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大阪・綱敷天神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年10月10日 (火)
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- | '''綱敷天神社'''(つなしき・てんじんしゃ)は大阪府大阪市北区神山町(摂津国西成郡)にある、[[菅原道真旧跡]]の[[天満宮]]。祭神は、「[[嵯峨天皇]]、菅原道真公」である(綱敷天神社ウェブサイト)。[[天満宮聖跡二十五霊社]] | + | '''綱敷天神社'''(つなしき・てんじんしゃ)は大阪府大阪市北区神山町(摂津国西成郡)にある、[[菅原道真旧跡]]の[[天満宮]]。祭神は、「[[嵯峨天皇]]、菅原道真公」である(綱敷天神社ウェブサイト)。[[天満宮聖跡二十五霊社]]番外。村社。(参考:同名神社[[綱敷天満宮]]) |
嵯峨天皇行幸の地に源融が[[太融寺]]を建て、その境内に嵯峨天皇社を創建したのが創始とされる。菅原道真は太融寺に参拝し、紅梅を鑑賞したという。これが'''梅塚'''である。このとき、船の綱を敷物としたため、綱敷の名が生じた。菅原道真に付き従った[[度会春彦]]はこの地で別れ、当地に留まった。社家白江家になったという。死去後、[[北野天満宮]]の創始を受けて、この地にも祀り、嵯峨天皇社と並んで祀ったという。暦応年間に兵火により焼失し、その後、両社は合祀した祀るようになった。梅塚の地には常安寺があり、御旅所の[[梅塚天満宮]]があったが、明治維新後、茶屋町に遷座した。一説には'''梅田'''の名称はこの梅塚に由来するという。また一説には'''キタ'''の名称も天満宮があった北野村に由来するという。村社。(『北野誌』29頁) | 嵯峨天皇行幸の地に源融が[[太融寺]]を建て、その境内に嵯峨天皇社を創建したのが創始とされる。菅原道真は太融寺に参拝し、紅梅を鑑賞したという。これが'''梅塚'''である。このとき、船の綱を敷物としたため、綱敷の名が生じた。菅原道真に付き従った[[度会春彦]]はこの地で別れ、当地に留まった。社家白江家になったという。死去後、[[北野天満宮]]の創始を受けて、この地にも祀り、嵯峨天皇社と並んで祀ったという。暦応年間に兵火により焼失し、その後、両社は合祀した祀るようになった。梅塚の地には常安寺があり、御旅所の[[梅塚天満宮]]があったが、明治維新後、茶屋町に遷座した。一説には'''梅田'''の名称はこの梅塚に由来するという。また一説には'''キタ'''の名称も天満宮があった北野村に由来するという。村社。(『北野誌』29頁) |
2023年10月10日 (火) 時点における最新版
綱敷天神社(つなしき・てんじんしゃ)は大阪府大阪市北区神山町(摂津国西成郡)にある、菅原道真旧跡の天満宮。祭神は、「嵯峨天皇、菅原道真公」である(綱敷天神社ウェブサイト)。天満宮聖跡二十五霊社番外。村社。(参考:同名神社綱敷天満宮)
嵯峨天皇行幸の地に源融が太融寺を建て、その境内に嵯峨天皇社を創建したのが創始とされる。菅原道真は太融寺に参拝し、紅梅を鑑賞したという。これが梅塚である。このとき、船の綱を敷物としたため、綱敷の名が生じた。菅原道真に付き従った度会春彦はこの地で別れ、当地に留まった。社家白江家になったという。死去後、北野天満宮の創始を受けて、この地にも祀り、嵯峨天皇社と並んで祀ったという。暦応年間に兵火により焼失し、その後、両社は合祀した祀るようになった。梅塚の地には常安寺があり、御旅所の梅塚天満宮があったが、明治維新後、茶屋町に遷座した。一説には梅田の名称はこの梅塚に由来するという。また一説にはキタの名称も天満宮があった北野村に由来するという。村社。(『北野誌』29頁)
画像
参考文献
- 梅原達治1989(平成1)「松浦武四郎『聖跡二十五霊社順拝双六』」『札幌大学教養部教育研究』
- 『北野誌』「全国天満宮所在地一覧」
- 天満信仰#参考文献