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寂光院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*田中重久1959「建礼門院伝の考証と寂光院創始の推測-下-」『史迹と美術』29-7 | *田中重久1959「建礼門院伝の考証と寂光院創始の推測-下-」『史迹と美術』29-7 | ||
*田中重久1959「建礼門院伝の考証と寂光院創始の推測-上-」『史迹と美術』29-6 | *田中重久1959「建礼門院伝の考証と寂光院創始の推測-上-」『史迹と美術』29-6 |
2021年10月31日 (日) 時点における版
寂光院(じゃっこういん)は京都府京都市左京区大原草生町にある天台宗寺院。本尊は地蔵菩薩。平清盛娘の建礼門院徳子が隠棲した。尼寺とされる。裏山に建礼門院の大原西陵がある。寺号は玉泉寺。山号は清香山。
歴史
開創は聖徳太子、または空海、あるいは良忍ともいう。初代住職は日本最初の三比丘尼の一人である慧善という。 1165年(永万1年)、阿波内侍が出家して証道と名乗り、入寺した。これを2代住職とみなしているという。 1185年(文治1年)、壇之浦の戦いで平家が滅亡した後、建礼門院徳子が隠棲して真如覚と名乗り入寺。高倉天皇、安徳天皇、平家一門の冥福を祈ったという。翌1186年(文治2年)4月、後白河法皇が建礼門院を訪ねて御幸した。平家物語によると建礼門院は1191年(建久2年)2月、寂光院の阿弥陀三尊の中尊の手に五色の糸を結びつけて亡くなったという(現在は阿弥陀如来を祀っているかは不明)。
中世には聖衆来迎寺の末寺となった。 1603年(慶長8年)、淀殿の発願で伽藍再興。近世は、天台宗と浄土宗の兼学で寺領は30石だった。 2000年(平成12年)5月9日、本堂焼失。 2005年(平成17年)6月2日、再建。 (ウェブサイト、日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)
伽藍
- 本堂:本尊は地蔵菩薩は六万体地蔵菩薩と呼ばれる。2000年(平成12年)の焼失後、2005年(平成17年)に旧本堂そのままに再建。本尊は焼損した旧本尊を模刻し、美術院国宝修理所の小野寺久幸が造立したもの。また建礼門院像と阿波内侍像を祀る。火災後に平安仏所が造立。焼失した阿波内侍像は平家の手紙で作られた張り子の像とされるが、焼け残った書状からは室町時代の後期とみられる年号が見つかった。
- 弁天堂:現存未確認。
- 大原西陵:建礼門院の陵墓。
- 御庵室跡
- 阿波内侍墓
- 大納言佐局墓
- 右京大夫局墓
- 治部卿局墓
資料
- 京都府寺誌稿
- 田中重久1959「建礼門院伝の考証と寂光院創始の推測-下-」『史迹と美術』29-7
- 田中重久1959「建礼門院伝の考証と寂光院創始の推測-上-」『史迹と美術』29-6
- 小松智光1983『わが思う:ブッダと平和への道:上下』寂光院
- 小松智光1989『仏教の女性観』寂光院
- 小松智光・大木明1995『寂光院:京の古寺から10』淡交社
- 奥健夫1997「清涼寺・寂光院の地蔵菩薩像と「五境の良薬」―像内納入品論のために」『仏教芸術』234
- 京都市消防局2001「あれから1年―寂光院火災以降の文化財の防火防災対策」『近代消防』39-8
- 平塚桂・大窪健之・小林正美2001「木造文化財の防災における「地域力」に関する研究―大原・寂光院本堂火災を通して(都市計画)」『日本建築学会近畿支部研究報告集』41
- 平塚桂・大窪健之・小林正美2001「木造文化財の防災における「地域力」に関する研究―大原・寂光院本堂火災を通して(地域防災・都市計画)」『日本建築学会学術講演梗概集』
- 高桑いづみ・野川美穂子2004「鎌倉時代に制作された横笛―仏像胎内に納入された三例を中心に―」『芸能の科学』31[1]
- 鈴井千晶2004「大原御幸の道」『仏教大学大学院紀要』32[2]
- 延原隆司2005「寂光院本堂の復原」『建築研究協会誌』10
- 小松智光・瀧澤智明2005『寂光院の寺宝美術』
- 瀧澤智明・坪内稔典2009『寂光院:古寺巡礼京都38』淡交社