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毘沙門堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月16日 (土)
(毘沙門堂門跡から転送)
毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都府京都市山科区安朱稲荷山町(山城国宇治郡)にある、毘沙門信仰の天台宗門跡寺院。本尊は毘沙門天。天台宗延暦寺派門跡寺。護法寺、尊重寺、平等寺を合併して成立したという。江戸時代に天海、公海が輪王寺宮(寛永寺・日光輪王寺)の拠点として復興。毘沙門堂門跡。山科御殿。出雲寺。安国院。山号は護法山。
目次 |
歴史
『宇治郡名勝誌』では、703年(大宝3年)4月21日に文武天皇の勅願で京都出雲路(現在の上御霊神社から相国寺一帯)に創建されたというが、鎌倉時代初期に平氏ゆかりの3寺を統合して成立したとみられる。また出雲寺という名称の古代寺院(上御霊神社の神宮寺)が出雲路の地にあったことが知られ、現在も出雲路山の山号を称する毫摂寺(福井県越前市、真宗出雲路派本山)も出雲路の地にあった(京都・毫摂寺)。何らかの関係があったとみられるがはっきりしない。
前身寺院の起源
- 平安時代初期:葛原親王が太秦・平等寺を創建。広隆寺の西にあった。のち焼失した。(平親範置文)
- 平安時代初期:平親信、五辻に尊重寺が創建。廃絶して本尊のみが大原に移転した。(平親範置文)
- 平安時代:平範家、伏見・護法寺を創建。大日如来・釈迦如来・薬師如来の丈六仏3体があった。阿弥陀堂と毘沙門堂もあった。(平親範置文)
- 1161年(応保1年):護法寺、平治の乱で焼けたとみられ、本尊を北岩倉に移転。(平親範置文)
- 1162年(応保2年):護法寺、堂宇を建てた。(平親範置文)
- 1163年(長寛1年):護法寺は寺門派であったため、山門衆徒に焼かれた。(平親範置文)
- 1165年(永万1年):残った護法寺の多聞天像を大原来迎院近くに移し、後年、堂宇を建てて祀った。(平親範置文)
- 1195年(建久6年):護法寺、出雲路に移転した。(平親範置文)
桜の名所として
- 1214年(建保2年)頃:平親範(円智)が平等寺・尊重寺・護法寺の3寺を統合。出雲路に五間の一宇を建てて3寺の本尊を祀り、西を平等寺、東を尊重寺、中を護法寺に擬した。(平親範置文)
- 1233年(天福1年)2月21日:『明月記』に「毘沙門堂花半開云々」とあり、桜の名所だった。謡曲『西行桜』にも「毘沙門堂の花盛り」と謳われた。
- 1339年(延元4年/暦応2年)11月6日:毘沙門堂付近が焼失(師守記)。のち廃絶したらしい。
日光門跡の出張所として再興
- 1611年(慶長16年):後陽成天皇が天海に復興を命じる。
- 1665年(寛文5年):天海の弟子の公海が輪王寺宮(日光門跡、寛永寺)の京都での拠点として現在地に復興(輪王寺宮年譜)。
- 1682年(天和2年):公弁法親王が入り、門跡寺院に加えられた。
- 1686年(貞享3年):後西天皇の旧殿を宸殿として移築。
寺領1070石。
伽藍
- 本堂
- 霊殿:阿弥陀如来を本尊。歴代門主の位牌を祀る。1563年(永禄6年)京都御所から移築。
- 宸殿:後西天皇の旧殿を1686年(貞享3年)移築。
- 庫裏
- 観音堂
- 高台弁財天
- 輪王寺宮毘沙門堂墓地
子院
組織
住職
- 公尊まで『日本仏家人名辞書』。「公海」~「玄航」は『望月仏教大辞典』。
- 現在は毘沙門堂の住職を門主と称す。現在の任期は7年間。
- 世数は要検討。資料によって人名が異なる。
- 日本天台宗年表[1]に今出川行全~杉谷義良、能久親王御遺蹟建碑志[2]に今出川行全~渋谷慈鎧。
- 中世は三条家とのつながりが強かった。近世には輪王寺宮の京都での拠点となった。
世数 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1? | 明禅 | 1167-1242 | 1167年(仁安2年)生。葉室成頼の子。林泉坊にいた。天台密教毘沙門堂流の祖の智海の弟子。顕真に学ぶ。あるいは明禅が毘沙門堂流の祖ともいう。毘沙門堂初代別当仙雲に師事。晩年は浄土教に帰依し、法然門下の信空の弟子になったともいう。1242年(仁治3年)5月2日死去。76歳。萩焼法印、中納言法印、毘沙門堂法印と呼ばれた。(華頂要略諸門跡伝)(高橋秀栄「毘沙門堂流の学匠たち」[3]、「毘沙門堂と明禅」) | |
顕瑜 | 生没年不詳 | 林泉坊にいた。明禅の弟子。早世。 | ||
経海 | 1207-1278 | 妙観院と号す。妙観院は毘沙門堂の山上の拠点で西塔東谷にあった。横川竹林寺探題。1266年(文永3年)3月6日権僧正。(華頂要略諸門跡伝) | ||
公豪 | 1196-? | 天台座主。大僧正。左大臣三条実房の子。明禅の弟子。1248年(宝治2年)3月4日、権僧正。1278年(弘安1年)4月2日、天台座主。同年または1282年(弘安5年)座主を辞任。毘沙門堂法印、林泉坊と号す。(華頂要略諸門跡伝) | ||
実禅 | 生没年不詳 | 法務。権僧正。内大臣三条公親の三男。(華頂要略諸門跡伝) | ||
実超 | 生没年不詳 | 大僧正。内大臣三条公親の十四男。(華頂要略諸門跡伝) | ||
実尊 | 生没年不詳 | 大僧正。内大臣三条公茂の三男。法務。実超の弟子。1332年(正慶1年)6月9日、法印権大僧都。24日権僧正・法務。(華頂要略諸門跡伝) | ||
実救 | 生没年不詳 | 内大臣三条公茂の六男。法眼。実尊の弟子。(華頂要略諸門跡伝) | ||
実円 | 生没年不詳 | 大僧正。公忠の子。林泉坊と号す。権僧正。実尊の弟子。1413年(応永20年)11月16日、天台座主。しかし拝堂に及ばず、大衆訴訟により追放される。1416年(応永23年)9月20日大講堂供養に出仕。(華頂要略諸門跡伝) | ||
実修 | 生没年不詳 | 権中納言藤原伊実の子。太政大臣藤原伊通の孫。法印。年代が合わないか。(華頂要略諸門跡伝) | ||
公承 | 1406-1485 | 三条実冬の子。天台座主。法務。1406年(応永13年)生。1440年(永享12年)3月4日、北野一切経会勤仕。1447年(文安4年)1月27日天台座主。1448年(文安5年)9月21日拝堂。1485年(文明17年)11月28日死去。80歳。(華頂要略諸門跡伝) | ||
明円 | 生没年不詳 | 大僧正。内大臣正親町三条実継の子。公忠の子とも。(華頂要略諸門跡伝) | ||
忠承 | 生没年不詳 | 九条家出身。関白内大臣九条政忠の子。1481年(文明13年)公承の室に入る[4]。1506年(永正3年)9月23日、清涼殿で後土御門院七回忌の伴僧を勤仕。1528年(享禄1年)4月6日、清涼殿で後柏原院三回忌の導師。(華頂要略諸門跡伝) | ||
公意 | 生没年不詳 | |||
覚真 | 生没年不詳 | |||
観経 | 生没年不詳 | |||
行然 | 生没年不詳 | |||
仙雲 | 生没年不詳 | |||
成尊 | 生没年不詳 | |||
仙尊 | 生没年不詳 | |||
遍豪 | 生没年不詳 | |||
公厳 | 生没年不詳 | 内大臣中院通為(1517-1565)の子。権僧正。還俗。以後、寺号のみが存続したという。(華頂要略諸門跡伝) | ||
天海 | 1536-1643 | 中興 | ||
公海 | 1607-1695 | 花山院忠長の子。寛永寺2世。久遠寿院と号す。 | ||
守澄法親王 | 1634-1680 | 輪王寺宮3代。『日本仏家人名辞書』になし。 | ||
天真法親王 | 1664-1690 | 輪王寺宮。『日本仏家人名辞書』になし。 | ||
公弁法親王 | 1669-1716 | 輪王寺宮。 | ||
童形 | 『望月仏教大辞典』になし。 | |||
公尊法親王 | 『望月仏教大辞典』になし | |||
公寛法親王 | 1697-1738 | 輪王寺宮。 | ||
公遵法親王 | 1722-1788 | 輪王寺宮。 | ||
公啓法親王 | 1732-1772 | 輪王寺宮。 | ||
公顕法親王 | 1760-1776 | 輪王寺宮。公璋(公顕)法親王 | ||
公延法親王 | 1762-1803 | 輪王寺宮。 | ||
公澄法親王 | 1776-1828 | 輪王寺宮。 | ||
舜仁法親王 | 1789-1843 | 輪王寺宮。舜仁(公猷)法親王 | ||
公紹法親王 | 1815-1846 | 輪王寺宮。公詔 | ||
慈性法親王 | 1813-1867 | 輪王寺宮。 | ||
公現法親王 | 1847-1895 | 輪王寺宮。能久親王。 | ||
今出川行全 | 今出川尚季の猶子。分部家の典医の子。 | |||
赤松光映 | 1819-1895 | 天台座主233世。公英。竹林坊曇覚。輪王寺執当。寛永寺等覚院住職。 | ||
中山玄航 | 1828-1917 | 1894-1917 | 天台座主238世。自坊は延暦寺正覚院。播磨国多加野村出身。1828年(文政11年)生。9月で比叡山に登り、覚林坊扁典に師事。1837年(天保8年)得度。1859年(安政6年)5月、中山忠能の猶子となる。同年宮中御懺法講に参勤。1883年(明治16年)天台宗管長代理として上京し、宗務の課題の処理に当たる。天台宗宗制の立案に貢献する。1894年(明治27年)毘沙門堂門跡。1895年(明治28年)5月3日、内務省訓令第5号で天台宗事務取扱となる(1896年(明治29年)6月24日まで)。1899年(明治32年)1月、天台座主。翌年辞職か。1901年(明治34年)毘沙門堂に戻る。1917年(大正6年)3月29日死去。91歳。[5] | |
稗貫亮算 | 1852?-1925 | 1917- | 金峰山寺住職。廬山寺住職。浄蓮華院住職。京都方広寺住職。1915年(大正4年)4月から1917年(大正6年)8月1日まで金峰山寺住職。1917年(大正6年)8月、毘沙門堂門跡[6]。1925年(大正14年)死去。 | |
奥田公昭 | 1870-1933 | 1925- | 長野市出身。1870年(明治3年)生。1883年(明治16年)得度。1911年(明治44年)比叡山円龍院住職。般舟院住職、越後国分寺住職、真正極楽寺住職など歴任。1923年(大正12年)僧正。妙法院執事長。1925年(大正14年)毘沙門堂門跡。1933年(昭和8年)死去。[7][8] | |
菊岡義哀 | 1865-1936 | 1929-1936 | 自坊は仏乗院。福井県出身。1865年(慶応1年)生。生家は浅井家。滋賀県の菊岡家を継ぐ。比叡山大学林卒。1894年(明治27年)1月、延暦寺千光院住職。のち仏乗院に転じる。1916年(大正5年)5月、天台宗西部大学長兼中学長。1919年(大正8年)1月、滋賀院門跡。1923年(大正12年)5月、延暦寺執行。1927年(昭和2年)9月宗機顧問。1928年(昭和3年)4月、大僧正。同年9月、探題。1929年(昭和4年)2月、毘沙門堂門跡。比叡山大学長。1936年(昭和11年)2月18日死去。揚台光院と号す。[9][10][11](1937年(昭和12年)5月9日、水尾寂暁が毘沙門堂門跡に当選するが辞退[12][13]。) | |
太田深澄 | 1871-1953 | 不詳 | 岐阜県出身。1871年(明治4年)生。天台宗大学卒。11歳で宗休寺で修行。1906年(明治39年)西明寺住職。天台宗務庁で総務、庶務部長、精査局長、専修院理事長、延暦寺安詳院住職など歴任。1946年(昭和21年)3月26日、青蓮院門跡[14]。1953年(昭和28年)3月24日死去[15]。82歳。[16][17][18] | |
杉谷義良 | 1870-1946 | 1936-1939 | 自坊は寛永寺円珠院。福井県南条郡出身。杉谷又助の次男。1870年(明治3年)生。1883年(明治16年)妙永寺三浦義千に師事。比叡山一号中学林に入学。桑実寺大多喜守英のもとで四度加行。大多喜守英に従い、寛永寺円珠院に移る。上野の天台宗大学林支校に入る。1891年(明治24年)3月、円珠院住職。1926年(昭和1年)3月から1934年(昭和9年)7月まで谷中天王寺住職[19][20]。寛永寺執事長。1936年(昭和11年)11月14日[21]から1939年(昭和14年)6月8日まで毘沙門堂門跡[22]。1946年(昭和21年)7月28日死去。77歳。慈昭心院と号す。[23] | |
渋谷慈鎧 | 1876-1947 | 1939-1941 | 天台座主249世。1939年(昭和14年)8月1日毘沙門堂門跡。(略歴は延暦寺#組織を参照) | |
中山玄秀 | 1879-1959 | 1941- | 天台座主250世。自坊は比叡山真乗院。1879年(明治12年)生。1941年(昭和16年)6月28日、毘沙門堂門跡[24]。1959年(昭和34年)11月9日死去。80歳。 | |
山中忍海 | 1888-1979 | 1958- | 宗務総長。1888年(明治21年)生。1912年(大正1年)早稲田大学哲学科卒。聖衆来迎寺住職。1958年(昭和33年)4月28日、毘沙門堂門跡門主。1979年(昭和54年)2月6日死去。[25][26] | |
梅山円了 | 1903-1997 | 1978-1991 | 天台座主254世。1978年(昭和53年)から1991年(平成3年)まで毘沙門堂門跡門主。 | |
誉田玄昭 | 1915-1999 | 1993-1999 | 探題。延暦寺執行。自坊は延暦寺法曼院。天台声明の権威。兵庫県出身。1915年(大正4年)生。比叡山専修院(叡山学院専修科)卒。延暦寺一山会議議長。叡山学院教授。大津市議会議員。1966年(昭和41年)から翌年まで市議会議長。比叡山中高校長、幼稚園長。1990年(平成2年)頃、延暦寺執行、在職。勧学。毘沙門堂門跡門主。1993年(平成5年)10月30日晋山式[27]。1997年(平成9年)探題。1999年(平成11年)12月11日死去。84歳。 | |
森川宏映 | 1925-2021 | 1999-2006 | 天台座主256世。1999年(平成11年)11月19日から2006年(平成18年)11月19日まで毘沙門堂門跡門主。2015年(平成27年)12月14日天台座主・延暦寺住職に就任。(略歴は延暦寺#組織を参照) | |
61? | 叡南覚範 | 1926-2023 | 2006-2020 | 東京都日野市出身。1926年生。叡南祖賢に師事。1949年、比叡山専門学院卒業。1950年、延暦寺玉蓮院住職。延暦寺財務部長、法務部長、参拝部長、教化部長、管理部長を歴任。また叡山学院院長、叡山文庫長、宗議会議員、「一隅を照らす運動」会長、世界連邦日本仏教徒協議会会長など歴任。1988年、延暦寺執行。1992年、延暦寺建立院住職。1996年戸津説法。2014年探題。2006年から2020年まで毘沙門堂門跡。2023年7月26日死去。96歳。 |
62? | 今出川行雲 | 1936- | 2020-2027予定 | 自坊は延暦寺大林院。滋賀県大津市出身。1937年(昭和12年)生。1960年(昭和35年)立命館大学文学部卒。1962年(昭和37年)叡山学院研究科卒。同年大林院住職。1983年(昭和58年)宗議会議員。1988年(昭和63年)延暦寺副執行・教化部長。2005年(平成17年)延暦寺執行。2008年(平成20年)比叡山居士林所長、延暦寺大霊園園長。2016年(平成28年)戸津説法。2020年(令和2年)11月19日、毘沙門堂門跡門主。 |