官僚」としての将来が約束されていたはずなのに、儒教中心の勉強に満足しなかったらしい。 | |
792年(延暦11年) | 19 | この頃、虚空蔵求聞持法を伝授される(一説に勤操からという)。以後、阿波の大滝岳や土佐の室戸岬で修行する。 | |
793年(延暦12年) | 20 | この年、一説に勤操から施福寺で受戒する。 | |
794年(延暦13年) | 10月22日 | 21 | (平安京遷都) |
795年(延暦14年) | 22 | ||
796年(延暦15年) | 23 | ||
797年(延暦16年) | 12月1日 | 24 | 『聾瞽指帰』を著す。のちの『三教指帰』の草稿である。自筆本が長らく金剛峰寺御影堂に所蔵されてきたが、現在は高野山霊宝館にある。出家宣言とも呼ぶべきもので、戯曲風に密教の素晴らしさを記している。 |
798年(延暦17年) | 25 | 「空白の七年間」(年時不明だが久米寺東塔で『大日経』を感得した) | |
799年(延暦18年) | 26 | 「空白の七年間」 | |
800年(延暦19年) | 27 | 「空白の七年間」 | |
801年(延暦20年) | 28 | 「空白の七年間」 | |
802年(延暦21年) | 29 | 「空白の七年間」 | |
803年(延暦22年) | 30 | 「空白の七年間」 | |
804年(延暦23年)(唐・貞元20年) | 4月7日 | 31 | 東大寺戒壇院で正式に受戒。(受戒の年次は諸説ある) |
5月12日 | 入唐。私費留学生として遣唐使船に乗船。大使の藤原葛野麻呂や最澄、橘逸勢などとともに出航。元々は前年に出航したのだが、難破したために戻ってきた船であった。難破がなければ、空海が乗船することもなかったいう。空海は第一船に乗船。橘逸勢もいた。 | ||
7月6日 | 肥前国田浦を出航。最後の寄港地は五島列島の福江島で、「辞本涯」碑がある。翌日暴風雨にあって、船団は解体。ばらばらになって漂流した。 | ||
8月10日 | 34日間の漂流の後、中国福州の赤岸鎮に漂着。 | ||
10月3日 | 福建馬尾港に上陸。一行は海賊船と疑われたが、空海が大使に代わって書をしたため、現地の官吏に認められる。 | ||
11月3日 | 出発 | ||
12月23日 | 長安に到着。春明門から入城。宣陽房の官邸に滞在した。福州から長安まで2400kmあった。最澄は明州周辺のみを廻り、長安には来ていない。大使の葛野麻呂は、到着の翌24日、国書と貢物を献上し、25日には皇帝に拝謁し、役目を終えた。 | ||
805年(延暦24年)(唐・貞元21年、永貞元年) | 1月23日 | 32 | (皇帝徳宗、崩御。28日、皇帝順宗が即位) |
2月10日 | 遣唐使らは30年間長安に滞在していた永忠を連れて、帰国に向かう。空海は橘逸勢とともに長安に残り、西明寺に滞在する。西明寺は日本からの留学僧のほとんどが滞在した寺院。 | ||
醴泉寺で般若と牟尼室利に師事し、インド哲学やサンスクリット語を学ぶ。空海は、『大日経』のことは知っていたが、『金剛頂経』系の密教があることは渡唐まで知らなかったと言われている。般若からは新訳『華厳経』を授与される。関係経典を多数日本に持ち帰っている。 | |||
5月ごろ | 志明、談勝らとともに、青龍寺東塔院の恵果を初めて訪ねる。 | ||
6月13日 | 胎蔵曼荼羅の灌頂 | ||
7月上旬 | 金剛界曼荼羅の灌頂 | ||
8月10日 | 伝法阿闍梨位灌頂を受け、「遍照金剛」の密号を授かる。恵果は、両部曼荼羅、法具・法文、仏舎利などを授けた。 | ||
12月15日 | 恵果が死去。60歳。 | ||
806年(大同1年) | 1月17日 | 33 | 師の追悼の碑文を記す。恵果の弟子で伝法灌頂を受けていたのは、弁弘、慧日、惟上、義明、空海、義円の6人であり、金剛界・胎蔵界の両法を受けたのは、空海と義明だけだった。恵果の孫弟子の珍賀が、空海に対して反発するが、夢の中で仏に降伏させられ、空海に非を謝したという。 |
1月 | 橘逸勢の依頼で文章を記す。帰国申請。 | ||
3月 | 長安を離れ、帰国の途につく。本当は留学期間は20年だったが、伝法も受け、師もなくなったため、中国にいる理由がなくなり、一刻も早く日本に密教を広めたいとの思いで帰国を決めたと言われる。恵果死去の少し後、日本から高階遠成が派遣されてきたところで帰国のタイミングが整ったこともあったのだろう。 | ||
3月17日 | (桓武天皇崩御。5月18日、平城天皇即位) | ||
4月 | 越州に滞在。節度使に依頼して仏教経典やその他の書物を収集。 | ||
8月 | 明州に到着。 | ||
(帰国に当たって、日本に向かって三鈷杵を投げる。投げた場所は岸からとも、船上からともいう。のち紀伊国で発見され、高野山の地となる。) | |||
10月 | 帰国、大宰府に到着。 | ||
10月22日 | 『請来目録』を朝廷に提出。入京は許されず。 | ||
807年(大同2年) | 4月29日 | 34 | 大宰府の命で観世音寺に入る。 |
和泉施福寺に移る。 | |||
808年(大同3年) | 35 | ||
809年(大同4年) | 4月1日 | 36 | (平城天皇譲位。嵯峨天皇即位) |
7月16日 | 太政官は和泉国司に対し空海の入京を命ず。高雄山寺に居住。鎮守として宇佐八幡を勧請して平岡八幡宮を創建したという。 | ||
8月24日 | 最澄は空海に密教経典の借覧を願う。 | ||
10月4日 | 嵯峨天皇の勅で屏風に「世説」を書いて献上。 | ||
この年、実弟真雅(801-879)が上京。 | |||
810年(弘仁1年) | 9月 | 37 | 平城上皇、挙兵するが成功せず(薬子の変)。皇太子だった高岳親王(799-865?)は廃されて東大寺で出家し空海の弟子となる。 |
10月 | 国家のための修法を初めて高雄山寺で行った。 | ||
一説にこの年、東大寺別当となる。 | |||
両部灌頂を開き、実恵(786-847)が入壇。 | |||
811年(弘仁2年) | 1月15日 | 38 | 嵯峨天皇の御前で、「即身成仏の現証を見せよ」と言われて、結跏趺坐し、印を結び、真言を唱えたところ、空海の全身が黄金に輝き、白光を放ち、宝冠が現れ光明を放ったという。 |
10月27日 | 乙訓寺に移居し、乙訓寺別当になる。 | ||
812年(弘仁3年) | 10月27日 | 39 | 乙訓寺にいた空海を、最澄が訪ねて密教の伝授を願う。最澄とは最初は密接な交流があった。そもそも日本に本格的に密教を伝えたのは先に帰国した最澄であり、エリート学僧として認められていた彼が、空海を朝廷に推薦したと言われている。 |
10月29日 | 乙訓寺から高雄山寺に移る。最澄の懇願で、高雄山寺で灌頂を開くため。 | ||
11月15日 | 高雄山寺で最初の金剛界結縁灌頂を実施し、最澄や和気真綱・和気仲世・美濃種人が受けた。 | ||
12月10日 | 最澄以下194人に胎蔵界結縁灌頂。 | ||
高雄山寺に三綱を設置。弟子の杲隣(767-?)が上座、智泉(789-825)が羯摩陀那(都維那)となる。 | |||
813年(弘仁4年) | 1月 | 40 | 1月から3月にかけて、最澄は自分の弟子の、泰範(778-?)、円澄、光定を空海に密教を学ばせる。 |
3月6日 | 高雄山寺で金剛界灌頂を行い、泰範、円澄、光定が入壇。 | ||
5月30日 | 『弘仁遺誡』 | ||
11月23日 | 空海は最澄の『理趣経』借覧の願いを断り、疎遠となる。 | ||
興福寺南円堂の造営にあたり「鎮壇」法に空海が出仕。 | |||
814年(弘仁5年) | 41 | 下野尹博士の依頼を受けて、勝道を讃える文を書く。 | |
815年(弘仁6年) | 4月1日 | 42 | 「勧縁疏」を記し、弟子の康守と安行らを東国に派遣。広智や徳一に密教を勧める。 |
厄年のこの年、四国霊場を開いたとされる。 | |||
この頃、弁顕密二教論 | |||
816年(弘仁7年) | 5月 | 43 | 元は最澄の弟子の泰範が空海に師事し、最澄と空海がさらに疎遠になる。 |
6月19日 | 朝廷に高野山開山を請願。 | ||
7月8日 | 高野山開山の勅許。 | ||
実弟真雅(801-879)が16歳で空海に師事。 | |||
紀伊田辺で稲荷神の化身の翁に合う。中国でもあったことがあるという。翁は京都での仏教擁護を誓う。 | |||
817年(弘仁8年) | 5月 | 44 | 弟子の実慧、泰範が高野山に寺院の建設に着手。 |
818年(弘仁9年) | 11月16日 | 45 | 空海初めて高野山に登山。この時、地主神の狩場明神・丹生明神に遭遇し、高野山の地を譲られたという。 |
819年(弘仁10年) | 5月3日 | 46 | 高野山に鎮守神を祭り、壇場結界をする。 |
7月 | 中務省に入る。続いて高雄山寺に入る | ||
この頃、広付法伝、即身成仏義、声字実相義、吽字義、文鏡秘府論 | |||
820年(弘仁11年) | 5月 | 47 | 文筆眼心抄 |
10月 | 伝灯大法師位・内供奉十禅師 | ||
821年(弘仁12年) | 9月7日 | 48 | 藤原葛野麻呂の三回忌。 |
9月 | 讃岐の満濃池を修復。地鎮法を行ったという。1カ月で完成。 | ||
9月7日 | 請来両部曼荼羅、真言七祖像26点を修復。 | ||
822年(弘仁13年) | 2月11日 | 49 | 空海に東大寺に灌頂道場(東大寺真言院)を建立し、息災増盆の秘法を勤修する勅書を下す。 |
6月4日 | 最澄死去。 | ||
夏中と三長斎月に息災増益の修法 | |||
平城上皇が空海を師として灌頂を受ける。 | |||
823年(弘仁14年) | 1月 | 50 | 嵯峨天皇から東寺が授けられる。一説に稲荷神より先に八幡宮を鎮守(東寺八幡宮)としたという。 |
4月13日 | 稲荷神の化身の翁が稲穂と杉葉を持って東寺の空海を訪問(稲荷大明神流記)。 | ||
4月16日 | (嵯峨天皇譲位。淳和天皇即位) | ||
10月10日 | 三学論(真言宗所学経律論目録)を献上し、僧50人で修法 | ||
10月13日 | 皇后院修法。息災法。 | ||
12月2日 | 東寺修法。 | ||
12月23日 | 清涼殿修法。大通方広法。 | ||
弟子の円行(799-852)に両部大法を授ける。 | |||
824年(天長1年) | 3月 | 51 | 神泉苑で請雨経の法。金色の龍が出現したという。 |
3月25日 | 少僧都 | ||
6月16日 | 造東寺別当。 | ||
7月7日 | (平城上皇崩御) | ||
9月27日 | 高雄山寺、定額寺になる。真言僧14人を設置。14人の一人に弟子の円明(?-851)や忠延(生没年不詳)、円行がいる。 | ||
この年、室生寺を再興したという。室生寺の堅慧が空海の弟子となる。 | |||
真済(800‐860)、伝法大阿闍梨となる。 | |||
825年(天長2年) | 5月14日 | 52 | 智泉死去。 |
7月19日 | 仁王会。 | ||
9月25日 | 益田池の碑序。 | ||
826年(天長3年) | 53 | ||
827年(天長4年) | 5月28日 | 54 | 大僧都 |
5月8日 | 勤操死去。 | ||
伏見稲荷大社が東寺の鎮守社となる。 | |||
この年までに道雄(?-851)が師事。 | |||
828年(天長5年) | 12月15日 | 55 | 綜芸種智院を開設。 |
この頃、篆隷万象名義 | |||
「故贈僧正勤操大徳影讃并序」 | |||
829年(天長6年) | 11月5日 | 56 | 大安寺別当。和気氏に神護寺を任せる |
空海、内道場設置を上奏するが受け入れられず。 | |||
830年(天長7年) | 57 | 淳和天皇に『十住心論』『秘蔵宝鑰』を献納。 | |
831年(天長8年) | 6月7日 | 58 | 真雅に伝法灌頂職位を授ける(血脈類集記)。 |
6月14日 | 病により大僧都の辞職を奏上したが、許されなかった(性霊集)。 | ||
9月25日 | 延暦寺円澄ら、空海に書状を送り密教の受学を願う(仁和寺記録)。 | ||
832年(天長9年) | 1月14日 | 59 | 御斎会最終日の紫宸殿論義で護命らと問答する(日本紀略)。 |
8月22日 | 高野山で万灯会・万華会(性霊集)。「金剛峰寺」の名を定めた。 | ||
11月12日 | 嵯峨天皇が空海に川原寺を授ける(水鏡)。 | ||
11月12日 | 高野山に帰り、専ら坐禅する(遺告)。 | ||
833年(天長10年) | 2月11日 | 60 | 真雅に秘印を授ける(血脈類集記)。 |
2月28日 | (淳和天皇譲位。仁明天皇即位) | ||
この年、真然に金剛峰寺に譲り、実恵に補佐させる(行化記)。 | |||
834年(承和1年) | 2月11日 | 61 | 唐招提寺如宝(鑑真に随従して来日)の菩提のために大般涅槃経などを書写し、講讃供養を行う(性霊集)。 |
2月 | 東大寺真言院で法華経を講ず(法華経釈)。 | ||
3月 | 延暦寺西塔釈迦堂の落慶供養に出仕。 | ||
5月28日 | 『承和遺誡』 | ||
8月23日 | 高野山に多宝塔を建立し、曼荼羅を祀るために勧進を募る(性霊集) | ||
空海、宮中中務省で臨時の御修法を行う。 | |||
12月19日 | 後七日御修法勅許(「宮中真言院正月御修法奏状」)。 | ||
12月24日 | 東寺三綱の勅許(類聚三代格)。 | ||
この年、実恵が神護寺別当となる(東寺長者補任)。 | |||
835年(承和2年) | 1月6日 | 62 | 東寺に僧供料を認める勅許 |
1月8日 | 初めての後七日御修法(東寺長者補任)。空海が大阿闍梨を務め、僧14人、沙弥14人が出仕した。 | ||
1月22日 | 真言宗年分度者3人勅許(続日本後紀) | ||
2月30日 | 金剛峰寺、定額寺となる(類聚三代格)。 | ||
3月15日 | 弟子たちに遺言を残す。死後、『弘法大師二十五箇条御遺告』として編纂される。 | ||
3月21日 | 高野山で死去(続日本後紀)。 |
弘法大師信仰
- 835年(承和2年) 3月21日:空海、高野山で死去。前年9月に自ら廟の場所を定めていたという。四十九日の後、真然ら弟子たちが廟所に遺骸を移し、石壇を組み、五輪塔を建て、梵本陀羅尼を納め、さらにその上に宝塔を建て仏舎利を収めたという(金剛峰寺御廟)。
- 835年(承和2年) :一説に弟子の真済が、四国霊場を巡拝したという(四国遍礼功徳記)。861年(貞観3年)に真如法親王が勅許を得て巡拝を始めたともいう。(現在の公式見解は815年(弘仁6年)の開創)
- 835年(承和2年) 10月2日:『空海僧都伝』成立か。著者は真済とされる。
- 平安時代前期:実恵が高野山御持仏堂に真如法親王筆の空海御影を祀り御影堂と称した。
- 857年(天安1年)10月22日:文徳天皇、真済の上奏で空海に大僧正を追贈(文徳実録)。
- 864年(貞観6年):清和天皇、法印大和尚位を追贈。
- 871年(貞観13年):『安祥寺資財帳』に空海の彫像の記述がある(空海彫像の最古の記録)。
- 876年(貞観18年):高野山の真然は師の真雅に頼み、空海親筆『三十帖策子』を東寺から借用。この時はすぐに返却した。
- 881年(元慶5年):高野山の真然は再び『三十帖策子』を東寺から借用。この時の東寺長者の宗叡への反発と、高野山中心主義から返却せず、高野山と東寺の対立の的となった。
- 910年(延喜10年)3月21日:観賢が東寺灌頂院で正御影供を始める。灌頂院の東壁に空海画像が書かれていた。
- 918年(延喜18年)10月:観賢が朝廷に空海の大師号下賜を願うが叶わず。
- 919年(延喜19年):観賢、高野山から『三十帖策子』の返還を実現。東寺が名実共に真言宗の中心的地位を占めるようになる。
- 921年(延喜21年)10月27日:観賢が再度大師号を願い、醍醐天皇は弘法大師号を授与(紀略)。醍醐天皇は夢想により衣を空海に下賜。この衣を観賢が奉じて高野山の御廟を開き、空海に自ら着せたという。衣替行事・御衣加持の起源とされる。『今昔物語集』にも伝説。またこの時随従した淳祐は空海の膝に触れた手に妙香が生涯消えなかったという。そして淳祐が書写した経典にも香りが移り「薫の聖教」と呼ばれ石山寺に現存する。
- 934年(承平4年):100年遠忌。金剛峰寺御影堂で法要を営んだとされる(続風土記)。
- 952年(天暦6年)6月:雷火で高野山御廟が焼失。
- 957年(天徳1年)3月:雅真、高野山御廟を再建。
- 1023年(治安3年)10月22日:藤原道長、高野山御廟に参詣。この時、御廟の中で「空海は生きている」との入定信仰が成立していた(扶桑略記)。『栄花物語』にも説話がある。以後、皇族貴族の参詣が盛んになる。
- 1026年(万寿3年):上東門院彰子が奥之院に納髪(高野春秋)。以後、奥之院への納骨が盛んになる。弥勒下生信仰とも結びつく。
- 1057年(天喜5年):明算が高野山の金剛峰寺御影堂で正御影供を始める。
- 1088年(寛治2年):高野山に「三十口聖人」設置。高野聖の活動が以後盛んになる。大師信仰を全国に徐々に広めていく。
- 1089年(寛治3年):『弘法大師御行状集記』成立。著者は経範という。
- 12世紀:藤原敦光が『弘法大師行化記』を著す。
- 1118年(元永1年):『高野大師御広伝』成立。著者は醍醐寺金剛王院の聖賢。
- 1148年(久安4年)3月:金剛峰寺御影堂の御影供、東寺に準じて行うようになる(続風土記)。
- 1152年(仁平2年):兼意が『弘法大師御伝』を著す。
- 1159年(平治1年):美福門院、金剛峰寺御影堂に『弘法大師御手印縁起』を奉納。
- 1172年(承安2年):阿観が河内に空海御影の「第三伝」を祀り河内・金剛寺を創建。
- 1189年(文治5年):仁和寺の守覚法親王が『三十帖冊子』を東寺から借用。以来返却せず、現代に至る。
- 1192年(建久3年):空海旧跡の復興を志す文覚をこの頃から源頼朝や後白河法皇が支援するようになり、神護寺、東寺、西寺、高野山大塔を復興。
- 鎌倉時代:一説に衛門三郎が四国霊場巡礼を始めたという。(現在の公式見解は815年(弘仁6年)の開創)
- 1209年(承元3年):善通寺の瞬目大師御影が上洛し、後鳥羽上皇らが拝観。1225年(嘉禄1年)にも。
- 1233年(天福1年)10月:東寺長者親厳は仏師康勝に御影像を造立させ、空海住房を起源とする東寺不動堂に祀った。(現存最古の空海木像)
- 1239年(延応1年)12月:宣陽門院(1181-1252)、荘園を東寺に寄進。行遍を支援。大師信仰が深く仏舎利、経論、仏像などを東寺御影堂に寄進。
- 1240年(仁治1年)3月:東寺長者覚教は不動堂(空海住房が起源)の北側に御影堂を増築し、1233年(天福1年)に造立した空海御影像を奉遷。御影堂阿闍梨5人を置き、灌頂院で行っていた御影供を御影堂に場所を移した。
- 13世紀半ば:この頃、『弘法大師行状記』(東寺蔵。現存)成立か。東寺の立場で、先行する空海絵伝の諸本を取捨して新たに編纂したもの。絵伝には多くの系統がある。
- 1253年(建長5年):二尊院湛空、飛行三鈷杵を金剛峰寺御影堂に返納。
- 1331年(元弘1年/元徳3年):宥範が善通寺を復興し、誕生院を興す。
- 1355年(正平10年/文和4年):延暦寺の所蔵となっていた『風信帖』が東寺に寄進された。
- 1379年(天授5年/康暦1年)12月:東寺御影堂焼失。翌年11月、仁和寺宮や将軍足利義満らの寄進で再建。
- 室町時代:四国霊場が巡礼路として定着してくる。
- 1521年(大永1年):金剛峰寺御影堂、焼失。
- 1532年(天文1年):『塵添〓嚢鈔』成立。乙訓寺の「合体大師像」の記述がある。
- 1579年(天正7年):伝真如法親王親筆の弘法大師画像のある尾背寺が焼失し、金刀比羅金光院内の御影堂に奉遷。
- 1586年(天正14年)4月:快真らの勧進で高野山御廟を再建。
- 1630年(寛永7年):金剛峰寺御影堂、焼失。
- 1637年(寛永14年):仁和寺御影堂を再建。慶長年間再建の旧清涼殿を移築した。
- 1689年(元禄2年):寂本、『四国遍礼霊場記』を記す。善通寺を起点として90カ所以上記す。以後、庶民の四国霊場巡拝が盛んになる。
- 江戸時代中期:京都で三弘法参りが始まる。
- 1737年(元文2年):将軍徳川吉宗が西新井大師総持寺を参詣。これ以前から学問寺・大寺として有力寺院であり総持寺賢真は1614年(慶長19年)4月4日駿府での徳川家康の御前論義に出仕していたが、江戸時代中期から庶民の参詣が増える。
- 1789年(寛政1年):多度津海岸寺が『大師御伝記』を発効し、空海の生誕地を称する。善通寺と海岸寺の間で生誕地紛議が起こる。
- 1796年(寛政8年)10月:将軍徳川家斉が川崎大師平間寺を参詣。厄除信仰と結び付いた大師信仰の霊場として江戸民衆の信仰を集めた。1663年(寛文3年)には「災厄消除弘法大師への道」碑が川崎宿に建立されていた。
- 1816年(文化13年)9月:生誕地紛議に政治決着。善通寺は丸亀藩に訴え、丸亀藩は支藩の多度津藩に圧力を加えた。多度津藩は、海岸寺に「誕生所と勘違いさせないように」命令し、大師母公別館と称すること、産盥を公開することを禁じて、屏風浦の号を削除させた。
- 1823年(文政6年)3月:善通寺で大師降誕1050年嘉辰法会。丸亀藩や多度津藩、幕府領に勧進している。3月15日から4月1日まで。
- 1843年(天保14年):金剛峰寺御影堂、焼失。
- 1850年(嘉永3年):金剛峰寺御影堂を再建。1848年(嘉永1年)とも。
- 1920年(大正9年):伊予・岩屋寺大師堂、再建。河口庄一の設計。一部に西洋建築の意匠を取り入れた近代の寺院建築の好例とされる。
- 1984年(昭和59年):中国西安の青龍寺跡に恵果・空海記念堂を建立。
- 1993年(平成5年):中国福建の赤岸鎮に赤岸鎮・空海大師記念堂を建立。
墓廟
- 金剛峰寺奥之院:和歌山県伊都郡高野町高野山にある真言宗寺院。
- 東寺御影堂:京都府京都市南区九条町にある真言宗寺院。
- 善通寺:香川県善通寺市善通寺町にある真言宗寺院。
- 醍醐寺御影堂:
- 神護寺大師堂:
- 仁和寺御影堂:
- 金剛寺御影堂:
- 室生寺御影堂:
- 根来寺大師堂:
- 平間寺:神奈川県川崎市川崎区大師町にある真言宗寺院。川崎大師。
- 笠原寺:京都府京都市山科区大宅岩屋殿にある真言宗寺院。平間寺の京都別院。
- 武蔵・総持寺:東京都足立区西新井にある真言宗寺院。西新井大師。
- 尾張・岩屋寺:愛知県知多郡南知多町山海間草にある寺院。古来、天台宗だったが戦後独立。現在は尾張高野山総本山を称す。
- 乙津寺大師堂:岐阜県岐阜市鏡島中にある臨済宗寺院。臨済宗妙心寺派。
- 神光院:京都府京都市北区西賀茂神光院町にある真言宗寺院。空海を本尊とする。真言宗単立。
- 長岳寺:奈良県天理市柳本町にある真言宗寺院。高野山真言宗。釜口大師。
- 神呪寺:兵庫県西宮市甲山町にある真言宗寺院。甲山大師。
- 豊乗寺:鳥取県八頭郡智頭町新見にある真言宗寺院。
- 伊勢丹生・神宮寺:三重県多気郡多気町丹生。丹生大師。
- 願成寺跡大師堂:愛媛県宇和島市蛤。四国八十八カ所の番外札所だった。鯨大師。
- 東長寺大師堂:
旧跡
入唐前
入唐
入唐後
真蹟
御影
様式
- 普通様式:真如親王様とも。
- 栄海様式
- 稚児大師
- 修行大師
- 日輪大師
- 清涼殿大師
- 弥勒大師
御影像
- 高野山像:画像。高野山金剛峰寺御影堂に祀る。真如法親王が生前の姿を描いたとされる。根本御影とも呼ばれる。秘仏。
- 天野山像:絹本の画像。金剛寺御影堂に祀る。
- 東寺像:木像。東寺御影堂に祀る。1233年(天福1年)10月、仏師康勝が造立。
- 瞬目大師:普通様式の画像。善通寺に祀る。
- 廿日大師:普通様式の木像。高野山清浄心院の大師堂に祀る。死去の前日、つまり835年(承和2年)3月20日に自ら彫ったものという。
- 爪彫大師:普通様式の板彫画像。高野山龍光院に伝来。空海が自ら爪で彫ったという。
- 種蒔大師:木像。阿波・東林院に伝来。
- 厄除大師(高野山):普通様式の木像。高野山奥之院不動堂。
- 鏡大師:異様の木像。青蓮寺の本尊。
- 横向大師:万日大師。
- 見返大師:
- 子安大師:
- 肺大師:
- 鯖大師:行基庵
- 目引大師:
- 合体大師:異様の木像。乙訓寺の本尊。八幡神と空海が一体となった像で、お互いに相手の姿を彫ったという。