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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

金峰山寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年8月21日 (金)

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金峰山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある修験道の根本道場の寺院。金峰山修験本宗総本山。本尊は蔵王権現役小角が創建。大峰山寺は元々は金峰山寺の一部だった。中世までは興福寺の支配下にあり、江戸時代は天台宗輪王寺宮の支配下にあった。明治初年には強行な神仏分離で一時廃絶となった。戦後、独立宗派を立てた。鎮守は勝手神社吉野水分神社吉野・金峰神社など。金峯山寺大峰山も参照。山号は国軸山。

目次

歴史

草創

天武2年(673)、役小角が山上ケ岳で蔵王権現を感得して涌出岩の上に祀ったのが起源。 行基創建説もあるという。

古代

角乗が天武天皇離宮の日雄殿を寺院として桜本坊を創建

弘仁9年(818)、空海が入峰し竹林院を創建。 聖宝が中興。如意輪観音、多聞天、蔵王権現を祀ったという。 さらに牟田の渡しを設けたとされる。 承和年間、円珍が入峰した時に喜蔵院を創建。 日蔵が入峰。如意輪寺を開いたという。 相応安禅寺を創建。


昌泰元年(898)、宇多上皇が登拝 以来、平安京の貴族に御嶽精進と称して参拝が流行した。 天暦年間には中国にまで金峰山の名が伝わっていた。 白河上皇が登拝 [[藤原道長{{、頼通、師通 永承4年(1049)、興福寺僧の円縁が金峰山検校になり、興福寺の支配下に置かれるようになる。 白河上皇の信任を得た高算が中興。[[安禅寺]{に宝塔を建てた([[報恩]{の建立とも)。また高算が花供懺法会を始めたとされる。

中世

興福寺一乗院末となる。 塔頭寺院は天台宗の寺僧方(衆徒方)と真言宗の満堂方(禅徒方)に分かれる。 嘉禄2年(1226)、吉野衆徒が勝手明神子守明神の神輿を奉じて平安京に強訴。 南北朝時代の延元元年(1336)12月には後醍醐天皇が行幸。 最初は吉水院を行在所としたが、ついで実城寺を行宮として金輪王寺とした。 行宮が置かれた。

貞和4年(1348)、高師直の攻撃で焼失。南朝の行宮は賀名生に移された。


天文3年(1534)、浄土真宗飯貝御坊本善寺が山上蔵王堂を焼き討ち。

織田信長に寺領を没収されるが、文禄4年(1595)9月、豊臣秀吉が853石を改めて寄進。 天正20年、山下蔵王堂(現在の本堂)が再建?

近世

輪王寺宮の管轄下に置かれ、天台宗真言宗兼学になる?

慶長19年11月、大坂冬の陣で交戦中の徳川家康が天海を金峰山寺学頭に任命。 金輪王寺の名は日光に移され、実城寺と称した。

正保元年(1644)、勝手明神焼失。翌年再建。

近代

明治7年、神仏分離。全国的にみればかなり遅い。 明治12年、東南院が復興。

明治19年、山上蔵王堂の仏堂復帰が認められた 明治21年、金峰山寺復興

現代

昭和23年、天台宗から離脱。大峰修験宗を設立。 昭和27年、金峰山修験本宗と改名した。 昭和32年、南朝妙法殿を建立

組織

古代の金峰山検校

興福寺別当が金峰山検校を兼務した。一乗院門跡が多く、大乗院門跡もいる。 このリストはかなり不完全なものらしい

名前 生没 在職 備考
1 懐実 ?-?
2 尋範 1101-1174 興福寺別当。大乗院門跡。藤原師実の子。
3 恵信(慧信) 1124-1171 興福寺別当。一乗院門跡。大覚寺門跡。藤原忠通の子。九条兼実の兄。覚継。
4 信円 1153-1224 興福寺別当。一乗院門跡と大乗院門跡を兼務。大覚寺門跡。藤原忠通の四男。慈円の兄。
5 実尊 1180-1236 興福寺別当。大乗院門跡。藤原基房の子。
6 円実 1214-1272 興福寺別当。大乗院門跡。九条道家の子。
7 実信 1199-1256 興福寺別当。一乗院門跡、大乗院門跡。大覚寺門跡。
8 円実 (再任) (再任)
9 信昭 1253-1286 興福寺別当。一乗院門跡。大覚寺門跡。近衛兼経の子。
10 尊信 1226-1283 興福寺別当。大乗院門跡。九条教実の子。円実の弟子。
11 慈信 1257-1324 興福寺別当。大乗院門跡。
12 覚昭 ?-1308 興福寺別当。一乗院門跡。大覚寺門跡。近衛基平の子
13 良信 1278-1329 興福寺別当。一乗院門跡。大覚寺門跡。鷹司基忠の子。
14 良覚 1292-1333 興福寺別当。一乗院門跡。
15 覚実 1310-1351 興福寺別当。一乗院門跡。近衛家平の子。
16 実玄 ?-1387 一乗院門跡。近衛経忠の子。後醍醐天皇に従い流罪。
17 良昭 1363-1402 興福寺別当。一乗院門跡。近衛道嗣の子。
18 良兼 1385-1414 興福寺別当。一乗院門跡。近衛兼嗣の子。
19 昭円 1408-1472 興福寺別当。一乗院門跡。
20 雄玄 ?-?

(『日本仏家人名辞書』。これは「金峯山検校次第」(『修験道章疏』)[1]によるか)

『金峯山寺史』では 助憲 蔵算 金昭 元昭 澄円 円縁 貞禅 宗賢 懐真 貞禅 行俊 頼実 禅仁 隆寛 尋範 慧信 信円 実尊 良円 範円 実信 信昭 円実 をあげる。

後醍醐天皇を迎えた吉水院宗信は金峰山寺「執行」だったというが不詳。

江戸時代の学頭

天台座主や輪王寺宮を住職とする見方もあるが、学頭を住職とみなしている。幕府から任命されるため公儀学頭とも呼ばれる。学頭は比叡山の高僧が兼任するのが一般的で、吉野にいることは少なかったと思われる。実務は吉野の一山寺院(寺僧方)から選ばれた学頭代が行った。

名前 生没 在職 備考
中興 天海 1536-1643 1614-? 興福寺支配から吉野を切り離し、輪王寺宮の支配下に置く。1614年(慶長19年)金峰山寺学頭に就任。
学頭01 豪俔 ?-1654 1641-? 初代学頭。自坊は延暦寺双厳院。1641年(寛永18年)学頭に就任。学頭の住房として実城寺を再興。
学頭02 最順 1593-1677 1661-? 自坊は延暦寺明王院。1661年(寛文1年)就任。
学頭03 義道(義胤) ?-1706 1683-1691 自坊は延暦寺願王院。1683年(天和3年)就任。1691年(元禄4年)退任。三諦院と号す。
学頭04 章海 1636-1713 1692-? 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1692年(元禄5年)就任。証浄院と号す。
学頭05 智周 1659-1743 自坊は延暦寺願王院。『台宗二百題』を執筆。
学頭06 厳覚 ?-1720 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。成道院と号す。
学頭07 豪禅 ?-1726 1722-? 自坊は延暦寺正覚院(東塔学頭)。1722年(享保7年)就任。大常院と号す。
学頭08 豪雲 ?-1750 ?-1739 自坊は延暦寺正覚院(東塔学頭)。1739年(元文4年)就任。妙禅房と号す。
学頭09 貫統 ?-1744 1739-? 自坊は延暦寺行光坊、延暦寺竹林院。1739年(元文4年)就任。一性院と号す。
学頭10 豪忠 ?-1752 1746-? 比叡山の延暦寺正観院(西塔学頭)、正覚院(東塔学頭)を歴任。1746年(延享3年)就任。非生院と号す。
学頭11 忍達 1694-1780 1752-1767 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1752年(宝暦2年)就任。1767年(明和4年)退任。のち寛永寺凌雲院に転任。心浄院と号す。
学頭12 孝賢 ?-1768 1768-1768 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1768年(明和5年)就任。同年死去。証道院と号す。
学頭13 良諶 1713-1803 1768-? 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1768年(明和5年)就任。到地院と号す。
学頭14 詮栄 1744-1823 1806-? 自坊は延暦寺法満院、延暦寺恵心院(横川学頭)。1806年(文化3年)就任。
学頭15 韶栄 1749-1823 大慧明院と号す。
学頭16 光〓 1771-1841 自坊は延暦寺恵恩院
学頭17 豪順 1782-1857 正定聚院と号す。
学頭18 真洞 ?-1863 1858-? 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1858年(安政5年)就任。
学頭19 慈悛 ?-? 1864-1870 自坊は延暦寺正観院(西塔学頭)。1864年(元治1年)就任。1870年(明治3年)退任。
学頭20 藤本道盈 1807-1885 1871-1873? 延暦寺恵心院、延暦寺正覚院を歴任。1873年(明治6年)、妙法院門跡門主42世。(略歴は妙法院#組織を参照)

(『金峯山寺史』)

江戸時代の学頭代

明治以後の住職

20年近く廃絶。復興後、住職は天台宗の「修験道管領」という役職を兼任。戦後の独立後は住職を「管領」と称す。

名前 生没 在職 備考
出雲路順観 1840-1918 1889年(明治22年)10月24日~1897年(明治30年)5月24日 桜本坊住職。
尾上慈純 ?-? 比叡山覚林坊から晋山。
山岡観澄 1844-1911 1900年(明治33年)6月27日~1904年(明治37年)10月19日 曼殊院門跡が本務。天台座主に転任。
薗光轍 1846?-1923 1904年(明治37年)11月~? 妙法院門跡に転任。
稗貫亮算 1852?-1925 1915年(大正4年)4月~1917年(大正6年)8月1日 廬山寺毘沙門堂に転任。
長尾智泉 1869?-1936 1918年(大正7年)7月~1934年(昭和9年)秋 平泉寺鰐淵寺を経て晋山。海外布教を推進。寺院経営を立て直す。
長尾寂泉 1890-1943 1934年(昭和9年)8月28日~1941年(昭和16年)9月5日 智泉の弟子。廬山寺から晋山。1939年(昭和14年)、後醍醐天皇600年忌。宗派合同。
三崎良泉 1892-1976 1941年(昭和16年)9月5日~1947年(昭和22年)9月10日 妙法院門跡門主47世に転任。大無礙光院。(略歴は妙法院#組織を参照)
管領27 五条覚澄 ?-? 1947年(昭和22年)10月~ 東南院住職。金峯山修験本宗初代管長。父は五条順海。近江・西明寺で得度。延暦寺安祥院で学ぶ。大正14年、24歳で東南院住職。昭和22年10月、金峰山寺住職就任。天台宗延暦寺派を離脱。昭和26年、脳天大神を感得。
管領28 五条順教 1926-2009 1971年(昭和46年)~2009年(平成21年) 覚澄の子。2代管長。大正15年11月9日生。大正大学卒。昭和13年得度。昭和44年副住職副管長。昭和46年管領管長。昭和49年、四無行を満行。脳天大神を感得。平成21年5月16日死去。著書に『修験道のこころ』『修験道に学ぶ』など。(『奈良県人物人材情報リスト2017』)
管領29 五条覚堯 ?-? 2009年(平成21年)~2013年(平成25年)7月31日 覚澄の子。3代管長。
管領30 五条覚照 ?-? 2013年(平成25年)8月1日~2015年(平成27年) 覚澄の子。4代管長。
管領31 五条良知 1964- 2015年(平成27年)6月~ 5代管長。五条順教の娘婿。

(『金峯山寺史』ほか)

年表

  • 673年(天武2年):役小角が山上ケ岳で蔵王権現を感得して涌出岩の上に祀ったのが起源。
  • 角乗が天武天皇離宮の日雄殿を寺院として桜本坊を創建
  • 818年(弘仁9年):空海が入峰し竹林院を創建。
  • 聖宝が中興。如意輪観音、多聞天、蔵王権現を祀ったという。さらに牟田の渡しを設けたとされる。
  • 承和年間:円珍が入峰した時に喜蔵院を創建。
  • 日蔵が入峰。如意輪寺を開いたという。
  • 相応安禅寺を創建。
  • 898年(昌泰1年)、宇多上皇が登拝以来、平安京の貴族に御嶽精進と称して参拝が流行した。
  • 天暦年間:中国にまで金峰山の名が伝わっていた。
  • 白河上皇が登拝
  • 藤原道長、頼通、師通
  • 1507年(永正4年):興福寺僧の円縁が金峰山検校になり、興福寺の支配下に置かれるようになる。
  • 白河上皇の信任を得た高算が中興。[[安禅寺]{に宝塔を建てた([[報恩]{の建立とも)。また高算が花供懺法会を始めたとされる。
  • 興福寺一乗院末となる。子院は天台宗の寺僧方(衆徒方)と真言宗の満堂方(禅徒方)に分かれる。
  • 1226年(嘉禄2年):吉野衆徒が勝手明神子守明神の神輿を奉じて平安京に強訴。
  • 1336年(延元1年)12月には後醍醐天皇が行幸。最初は吉水院を行在所としたが、ついで実城寺を行宮として金輪王寺とした。
  • 1348年(貞和4年):高師直の攻撃で焼失。南朝の行宮は賀名生に移された。
  • 1534年(天文3年):浄土真宗飯貝御坊本善寺が山上蔵王堂を焼き討ち。
  • 織田信長に寺領を没収される。
  • 1595年(文禄4年)9月:豊臣秀吉が853石を改めて寄進。
  • 1592年(文禄1年):山下蔵王堂(現在の本堂)が再建?
  • 輪王寺宮の管轄下に置かれ、天台宗真言宗兼学になる?
  • 1614年(慶長19年)11月、大坂冬の陣で交戦中の徳川家康が天海を金峰山寺学頭に任命。金輪王寺の名は日光に移され、金峰山寺本坊を実城寺と称した。
  • 1644年(正保1年):勝手明神焼失。翌年再建。
  • 1874年(明治7年):神仏分離。全国的にみればかなり遅い。
  • 1879年(明治12年):東南院が復興。
  • 1886年(明治19年):山上蔵王堂の仏堂復帰が認められた
  • 1888年(明治21年):金峰山寺復興
  • 1914年(大正3年)9月15日:境内御供所竣工
  • 1915年(大正4年)4月17日:稗貫亮算が修験道管領となり、金峰山寺住職となる。
  • 1916年(大正5年)10月30日:金峰山寺明細帳を作成
  • 1918年(大正7年)7月:長尾智泉が修験道管領となり、金峰山寺住職となる。
  • 1918年(大正7年):吉野宮、吉野神宮と改称。
  • 1919年(大正8年)10月:機関誌『修験道』を創刊。
  • 1921年(大正10年)7月23日:北海道小樽に大峯修験教会光明院支部を設置。
  • 1922年(大正11年)10月22日:八十八支部、天王寺公園で軍艦新高遭難者追弔、役小角1200年遠忌、支部設置の大護摩。
  • 1922年(大正11年)11月:大峰山寺本堂前で鋳造製経筒・双鷲八稜鏡などを発見。
  • 1923年(大正12年)3月18日:金峰山寺蔵王堂の屋根葺替完了。
  • 1923年(大正12年)5月25日:台湾台南州知事、天台宗修験道台南布教所の設置を認可。
  • 1923年(大正12年)7月24日:文部省、神仏道教会所規則を制定。
  • 1924年(大正13年)2月1日:蔵王堂、修理完了。
  • 1924年(大正13年)4月28日:100番目の事務支局を名古屋市西区に設置。
  • 1924年(大正13年)6月18日:金峰山寺、新しい本坊が竣工し、移転する。
  • 1924年(大正13年)7月20日:兵庫県有馬郡神吉村の蔵王堂、女人禁制を解除する。
  • 1924年(大正13年)10月21日:大阪三郷組、行者還りなど石碑19基を大峰山寺に寄付する。
  • 1924年(大正13年):台湾基隆港の法王寺に裁縫専修院を設置。
  • 1925年(大正14年)2月3日:星祭を初めて実施。
  • 1925年(大正14年)5月5日:中国青島市の不動講社の設立を承認。
  • 1925年(大正14年)6月29日:鳴川山林訴訟の判決。金峰山寺敗訴。
  • 1925年(大正14年)7月20日:威徳天満宮、屋根葺替。正遷座祭。
  • 1925年(大正14年)9月:洞川竜泉寺、「大峯山本部」を名乗り、また大峯山主の印を押し勧進したため吉野山と係争となる。
  • 1925年(大正14年):如意輪寺、多宝塔建立。
  • 1926年(昭和1年)2月:「教師県別名簿」を作成。
  • 1926年(昭和1年)3月:大阪三郷組峰分、仁王門の扁額を奉納。
  • 1926年(昭和1年)6月5日:流出した元山上本堂の神鏡が金峰山寺に返還される。
  • 1926年(昭和1年)6月:「支局所属名簿」作成。
  • 1927年(昭和2年)4月3日:蔵王堂落慶法要。5日まで。
  • 1929年(昭和4年)5月:柏木から山上までの丁石が建立される。
  • 1930年(昭和5年)7月7日:蓮華会を復興。
  • 1930年(昭和5年)9月:朝鮮可条里に天台宗修験道の布教所落成
  • 1930年(昭和5年):東南院参籠所改築
  • 1931年(昭和6年)4月3日:村上義光600回忌を金峰山寺で執行。
  • 1931年(昭和6年)5月30日:修験少年団吉野支部発会式。
  • 1931年(昭和6年)7月14日:朝鮮総督府、天台宗布教管理者設置の認可。
  • 1931年(昭和6年)7月8日:一の行場(柳の渡)の不動明王を復興。
  • 1934年(昭和9年)8月10日:役小角誕生1300年。聖護院7万人が仁王護国経を写経。蔵王堂(金峰山寺?大峰山寺?)で勤行し、12日に山上お花畑に埋納。
  • 1934年(昭和9年)8月28日:長尾寂泉、修験道管領となり金峰山寺住職となる。
  • 1935年(昭和10年)10月30日:「金峰山寺明細帳」作成。
  • 1936年(昭和11年)11月3日:修験道管領長尾寂泉、類似宗教の出現と教師訓戒のため論示。
  • 1936年(昭和11年)11月7日:在郷軍人会など、金峰山寺蔵王堂で招魂祭を実施。
  • 1937年(昭和12年)4月25日:延暦寺開創1150年記念大法会で大護摩供を修す。
  • 1937年(昭和12年)8月8日:四天王寺で国祷大護摩供を修す。
  • 1937年(昭和12年)9月7日:吉野町仏教団、国威宣揚武運長久大祈祷を蔵王堂で実施。
  • 1937年(昭和12年)10月3日:奈良県主催の国威宣揚武運長久大護摩供を蔵王堂で実施。
  • 1937年(昭和12年)11月1日:修験道管領長尾寂泉、日中戦争に関する論告を発す。
  • 1938年(昭和13年)4月3日:『修験行者初等教科書』を発行。
  • 1938年(昭和13年)10月26日:修験道管領長尾寂泉、比叡山四明岳で国威宣揚の大護摩供を修す。
  • 1938年(昭和13年)11月22日:東南院、多宝塔移築落慶。
  • 1939年(昭和14年)10月1日:後醍醐天皇600年忌法要。3日まで。
  • 1941年(昭和16年)9月5日:三崎良泉、修験道管領となり金峰山寺住職となる。
  • 1941年(昭和16年):天台宗延暦寺派、天台宗寺門派、天台宗真盛派が合同して、合同天台宗が成立。金峰山寺はその修験道別格本山となる。
  • 1942年(昭和17年)4月13日:大峰山寺、設立認可。天台宗・真言宗の両属となる。
  • 1943年(昭和18年):仁王門解体修理を開始。
  • 1944年(昭和19年):大峰山寺、無住となる。
  • 1946年(昭和21年)8月10日:大峰山の女人禁制について軍政部から指令を受ける。
  • 1947年(昭和22年)10月:五条覚澄、金峰山寺管領に就任。
  • 1947年(昭和22年)12月16日:一山寺院総会、毎月3が日の出仕復活を決める。
  • 1948年(昭和23年)1月:金峰山寺機関誌「しゅげん」創刊。
  • 1948年(昭和23年)2月1日:金峰山寺、天台宗延暦寺派から離脱。
  • 1948年(昭和23年)4月1日:金峰山寺、「大峯修験宗」を設立。五条覚澄が管長になる。10日に奉告法要。
  • 1948年(昭和23年)4月15日:金峰山寺機関紙『大峯修験』創刊。
  • 1948年(昭和23年)7月:金峰山寺の奥駈修行を復活。
  • 1948年(昭和23年)8月11日:五条覚澄ら、大峰山寺特別関係寺院の資格をめぐり、龍泉寺岡田戒玉を奈良地裁に告訴。
  • 1949年(昭和24年)4月5日:五条覚澄ら、浅草寺本堂地鎮祭で採灯大護摩供を修する。
  • 1950年(昭和25年)11月19日:吉野山に女人行場を開く。
  • 1951年(昭和26年)4月8日:仁王門改修落慶。
  • 1951年(昭和26年)4月9日:山下行場入口に役小角銅像を設置。
  • 1951年(昭和26年)6月28日:金龍の瀧、落水。
  • 1951年(昭和26年)10月26日:天台宗と大峯修験宗、大峰山寺について協定を結ぶ。
  • 1951年(昭和26年):脳天大神を祀る。
  • 1952年(昭和27年)4月9日:10日まで宗会を開く。宗教法人法施行にともなう新宗制・寺法などを制定。
  • 1952年(昭和27年)4月11日:大峯修験宗を金峰山修験本宗と改称。
  • 1952年(昭和27年)5月6日:奈良県、大峰山寺規則を認証。
  • 1958年(昭和33年)10月:南朝妙法殿を建立
  • 1964年(昭和39年)3月20日:機関紙「金峯山」創刊。
  • 1965年(昭和40年)10月16日:南朝妙法殿落成。
  • 1966年(昭和41年):大和高田市の奥田行者堂を福田寺と改称し末寺とする。
  • 1967年(昭和42年)5月4日:銅鳥居解体修理完成慶讃法要
  • 1967年(昭和42年)6月1日:機関紙「金峯山」を「金峯山時報」と改称。
  • 1967年(昭和42年)11月25日:五条覚澄ら、インドのベンガル州知事公邸でガンジー首相から仏舎利を授与される。12月11日に金峰山寺で奉迎法要を行う。
  • 1969年(昭和44年)6月7日:これより毎月7日を本尊奉謝祭とする。
  • 1969年(昭和44年)11月30日:ハワイ別院を落慶。
  • 1969年(昭和44年)12月12日:徳島県麻植郡の聖天寺を四国別院に昇格する。
  • 1969年(昭和44年):中山玄雄の指導で金峰山寺流(吉野流)声明を建てる。
  • 1970年(昭和45年)2月6日:女人禁制区域を改正。洞川道は清浄大橋、吉野道は五番関を結界とする。
  • 1970年(昭和45年)3月8日:第1回支局長会議。支局旗を授与。
  • 1971年(昭和46年)4月28日:最澄1050年遠忌で延暦寺根本中堂前で大護摩供を修す。
  • 1972年(昭和47年)4月1日:青年部設立。
  • 1972年(昭和47年)11月30日:吉水神社書院修理完了。
  • 1973年(昭和48年)2月18日:会式協賛会を改組。
  • 1973年(昭和48年)8月:仁王像の解体修理完成。
  • 1974年(昭和49年)11月8日:聖仏舎利宝殿落成慶讃法要。
  • 1975年(昭和50年)11月:吉野水分神社、拝殿幣殿修理完了。
  • 1976年(昭和51年)3月14日:宗議会で参事会の設置を決める。
  • 1976年(昭和51年)11月23日:延暦寺と大峰山寺の法灯を仏舎利殿に奉安する。
  • 1977年(昭和52年)9月28日:青森別院天清寺落慶
  • 1978年(昭和53年)10月16日:宝泉坊水子地蔵堂建立。
  • 1979年(昭和54年)3月22日:宗会制度から理事会制度に変更。
  • 1980年(昭和55年)6月15日:ハワイ別院蔵王寺開山法要。
  • 1981年(昭和56年)6月6日:修験行院(吉野学林)解説。
  • 1982年(昭和57年)11月15日:観音堂解体修理。
  • 1983年(昭和58年)2月28日:宗務庁庁舎竣工。
  • 1983年(昭和58年)4月1日:大峰山寺本堂解体修理に着手。
  • 1983年(昭和58年)11月30日:旧護摩堂の修理完成。12月27日、愛染明王を蔵王堂から奉遷して愛染堂とする。
  • 1984年(昭和59年)6月20日:柳沢真悟、大峰回峰千日行を初めて満行。
  • 1984年(昭和59年)10月31日:蔵王堂、昭和大修理完了。
  • 1984年(昭和59年)11月18日:護摩道場に東南院の不動明王を奉安。
  • 1986年(昭和61年)12月31日:大峰山寺本堂解体修理竣工。
  • 1987年(昭和62年)8月1日:宗報「金峯山」創刊(のち『修験道』と改題)。
  • 1987年(昭和62年)8月:吉野水分神社、楼門・廻廊竣工。
  • 1987年(昭和62年)9月15日:22日まで大峰山寺解体修理落慶法要。
  • 1987年(昭和62年):金峰山寺、教学振興所・金峯山寺史編纂室を開設。
  • 1989年(平成1年)3月19日:善福寺本堂落慶
  • 1989年(平成1年)3月26日:東南院護摩堂解体修理落慶
  • 1989年(平成1年)9月16日:笙ノ窟、百日参籠満行。
  • 1989年(平成1年)9月21日:大峰山寺絵馬堂落慶


  • 1999年(平成11年)11月20日:足摺宿に堂と小屋を復興する。
  • 2000年(平成12年)5月11日:本地堂落慶。
  • 2000年(平成12年)5月12日:6月7日まで役小角1300年大遠忌法要。
  • 2000年(平成12年)8月27日:金峰山寺・聖護院・醍醐寺三宝院・大峰山寺の合同で役小角1300御遠忌慶讃合同大法要を大峰山寺で執行。
  • 2000年(平成12年)12月10日:『金峯山寺史料集成』発刊。
  • 2000年(平成12年)12月31日:威徳天満宮修理完了。
  • 2001年(平成13年)9月27日:不審火のため勝手神社が全焼。
  • 2002年(平成14年)4月1日:修験道儀礼研究室設立。
  • 2002年(平成14年)9月13日:役行者霊蹟札所会設立。
  • 2003年(平成15年)9月:本尊蔵王権現像3体を修復。
  • 2003年(平成15年)10月12日:大五輪塔を本地堂の脇に建立。
  • 2004年(平成16年):世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産となる。
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