ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

曼殊院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年2月25日 (月)

曼殊院門跡から転送)
移動: 案内, 検索

曼殊院(まんしゅいん)は、京都府京都市左京区にある、天満信仰天台宗門跡寺院。本尊は阿弥陀如来天台宗延暦寺派門跡寺。西塔北谷東尾坊が起源という。北野天満宮を管轄下に置いた。配下に目代の春林坊、社務三家の松梅院徳勝院妙蔵院があった。曼殊院門跡竹内門跡北野寺務宮とも称す。北野天満宮関連旧跡

目次

歴史

延暦年間、最澄が比叡山に建てた坊が起源とされる。 天慶年間、是算が西塔北谷に移し、東尾坊(とうびぼう)と称した。 是算は菅原氏出身であったことから菅原道真を祀る北野天満宮の創建に当たり、1004年その別当となる。別当となったのは忠尋の代からともいう。 そのために京都に設けられた里坊が現在の曼殊院の直接の起源と思われ、天仁年間、曼殊院と称する。 当初の位置は不詳だが、永久年間、北山に移転した。あるいはこの時が里坊の始まりともいう。 場所は現在の鹿苑寺(金閣寺)のあたりという。1335年、戦乱を避け常陸・西蓮寺に一時避難したという(同寺縁起)。

足利義満が北山山荘の造営のために御所近くに移した。 比叡山の本坊は南北朝時代にはあったが後に途絶えたらしく、京都の里坊だけが残った。 文明年間、門跡寺院となる。 1656年、現在地に移転。現在地は古代の月林寺の跡地という。

神仏分離まで北野天満宮の他、菅大臣神社を管轄した。

(国史大辞典、日本歴史地名大系)

組織

住職

  • 最澄(767-822)<>:日本天台宗の開祖。767年(神護景雲1年)生。延暦年間に曼殊院の前身となる坊を開いたという。822年(弘仁13年)死去。
  • 円仁(794-864)<>:794年(延暦13年)生。864年(貞観6年)死去。
  • 安恵(795-868)<>:795年(延暦14年)生。868年(貞観10年)死去。
  • 寂円()<>:
  • 玄昭?(846-917)<>:円仁、長意に学ぶ。
  • 玄鑑()<>:
  • 覚恵()<>:
  • 慈恵?()<>:
  • 是算(生没年不詳)<>:菅原氏。曼殊院を創建。1004年(寛弘1年)北野天満宮別当に任じられる。
  • 遍救(962-1030)<>:962年(応和2年)生。覚忍・是算に師事。比叡山静慮院。1018年(寛仁2年)北野天満宮別当。1030年(長元3年)10月12日死去。69歳。
  • 暹円?
  • 教円(979-1047)<>:天台座主。藤原孝忠の子。979年(天元2年)生。花山法皇や陽生に師事。南都で法相・倶舎を学ぶ。1033年(長元6年)法性寺八講講師。阿闍梨。1038年(長暦2年)大僧都。1039年(長暦3年)天台座主。1047年(永承2年)6月10日死去。69歳。
  • 長算(992-1057)<>:慈徳寺別当。法興院別当。藤原氏。992年(正暦3年)生。覚運・皇慶に師事。1057年(天喜5年)9月3日死去。66歳。檀那院と号す。
  • 仁暹()<>:法性寺座主。
  • (頼円?)()<>:
  • 真尊()<>:
  • 頼延()<>:
  • 忠尋(1065-1138)<>:天台座主。源忠季の子。1065年(治暦1年)生。曼殊院に住す。曼殊院と名乗るのはこの代からという。西塔北谷の東陽房に住し、1115年(永久3年)その里坊として京都東山の大谷に十楽院を創建。1130年(大治5年)天台座主。1137年(保延3年)大僧正兼法務。恵心流を興隆し、東陽院流を興した。大谷座主と呼ばれた。1138年(保延4年)死去。
  • 顕尋()<>:十楽院7世。
  • 円仙()<>:
  • 仙範()<>:
  • 承信()<>:
  • 承兼()<>:
  • 公澄()<>:公証?
  • 道救()<>:
  • 慈順()<>:北山に移転。法務。
  • 慈厳(1298-1359)<>:天台座主。洞院実泰の子。1298年(永仁6年)生。父の叔父にあたる慈順に師事。1330年(元徳2年)に7カ月のみ天台座主を務め、1351年(正平6年/観応2年)から翌年にかけて再び天台座主を務めた。1359年(正平14年/延文4年)9月28日死去。62歳。著作に『公家御修法目録』。
  • 慈快()<>:
  • 慈守()<>:
  • 慈昭()<>:法性寺座主。
  • 道豪()<>:天台座主。
  • 良順(1378-1421)<>:天台座主。二条師良の子。1378年(天授4年/永和4年)生。道順に師事。1409年(応永16年)から1411年(応永18年)まで天台座主。1421年(応永28年)2月12日死去。44歳。
  • 覚什()<>:
  • 良什(?-1460)<>:天台座主。一条経嗣の子。1421年(応永28年)曼殊院門跡。護持僧。将軍足利義教の怒りをこうむる。復帰後、1431年(永享3年)天台座主。1460年(寛正1年)6月4日死去。
  • 良鎮()<>:
  • 慈運法親王(1466-1537)<>:法性寺座主。伏見宮貞常親王王子。後土御門天皇猶子。初名は良厳。1495年(明応4年)、曼殊院に入り、以後、門跡寺院となる。1530年(享禄3年)二品。1533年(天文2年)法性寺座主を兼務。1537年(天文6年)死去。通称は二品僧正。
  • 覚恕法親王(1521-1574)<>:天台座主。後奈良天皇皇子。1537年(天文6年)、曼殊院門跡と北野天満宮別当職を継承。1557年(弘治3年)、准三宮。1570年(元亀1年)、天台座主。翌年、織田信長が比叡山を焼き討ち。1574年(天正2年)死去。墓所は曼殊院宮墓地。著作は『真如堂供養弥陀表白』『金曼表白』など。金蓮院准后。
  • 良恕法親王(1574-1643)<>:天台座主。1525年(大永5年)曼殊院で得度。1643年(寛永20年)死去。
  • 良尚法親王(1622-1693)<>:天台座主。八条宮智仁親王の第二王子。1627年(寛永4年)曼殊院に入る。1632年(寛永9年)後水尾上皇の猶子となる。1634年(寛永11年)親王宣下。得度。1646年(正保3年)から1650年(慶安3年)まで天台座主。1656年(明暦2年)、曼殊院を現在地に移転。1692年(元禄5年)引退して天松院と号す。翌年死去。
  • 良応法親王(1678-1708)<>:天台座主。後西天皇第十一皇子。1687年(貞享4年)、親王宣下。同年、曼殊院門跡。1708年(宝永5年)6月28日、天台座主となり死去。円妙院と号す。
  • 慈仁法親王(1723-1735)<>:仁和寺に移る。中御門天皇皇子。1724年(享保9年)、曼殊院に入るが、1729年(享保14年)仁和寺門跡に移る。
  • 良啓法親王(公啓法親王)(1732-1772)<>:1735年(享保20年)、曼殊院に入り、1743年(寛保3年)親王宣下。翌年得度。1752年(宝暦2年)輪王寺宮に移る。
  • 公璋法親王(1760-1776)<>:輪王寺宮。閑院宮典仁親王の第三王子。
  • 精宮()<>:慈性入道親王?
  • 富宮()<>:朝彦親王?
  • 譲仁法親王(1824-1842)<>:伏見宮邦家親王王子。光格天皇猶子。1834年(天保5年)親王。同年出家して曼殊院に入る。1842年(天保13年)6月29日死去。19歳。
  • 光檀()<>:
  • 石室孝暢()<>:
  • 山岡観澄?
  • 中村勝契()<>:
  • 久田全珖()<>:
  • 山口光円(1891-1972)<1947->:仏教学者。天台宗西部大学卒。同大学教授。比叡山専修院院長。叡山学院院長。徳源院住職。1947年(昭和22年)、曼殊院門跡。1967年(昭和42年)天台宗勧学院院長。1972年(昭和47年)死去。著作に『天台浄土教史』。
  • 山口円道()<>:
  • 半田孝淳()<-2007>:2007年(平成19年)2月、天台座主に昇任。
  • (浜中光礼)<2007-2007>:宗務総長として代務。
  • 42藤光賢(1932-)<2007->:宗務総長。1932年(昭和7年)生。1950年(昭和25年)得度。大正大学文学部卒。天台仏教青年連盟代表。1979年(昭和54年)宗会議員。宗会議長。宗会副議長。1997年(平成9年)12月から2001年(平成13年)12月まで宗務総長。2007年(平成19年)12月2日曼殊院門跡門主に就任(任期は7年間)。自坊は佐賀金乗院。(『天台ジャーナル』58)

(望月仏教大辞典、竹内秀雄『天満宮』)


  • 他に道順(?-1402)を挙げる書もある。
  • 「曼殊院門跡伝法師跡次第」『続群書類従』96[1]:良尚まで記載。
  • 『諸門跡譜』[2]:是算から良尚まで記載。
  • 「曼殊院門跡伝法師跡次第」『諸門跡承伝系図』[3]:良尚まで記載。
  • 『諸門跡之譜』[4]:是算から良応まで記載。
  • 「曼殊院志」『北野誌』[5]:譲仁まで記載
  • 「諸門跡伝―毘沙門堂・曼殊院・滋賀院」『華頂要略』142[6]:遍救から譲仁まで。
  • 「天台宗曼殊院門跡歴代」『日本仏家人名辞書』[7]:最澄から譲仁まで。
  • 「天台宗曼殊院門跡歴代」『望月仏教大辞典』[8]:最澄から観澄まで。
  • 「曼殊院門跡歴代」『日本天台宗年表』:未見。
  • 『門葉記』?[9]

子院

  • 随縁院
  • 修学院
  • 静慮院

資料

  • 『曼殊院縁起』
  • 1942『曼殊院宮覚恕准三宮御歌集』
  • 1953『重要文化財曼殊院書院修理工事報告書』
  • 1962『重要文化財曼殊院本堂修理工事報告書』
  • 1984『曼殊院蔵書目録 京都大学国語国文資料叢書50』臨川書店:光田和伸解説
  • 1997『重要文化財曼殊院本堂・書院・庫裏修理工事報告書』
  • 2000『名勝曼殊院書院庭園記念物』
  • 1982「曼殊院相承新譜―曼殊院蔵国語国文資料2」『国語国文』51-2:赤瀬信吾翻刻
  • 「曼殊院文書」
  • 『京都府古文書等緊急調査報告書・曼殊院古文書・聖教目録』
  • 「曼殊院門跡寺領御預記録抜書」[10]
  • 「曼殊院宮御世話雑誌」[11]
  • 「天台宗曼殊院」『京都府寺志稿』
  • 「曼殊院」『古事類苑』[12]

文献

  • 1910『北野誌』
  • 魚澄惣五郎1931「曼殊院文書に就いて」『古社寺の研究』
  • 1953「曼殊院の書院」『史迹と美術』23-7
  • 岡部伊都子1960「黄不動の忿怒―曼殊院」『芸術新潮』11-8
  • 山本堯光1974「曼殊院門跡領の一考察」『大正史学』4
  • 新井栄蔵1978「曼殊院とその学問略記―曼殊院蔵国語国文資料」『国語国文』47-1
  • 中村昌生・日向進1980「京の古建築29曼殊院」『日本美術工芸』500
  • 大谷雅夫1982「曼殊院良応法親王と伊藤仁斎・東涯―曼殊院蔵国語国文資料2」『国語国文』51-2
  • 光田和伸1982「譲仁親王―曼殊院最後の法親王とその教育―曼殊院蔵国語国文資料2」『国語国文』51-2
  • 新井栄蔵1982「曼殊院資料の背景―歴代門主の法系・俗系をめぐって―曼殊院蔵国語国文資料2」『国語国文』51-2
  • 赤瀬信吾1983「曼殊院良鎮とその遠景」『国語国文』52-9
  • 京都国立博物館1999『京都社寺調査報告20曼殊院』
  • 菅野扶美2000「『北野天神縁起』と『天神講式』の作者圏―史料編纂所蔵『天神講式』奥書にみる曼殊院と天神信仰再編」『中世文学の展開と仏教』
  • 菊地大樹2007「門跡寺院の成立と継承「曼殊院文書」の伝来と構成」『中世の寺院と都市・権力』山川出版社
  • 生駒哲郎2007「聖教の継承と曼殊院門跡」『中世の寺院と都市・権力』山川出版社
  • 大塚紀弘2007「曼殊院門跡の成立と相承」『中世の寺院と都市・権力』山川出版社
  • 青木千代子2010「曼殊院所蔵佚名楽書解題・翻刻」『日本音楽史研究』7
  • 大塚紀弘2017「中世の曼殊院門跡」『中世の門跡と公武権力』戎光祥出版
  • 竹居明男2001「北野別当に関する基礎的考察―十三世紀半ばまでの北野別当歴代の復元を中心に」『人文學』[13]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9B%BC%E6%AE%8A%E9%99%A2」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール