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延暦寺横川霊山院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年7月17日 (月)
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- | '''延暦寺霊山院'''(えんりゃくじ・りょうぜんいん)は、滋賀県大津市の[[比叡山]][[延暦寺]]横川地区兜率谷にあった[[源信]]ゆかりの[[天台宗]] | + | '''延暦寺霊山院'''(えんりゃくじ・りょうぜんいん)は、滋賀県大津市の[[比叡山]][[延暦寺]]横川地区兜率谷にあった[[源信]]ゆかりの[[天台宗]]寺院。本尊は[[釈迦如来]]。廃絶。[[神蔵寺]]、[[比叡山・香積寺|香積寺]]、[[帝釈寺]]、[[比叡山・青龍寺|青龍寺]]と並んで比叡山五別所の一つ。[[源信墓]]の南方、行者道の傍にあったと伝わり、中世墓地霊山遺跡の跡に建てられた滋賀医科大学慰霊碑周辺とも言われるが、正確な位置は不明。(参考:同名寺院[[霊山院]]。東塔無動谷にも霊山院があり里坊が現存) |
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
- | + | 正暦年間(990-995)、源信が創建。寛弘4年(1007)、源信は毎日の生身供の作法を詳細に定めた『霊山院釈迦堂毎日作法』と『霊山院式』を著した。これは本尊を生きている釈迦に擬すもので、暑い日には扇、寒い日には爐を供えることが定められていた。同様の信仰があった[[京都・清凉寺]]への対抗として創始されたとも言われる。壁面には十大弟子が描かれ、ここで奉仕する僧俗は釈迦在世時の仏弟子のように振る舞うことが目指された。毎月晦日には法華経を講説する霊山釈迦講が行われた。永仁4年(1296)の文書によれば当時、本堂の他、鐘楼、経蔵、[[三十番神]]、如法普賢道場、また妙釈房、法釈房、蓮釈房、花釈房、如法経料紙供台、大湯屋の6坊があった。[[織田信長]]の焼き討ち後は再建されなかった。霊山院にあった『毎日作法』と『六道絵』は[[聖衆来迎寺]]に伝わっている。(日本歴史地名大系、源信展図録、霊山遺跡発掘調査概要[http://sitereports.nabunken.go.jp/5280]) | |
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2017年7月17日 (月) 時点における最新版
延暦寺霊山院(えんりゃくじ・りょうぜんいん)は、滋賀県大津市の比叡山延暦寺横川地区兜率谷にあった源信ゆかりの天台宗寺院。本尊は釈迦如来。廃絶。神蔵寺、香積寺、帝釈寺、青龍寺と並んで比叡山五別所の一つ。源信墓の南方、行者道の傍にあったと伝わり、中世墓地霊山遺跡の跡に建てられた滋賀医科大学慰霊碑周辺とも言われるが、正確な位置は不明。(参考:同名寺院霊山院。東塔無動谷にも霊山院があり里坊が現存)
歴史
正暦年間(990-995)、源信が創建。寛弘4年(1007)、源信は毎日の生身供の作法を詳細に定めた『霊山院釈迦堂毎日作法』と『霊山院式』を著した。これは本尊を生きている釈迦に擬すもので、暑い日には扇、寒い日には爐を供えることが定められていた。同様の信仰があった京都・清凉寺への対抗として創始されたとも言われる。壁面には十大弟子が描かれ、ここで奉仕する僧俗は釈迦在世時の仏弟子のように振る舞うことが目指された。毎月晦日には法華経を講説する霊山釈迦講が行われた。永仁4年(1296)の文書によれば当時、本堂の他、鐘楼、経蔵、三十番神、如法普賢道場、また妙釈房、法釈房、蓮釈房、花釈房、如法経料紙供台、大湯屋の6坊があった。織田信長の焼き討ち後は再建されなかった。霊山院にあった『毎日作法』と『六道絵』は聖衆来迎寺に伝わっている。(日本歴史地名大系、源信展図録、霊山遺跡発掘調査概要[1])