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村上義光墓
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年7月3日 (金)
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太平記によると1333年閏2月1日、村上義光は[[護良親王]]を吉野山から逃すために、親王の鎧を着て「護良親王である」と名乗り敵を撹乱し、親王の身代わりとなって金峰山寺二天門で討死したという。 | 太平記によると1333年閏2月1日、村上義光は[[護良親王]]を吉野山から逃すために、親王の鎧を着て「護良親王である」と名乗り敵を撹乱し、親王の身代わりとなって金峰山寺二天門で討死したという。 | ||
首がこの地に打ち捨てられ、塚が建てられたという。[[吉野・大日寺]]を菩提寺とした。 | 首がこの地に打ち捨てられ、塚が建てられたという。[[吉野・大日寺]]を菩提寺とした。 | ||
- | + | 1783年10月建立の高取藩士内藤景文撰文の忠烈碑があるが、これは当初誤って子の[[村上義隆墓]]に建てられたのを1870年頃に移設したものという。 | |
1908年、従三位を追贈。 | 1908年、従三位を追贈。 | ||
なお神奈川県鎌倉市の[[鎌倉宮]]に村上義光を祀る[[村上社]]がある。 | なお神奈川県鎌倉市の[[鎌倉宮]]に村上義光を祀る[[村上社]]がある。 |
2020年7月3日 (金) 時点における最新版
奈良県吉野郡吉野町吉野山にある南朝忠臣の村上義光(?-1333)の墓。宝篋印塔がある。金峰山寺蔵王堂の西北1.3kmにある。吉野神宮と吉野山駐車場の中間にある。近くには峰の薬師堂があったという。
村上義日とも。従五位下左馬権頭。 太平記によると1333年閏2月1日、村上義光は護良親王を吉野山から逃すために、親王の鎧を着て「護良親王である」と名乗り敵を撹乱し、親王の身代わりとなって金峰山寺二天門で討死したという。 首がこの地に打ち捨てられ、塚が建てられたという。吉野・大日寺を菩提寺とした。 1783年10月建立の高取藩士内藤景文撰文の忠烈碑があるが、これは当初誤って子の村上義隆墓に建てられたのを1870年頃に移設したものという。 1908年、従三位を追贈。 なお神奈川県鎌倉市の鎌倉宮に村上義光を祀る村上社がある。 また2.1km東南には子の村上義隆墓がある。 (『日本歴史地名大系』他)