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妙覚寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''妙覚寺'''(みょうがくじ)は、京都府京都市上京区下清蔵口町にある[[日蓮宗]] | + | '''妙覚寺'''(みょうがくじ)は、京都府京都市上京区下清蔵口町にある[[日蓮宗]]寺院。本尊は[[十界大曼荼羅]]。不受不施派の源流となった寺院。現在は[[日蓮宗久遠寺派]]の由緒寺院・本山。通称は'''北龍華'''。山号は具足山。(参考:同名寺院[[妙覚寺_(同名)]]) |
==歴史== | ==歴史== | ||
- | + | ===妙顕寺からの分立=== | |
+ | 1378年、[[大覚]]の弟子の日実が、[[妙顕寺]]の継承に異を唱えて実弟の日成と共に退出し、小野妙覚尼の邸宅を寄進されて寺としたのが始まり。 | ||
+ | 同年、日実は死去が実質的な基礎を固めたのは日成とみられる。 | ||
+ | 日成は1413年、不受不施を強調した「法華宗異体同心法度」を定めた。 | ||
+ | 1466年2月16日、寛正の盟約。 | ||
当初は四条大宮にあったが、1473年に将軍の命で室町二条(妙覚寺町)に移転。 | 当初は四条大宮にあったが、1473年に将軍の命で室町二条(妙覚寺町)に移転。 | ||
- | + | 1496年、妙蓮寺と教義を巡って争議となるが幕府の仲介で調停となる。 | |
- | + | 1536年の天文法難で焼失。堺に逃れた。 | |
+ | 1542年、洛内還住の勅許。 | ||
+ | 1548年、旧地に再建された。 | ||
1564年、十六本山会合定書を締結。 | 1564年、十六本山会合定書を締結。 | ||
- | + | 1582年に本能寺の変で焼失。織田信忠が妙覚寺に滞在していたため。 | |
- | + | ===不受不施の興隆=== | |
- | + | 1590年頃に[[豊臣秀吉]]の都市再開発で現在地に移転した。 | |
- | + | 1595年、秀吉が[[京都・方広寺]]大仏への出仕を命じると、不受不施の立場から妙覚寺[[日奥]]はこれを拒否して寺を退去した。政権側は特に問題視せずに制裁もなかった。 | |
1599年、日奥が帰還の動きを見せると十六本山は警戒し、奉行所に訴えた。 | 1599年、日奥が帰還の動きを見せると十六本山は警戒し、奉行所に訴えた。 | ||
- | + | 日奥は大坂城に召喚され、11月20日に[[徳川家康]]の前で受派の妙顕寺日紹と堺[[妙国寺]]日統と問答した。 | |
大坂対論と呼ばれる。結果、日奥は対馬流罪となった。 | 大坂対論と呼ばれる。結果、日奥は対馬流罪となった。 | ||
- | + | 1612年に赦免され、1616年に住職に復帰し、1630年に妙覚寺で死去した。 | |
+ | ===近世の整備=== | ||
1599年に京都でも最大規模の祖師堂を建立した。 | 1599年に京都でも最大規模の祖師堂を建立した。 | ||
元禄年間に境内の大規模整備。 | 元禄年間に境内の大規模整備。 | ||
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== 子院 == | == 子院 == | ||
- | * | + | *善明院: |
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== 組織 == | == 組織 == | ||
===歴代住職=== | ===歴代住職=== | ||
- | * | + | *1[[日像]] |
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*3朗源 | *3朗源 | ||
- | *4日実(1318-1378)<1378-1378> | + | *4日実(1318-1378)<1378-1378>:柳華院。紀伊出身。大覚の弟子。通覚。1378年、妙顕寺4世を日霽が継いだことに異を唱えて、1月18日に退出。実弟の日成と共に妙覚寺を創建した。同年6月7日死去。 |
*5日成(?-1415)<1378->:明珠院。日実の実弟。日実と共に妙顕寺を出て妙覚寺を創建。1413年、不受不施を強調した「法華宗異体同心法度」を定めた。佐渡根本寺を創建? | *5日成(?-1415)<1378->:明珠院。日実の実弟。日実と共に妙顕寺を出て妙覚寺を創建。1413年、不受不施を強調した「法華宗異体同心法度」を定めた。佐渡根本寺を創建? | ||
*6日遵()<>:妙華院。日成の弟子。 | *6日遵()<>:妙華院。日成の弟子。 | ||
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*10日寮? | *10日寮? | ||
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2019年12月31日 (火) 時点における版
妙覚寺(みょうがくじ)は、京都府京都市上京区下清蔵口町にある日蓮宗寺院。本尊は十界大曼荼羅。不受不施派の源流となった寺院。現在は日蓮宗久遠寺派の由緒寺院・本山。通称は北龍華。山号は具足山。(参考:同名寺院妙覚寺_(同名))
目次 |
歴史
妙顕寺からの分立
1378年、大覚の弟子の日実が、妙顕寺の継承に異を唱えて実弟の日成と共に退出し、小野妙覚尼の邸宅を寄進されて寺としたのが始まり。 同年、日実は死去が実質的な基礎を固めたのは日成とみられる。 日成は1413年、不受不施を強調した「法華宗異体同心法度」を定めた。 1466年2月16日、寛正の盟約。 当初は四条大宮にあったが、1473年に将軍の命で室町二条(妙覚寺町)に移転。 1496年、妙蓮寺と教義を巡って争議となるが幕府の仲介で調停となる。 1536年の天文法難で焼失。堺に逃れた。 1542年、洛内還住の勅許。 1548年、旧地に再建された。 1564年、十六本山会合定書を締結。 1582年に本能寺の変で焼失。織田信忠が妙覚寺に滞在していたため。
不受不施の興隆
1590年頃に豊臣秀吉の都市再開発で現在地に移転した。 1595年、秀吉が京都・方広寺大仏への出仕を命じると、不受不施の立場から妙覚寺日奥はこれを拒否して寺を退去した。政権側は特に問題視せずに制裁もなかった。 1599年、日奥が帰還の動きを見せると十六本山は警戒し、奉行所に訴えた。 日奥は大坂城に召喚され、11月20日に徳川家康の前で受派の妙顕寺日紹と堺妙国寺日統と問答した。 大坂対論と呼ばれる。結果、日奥は対馬流罪となった。 1612年に赦免され、1616年に住職に復帰し、1630年に妙覚寺で死去した。
近世の整備
1599年に京都でも最大規模の祖師堂を建立した。 元禄年間に境内の大規模整備。 1788年、天明の大火で焼失。再建には時間が掛かった。
子院
- 善明院:
- 玉泉院:
- 実成院:
- 円蔵院:赦免後に日奥が滞在した。
組織
歴代住職
- 1日像
- 2大覚
- 3朗源
- 4日実(1318-1378)<1378-1378>:柳華院。紀伊出身。大覚の弟子。通覚。1378年、妙顕寺4世を日霽が継いだことに異を唱えて、1月18日に退出。実弟の日成と共に妙覚寺を創建した。同年6月7日死去。
- 5日成(?-1415)<1378->:明珠院。日実の実弟。日実と共に妙顕寺を出て妙覚寺を創建。1413年、不受不施を強調した「法華宗異体同心法度」を定めた。佐渡根本寺を創建?
- 6日遵()<>:妙華院。日成の弟子。
- 7日延(?-1444)<>:大聖院。和泉出身。日成の弟子。京都・本覚寺、紀伊妙台寺を創建。1429年、堺の経王寺を創建。
- 8日善()<>:
- 9日意?
- 10日寮?
- 11日住(1406-1486)<>:真如院。日延の弟子。本覚寺2世。寛正の盟約の締結に尽力。
- 12日享?
- 13日護(?-1532)<>:
- 14日賞?
- 15日兆(?-1536)<>:天文法難で戦死。
- 16日〓?
- 17日饒(?-1561)<>:観照院。斎藤道三の子。
- 18日典(?-1592)<1566-1592>:実成院。根本寺を再興。
- 19日奥(1565-1630)<1592-1595>:不受不施派の祖。備前出身。安国院。仏性院。1616年復帰。
- 日習(?-1653)<>:安国院。日奥の弟子。野呂檀林化主。弟子に日講。
- 日忠()<>:唯心院。備前出身。1603年、博多妙典寺でキリシタンと石城問答。イルマンの旧沢や安都に勝利。福岡勝立寺を創建。
- 日乾(1560-1635)<1630->:身延21世。
- 日衍(?-1637)<>:施林院。佐渡根本寺。
- 日宥()<>:
- 日廷(1613-1684)<>:尊賀。伏見宮邦房親王の王子。本満寺日暹に師事。飯高檀林、西谷檀林化主。妙覚寺就任。
- 日空(1625-1693)<>:観樹院。妙顕寺17世。
- 日允(1620-1693)<>:玄通。本通院。本阿弥光悦の子。中村檀林化主。本法寺、法華経寺、妙覚寺を歴任。
- 日従(1650-1708)<>:本圀寺22世。
- 日慈(1664-1735)<>:妙顕寺24世。六条檀林化主。中村檀林化主。
- 50日琮(?-1803)
- 51日運(1755-1833)<>:本圀寺36世。
- 55日〓(?-1837)<>:〓は「車易」。
- 旭日苗(1833-1916)<>:光勝寺、妙覚寺、本圀寺の貫首
- 83頂岳龍乗(-2011)<-2011>:日選。教務部長、日蓮宗新聞社社長。
- 84加歴
- 85及川日周()<2011->:
- 86宮崎日厳